紅染月のマジックアワー

橋本ちかげ

第1話 恐るべき手料理

 廃油のようなどす黒い汁に、どっぷり麺がつかっていた。

 それがほかほかと湯気を上げて、堂々と食膳に上ったのである。僕はもう、どこから突っ込んでいいのか、それすらも分からなかった。


 ともかく、

「これってさ」

「焼きそばじゃないですよね」


 何か続きを言う前に、押し被せてくる九王沢さん。一応分かってはいるようだ。今日も混じりけ無しのストレート、超弩級ちょうどきゅうのお嬢様ぶりを遺憾いかんなく発揮してくれている。


 だいたい、嫌な予感がしたのだ。九王沢さんが部屋に来ると言うので、お昼はどこかに食べに行こうかな、と思って候補になるお店を物色していたのだが、


「これ、なんでしょうか?」


 いつの間にかしっかりと、買い置きのインスタントの袋焼きそばのパッケージをゲットしていた。それをあのHカップの豊かすぎる胸に押し付けるように握り締めて立っていたのだ。


 自分の子供を慈しむみたいに。恐らくどうあっても、僕が説明しない限りはずっとあのポーズでいる気だろう。そして僕がそれが何かを話したら絶対に言うのだ。


「お昼はこれがいいと思います」


 九王沢さんの魅惑の瞳があんなにらんらんと輝いて、それを真っ向から否定できるような人間は恐らく、この世にいない。少なくともこの時点で、説得するよりも懸命に焼きそばを食べる腹になろうとする方向に自分の持てる力を傾けている僕は、とても哀しい生きものでしかなかった。


「分かりました。つまり九王沢さんは、このインスタントの焼きそばを食べたことがないんですね?」

 はいっ、と九王沢さんは力いっぱい頷いた。

「じゃあキャベツでも刻まなきゃな。それ、具入ってないから」

 と、僕が貧困の象徴たる我が家の冷蔵庫に立とうとしたときだ。

「調製方法は、どうやらパッケージの裏面に記載されているようです」

 まるでラテン語の古文書を読むような目で、九王沢さんが言い出した。嫌な予感その二が砂埃を立てて追っかけてきた。

「これならわたしも自分の力で、作れるのではないでしょうか?」


 からの、廃油ラーメンである。全く理解できない。いや、そんなこと言っちゃいけない。僕が悪いのだ。僕が九王沢さんに焼きそばと言うものの定義と外観を、きちんと教えておかなかったから。て言うか、そこから教えてあげないと全然ダメだったのだ。


「あ、あのさ」

 僕は絶句したあと、動揺を取りつくろって言った。

「と、ともかく、これはいいから。九王沢さん、これから外のお店にでも何か食べにいきましょう。ね」

「まっ、待って下さいっ!」

 トンデモ失敗作を棄てようとする僕の手を、九王沢さんはひっしと握った。

「これはわたしが処理します。ですからもう一度、やらせて下さい。お願いします、次は必ず、那智さんのお昼に完璧な焼きそばを提供しますから!」

「いっ、いいですよ。焼きそばごとき、そんな必死に作ろうとしなくたって」

 とは、言えなかった。あの九王沢さんが必死にお願いして、通らないことは地球上に存在しないのだ。

「分かりました。こっちは僕が引き受けますから、九王沢さんは自分で焼きそばを作って食べて下さい」

 僕はそこだけは説得した。

 だって九王沢さんみたいな子に、こんな産業廃棄物みたいな汁麺を食べさせるわけにはいかない。


「那智さん、そんな…だめですっ、やめて下さいっ」

「いいですよ、元は焼きそばですし」


 僕は決意して割りばしを採った。彼氏としてここは、無理はしてあげなくちゃならない。いやむしろ、微笑ましいじゃないか。ルックスばかりでなく、その感性と知性もワールドクラスの九王沢さんの初めての手料理が、無惨にも失敗した焼きそばなんて、かわいすぎる。


 ところがだ。


「こっ、これ…?」

 美味いのだ。

 常軌を逸するほどに。

 縮れてふやけた麺をひと口食べて、僕は愕然とした。だってだ。この廃油みたいなスープ、見てくれは最悪だが薄まったソースの味などほとんどせず、しっかりと出汁をとって味を調えた、恐ろしい完成度の『料理』なのだ。化学調味料の味など、微塵もしない。


「ど、どうやって作ったのこれ!?」

 元はインスタントだよ?

「冷蔵庫に余っていた材料を使わせて頂いたんです。せっかく那智さんに、焼きそばを作ってあげられるのに、わたしなりの工夫がなくては、がっかりされると思いまして…」


 僕は九王沢さんを見くびっていた。この子、何をやらせてもどこかが必ず予想の左斜め上にぶっ飛んでしまうのだと言うことを。


 見た目は生ゴミ、しかし実態は一袋数百円の原価を遥かに超えたご馳走。

 僕の目の前にある不気味な汁麺はもはや、地球上にかつて存在しえなかった奇跡の一皿に変貌していたのだ。間違っている。のは果たして僕たち常識人か、九王沢さんか。それすらもあいまいになるほどに、これは逸品だった。


「とにかくこんなものを食べちゃだめです」


 そんな僕の感動を勘違いして、九王沢さんは切なそうな顔でお皿を引っ張ってくる。


「これは焼きそばじゃありません。その時点ですでに失格なんです。もう一度チャンスを下さい!今度こそわたしが、那智さんに正真正銘のインスタント焼きそばを必ず提供しますから!」

「いいですって!いいから!引っ張らないで、まだ食べてるから!お願い、これ食べさせて!」


 結局お昼は、僕がつーまんない焼きそばを作った。

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