九川 無量

本編

週末の自分へのご褒美,その延長として,ちょっといいとこの店に入り浸ることにした。あそこは私のありし日々の中継点として機能していた。いいとこに行っているんだ,あなたたちは行かないでしょうけどね,というささやかなおかつ過剰な優越感に当時は飲まれていたものだ。だからだろうか,あの時は全く気づかなかった,風景のえずくような綻びに。今となっては,過去の純粋さをまばゆく思うほどに,いやというほど浮かべるイメージである。



日の沈みを,1杯のスパークリングワインを脇に迎える。外の暗くなるに合わせて,店内に明かりが灯される。カウンター席をひとり陣取り,周囲のノイズを打ち消すように,液体を流し込む。「最近うちの友人が変なのにハマってるらしくてー」「今日は俺のおごりだ」「実は今かかってる音楽ってのは」特段先の気にならない文章をよそに,周囲数十センチに網を引いて,時間と空間を独占する。脈絡の欠けた歌詞がリズムに乗ってやって来ようが,ここは私の空間。グラスの泡立ちのなくなってきたのを感じ,一気に飲み込んだ。その頃にはすでに,音の聞こえが左右にぐわんぐわん揺れていた。定位のつまみを誰かがひねっているのだろうか。



明かりから遠ざかるようにして扉を開くと,右側がうるさい。行きとは同じ道をたどらない癖があるので,しかたなく騒がしい方向に帰路を設定した。それもそのはず,先にあるのは居酒屋の並ぶ商店街なのだから。日が照っている間は,アメリカの都市を真似たカフェやショップによって擬装されている通りだ,個人個人が無目的にふらふらしているだけ。通りの本性は,日が沈んで初めて出るものだった。



粘液といっても過言ではない黄色い半固形物が道端に転がっている地点で,引き返すべきだったかもしれない。しかし私は無視して通りに入った。それはまるで異形の行進だった,服をまとった赤黒い流体が,物理法則に従うように移動していく。それは共通の目的を持っているようで,なんら意思の感じられないような,緩慢な所作。一つ一つが動くたびにごとんごとんべちゃべちゃと音を立てて,現代音楽のナンセンスを思わせる,集合する概念だった。ガラスで隔てられた先は更にテンポが上がっていて,流体はますます赤くなり,破裂せんばかりの変貌を遂げていた。傷口から漏れる腫物からは煙が出ている。突然私に声をかけてきて,入店を促す物体を私は見て見ぬ振り。聞こえに,もう左右はなく,全てが一つとなって五感を突いてくる。



ひとことで言えば,それは酔狂すいきょう だった。かくいう私も,すでに飲まれているのを感じていて,思い出すたびに吐き気に催される。それでもなお,集合性を持った風景を私は恋しく思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

九川 無量 @Rik_memo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ