生得、姦人(しょうとく、かんじん)

橋本ちかげ

真田昌幸

 さて、真田昌幸である。このエッセイのテーマである生得しょうとく姦人かんじん、彼を『生まれながらの悪人』と罵ったのは人が悪い事で有名な徳川方である。正直な所で言えば、徳川官僚たちの、有力大名廃絶に懸ける底意地の悪さは、真田昌幸を手放しで悪人とは非難しがたいたちの悪いものだ。


 彼らの得意技である知らんぷり、聞いたふり、約束違反、言いがかり、濡れ衣等々の悪手は、この昌幸の手際のよさに徳川大名たちが翻弄された苦い経験から出たかもと邪推したくもなり、『腹に一物ある人』が真田昌幸と言う男の後世に渡る公評の責任の一端は同じ穴のむじなたる徳川家にあるとも言える。


 ちなみに悪謀の点で言うと、昌幸一代が傑出しており、疑り深い徳川方に警戒されたと言うのは、油断ならない悪漢と言う悪評が一般化する上で致命的だったともいえる。


 父、真田幸綱(幸隆)は武田信玄について、信濃侵略の中枢を担ったほどの凄腕工作員だったが、全身槍傷35箇所、武功自慢の『攻め弾正』の名をほしいままにした人物で、暗い暗殺や策謀の匂いのする逸話は、露ひとつもなかった。


 その子、昌幸が一筋縄ではいかない悪謀の主として名を馳せた背景にはやはり武田信玄の風采が大きい。信玄がその生涯を賭けて上杉謙信とも争った信濃侵略の中心人物ともなった真田幸綱は、信玄にとっては、


御譜代同様ごふだいどうよう


 血縁者同様の厚遇を受けてきた。家督は長男が継ぎ、幼い頃から信玄の小姓を務めた昌幸は、信玄には相当にかわいがられて育ったとみて間違いない。


 例えば昌幸が『喜兵衛尉きへいのじょう』を称して継いだ武藤家むとうけは、信玄の生母大井夫人おおいふじんに連なる名家である。


『甲陽軍鑑』には、年若の昌幸が三方原の戦いに出兵し、敗走する家康への追い首(追撃)について献策するくだりがあると言うが、年若の昌幸が全盛期の信玄に意見したかはともかく、当主の急逝した武藤家を引き継いで武田の譜代として、本陣を守る旗本のなかに数えられたと言う事実は、信玄肝煎りの昌幸の立場を推して知るべしである。


 証拠に信玄死後、真田家の家督を継いだ昌幸は、幸隆以上の勢力を誇るが綱渡りとも言える鮮やかな外交手腕は、信玄の衣鉢を継いだもの、と評せざるを得ぬばかりの魔術的な名人芸だ。


『羽尾記』には上野沼田城を軍勢も用いずに分捕った昌幸のユニークきわまりない策謀が描かれているが、のらりくらりと決戦を避けつつ、決めるときには一気に不意打ちでことを決めてしまう昌幸の手法は、戦国大名にとって最も恐るべきものであったに違いない。情報操作の巧みさは、まさに信玄譲りである。


 しかし昌幸について、一つ取り逃されていることがあるとするなら、その策謀に卑劣な暗さが実はないことだ。それは、師である信玄と比較すると分かる。


忍人にんじん


 と、称された通り、信玄の策謀には、非人情とも言いたくなる鬼の合理性が、つきまとった。彼の最大の失策は、その時々の外交状況で、肉親をにべもなく犠牲にする処置をとってしまっていることだ。


 婚姻を結んだ諏訪頼重を殺したとき、のちに自分の跡を継ぐ四郎勝頼に禍根を残してしまっているし、今川外交の失策で嫡男義信を彼は、飯富虎昌おぶとらまさと言う功臣もろとも、にべもなく葬っている。


 それに比べれば、昌幸の策謀はその場限りの二枚舌程度のもので、油断はならないにしても、人をして口をつぐませるような無駄な残虐性はない。それは真田三代に渡る気質が、それほど暗いものでもないことにもよるだろう。


 真田昌幸が上田城で徳川家康に反旗を翻したとき、歩卒から城下に至るまでいささかの動揺を見せなかったことでも分かる。悪政を行う大名には、誰も従わないはずだ。昌幸が真の悪漢であったなら、この市街戦は実現しなかっただろう。


 江戸期よりも主君を選ぶ気質の強かった戦国末期に徳川の大軍を二度も迎えて、城下一丸となって撃退したと言う事実は、昌幸が善政をもって身分の別なく憮育手厚かったことを端的に裏付けている。


 そんな昌幸を、特に徳川家が警戒したのは、無理もない。昌幸にあったのは、人の裏を掻き、欺き、騙しとる、そのような姦人の才ではなかったからだ。軍勢や石高など物量ばかりでは測れない「人間の力」と言うものが昌幸の元には自然と集まると言うことを警戒したからと思われる。


 関ヶ原の戦いにおいて、徳川本隊大樹秀忠率いる三万を上田に釘付けにする大戦果を挙げた昌幸は、紀州九度山に幽閉される。これも、最初は子で付き従った信繁を九度山に置き、昌幸は高野山蓮花定院にて家康の赦免を待ったが、十年の幽閉で病を得て、九度山へ移った経緯がある。それからほどなく、異郷で昌幸の念願の帰郷の想いは潰える。


 大坂の陣のとき、信繁に家康必勝の策を授けたが、


「これは采配が真田昌幸たればこそ活きる策」


 と断ったと言う話があるが、あれは本気だったのだろうか。わたしはある意味では同じく故郷を捨てさせられ、捲土重来を志した真田遺臣たちへのリップサービスの意味合いが強かったと思う。


 彼は策謀家と言うには、意外にも自分だけよければいいと言うような突出した物欲がないのだ。もし、昌幸が出陣出来たとして、彼は大坂方に緒将を寝返らせる策を考えていたと言うが、それほどの権限を自らも大坂方から与えられる身分であるかどうか、その辺りも失念していたように思えてならない。


 信繁の死に花に華を添えたと言うのが精々のところだろう。


 生まれながらの悪人。

 人は謂う。

 だが昌幸に見るのは、他にどうと言われようとおのれが守ろうと決めたものは、どんな手段を講じても守ると言う貫徹の鉄心である。


 古語に言う。悪、なるものこそ、多数派に流されず強く在ろうとする片意地者の素思。

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