青い東雲草

岸泉明

第1話

- 第1章 -

蒼穹をユラユラと漂白する青雲を俺は虚ろな目でゆっくりと見つめていた。春だというのに屋上の日差しが針を刺すかのように俺に照りつける。錆びた鉄柵が青嵐に吹かれるたびにグラグラと揺れた。

「そのうち落ちるんじゃないか?」

と漠然と考えていた。おそらくそんなことがあると死人がでるな。校庭を見渡すと、辺り一面に桜吹雪が舞っていた。桜たちが楽しそうに空を舞うのを見ていると、深いため息が漏れた。今日という入学式の晴れ舞台には非常に似つかわしい一日だろうが、俺にとって今日ほど腹立たしい一日はなかった。高校生活がこれから始まる後輩どもの目の輝くのを見るたびに、俺は無性にその場から逃げ出したい衝動に駆られた。これからの生活対してどんな夢を見ようと奴らの勝手だが、どうせ俺のように落ちぶれて終わりだ。人生なんてロクなもんじゃねぇ。こんな二流高校出てもロクでもない三流大学に進んで、ブラック企業に就職して、死ぬまでこき使われて、何も遺せず、この身が朽ち果てて、誰からも忘れ去られて、人生は終わりなんだ。どうせロクでもない人生を歩むことに変わりはないのだから、夢とか希望とか、そんなことを考えるなんて実に馬鹿らしい。

そんなことを考えながらしばらく黄昏ていると、屋上に誰か入ってきた。

「よう、落ちこぼれ。」

ニヤニヤと笑いながら俺のことを嘲るのは、俺のクラスメイトで優等生の倉元麟太郎。俺のような授業を切ってばかりの劣等生とは大違いだ。でも、こいつは面ではいい子ぶっているが、自分より劣ってるやつを陰で皮肉るのが大好きな、典型的な二重人格。俺はこいつの顔を見るのも嫌なくらい大嫌いだった。

「何してんだよ。こんなところで」

俺は声を荒げて麟太郎に質問を投げかけた。

「こっちの台詞だ。どうせ入学式がめんどくさくてサボりだろ?ま、サボるなんていつものことか。ハッハッハッ」

麟太郎は人を馬鹿にするような高笑いを浮かべた。俺は思わず拳を握った。

「おっと、手を出すのか?ここで手を出したところでお前が悪者になって終わりだぞ。手を出しても出さなくても、劣等生の負け犬の君がこんなところでサボっていたことを先生に言えば即座に君は悪になる。わかったかい?負け犬くん」

そう言い終わるとまた麟太郎は高笑いした。もうこんな奴を相手にするだけ無駄だ。俺は再び校庭の方を見つめた。

「どうした?無視するのか?君の負けだな。腰抜け」

言われて悔しくも思ったが、無視した。俺は硬い表情で蒼穹を見た。浮浪雲が、焦っているようにも見えた。

「フン、僕という奴が、君のような奴を相手にしたのが間違っていたようだ。貴重な時間を無駄にした。じゃあな、おさぼり君」

そう言って麟太郎は屋上を後にした。あまりに腹が立ったので、奴が屋上を去ってから、錆びた赤銅色の鉄柵を蹴り飛ばした。

グワアァン。という鈍い音が辺りに響き渡った。

「くそっ!」

悔しいが、あいつと俺を比べても、勉強、運動、人間関係、人望、信頼、人気、何をとっても敵わなかった。

俺は苛立ったまま屋上を後にした。べつにこのまま入学式に行くわけではない。こんな時はいつもあそこに行く。掃除の行き届いていない誇りだらけの階段を降りて、一階まで降りると、中庭を抜けて、美術室の前を通り、外にある図書館へと向かった。

図書館前には、新しい本を入れるのか、司書の甲本先生が作業服を着た業者と話していた。俺は何気なくそこに近づいて行くと、甲本先生は俺に気がついて、業者さんとの話を中断し、俺に会釈をしてくれた。

「どうも」

俺も会釈を返し、挨拶をした。

「あら、啓介君。どうぞゆっくりしていって。新しい本が入ったわよ」

「ありがとうございます」

先生はニコリと微笑むと、業者さんと会話を再開した。無論先生は俺がサボりだということも知っている。でも、甲本先生は俺がサボることをいつも一切咎めなかった。甲本先生だけが、俺の唯一の理解者でもあった。

図書館前には先生の趣味で、手入れの行き届いた鮮やかなピンクの芝桜と、淡青の美しいワスレナグサが鉢に植えられていた。そのほかにも、図書館前には植えられたまだ幼いハナミズキやら、コンクリートの隙間に生えるタンポポやらが、俺の心を慰めた。近くの水道でジョウロに水を入れ、ハナミズキに水をやった。少しだけ、木が微笑んだようにも感じた。ジョウロをしまい。図書館に足を踏み入れた。

いつもと変わらず、古い掲示物や、新聞の切り抜き、映画のパンフレットなどが貼られた壁が妙に落ち着きを与えた。そして図書館独特のなんとも言えない匂いが俺の鼻をくすぐった。この匂いを嗅ぐと、俺の居場所はここにあることを再認識する。さっきまでの怒りはもうとっくにおさまっていた。ゆったりと哲学の本棚の方に向かい、ハイデッカーの「存在と時間」を手に取った。確か百六十五ページからだった気がする。しおりを挟んでおけばよかったなと後悔しつつ、はやる気持ちを抑え、丁寧にページをめくった。この紙のなんとも言えない触り心地。それがより一層俺の胸を高鳴らせた。

「また難しい本読んでるわねぇ」

フフフと微笑みながら、先生は俺に話しかけた。先生は業者と話が終わったのか、まだ表紙の新しい本を幾冊か手に抱えていた。

「いや、哲学は面白いですよ。特に実存主義なんて最高ですね」

「私は哲学はよくわからないわ。難しくて。昔あのドイツの哲学者の本を読んだけど、最初からなんだかよくわからなくて挫折したわ」

「へー、誰ですか?」

「ニ、ニ、……」

「ニーチェですか?」

「そう、ニーチェ」

「あー、難しいですよ。ニーチェなんて。でも彼はなかなか的を射たこと言いますよ」

「そうなのね。難しいわぁ」

「ま、哲学なんて人生を豊かにする道具でしかありません。あってもなくても変わりはしませんよ」

「そう。まあどっちにしても先生頭良くないから難しいことはわからないわ。ところであなたが今読んでるのは?」

「ああ、これもニーチェと同じくドイツの哲学者の本ですよ」

「ふーん、まあ楽しむといいわ。ところで啓介君、美味しいアールグレイの紅茶持って来たから飲まない?」

「是非いただきます」

いつもこんな調子で、俺は先生にコーヒーやら紅茶やらをご馳走になる。元々俺が図書委員というのもあるが、多分どの委員よりも図書館のことを知っているし、甲本先生とも親しかった。

俺は授業をよくサボった。授業内容が実にバカらしくて仕方ないのだ。現代文のつまらない評論を読まされるくらいなら好きな経済論なり政治論なりの本を読めばいいし、世界史なんて教科書のことを丸暗記しようとするから言葉だけ知っててその人物や制度のことを知らない言葉だけバカが出てくるのだ。数学、理科。世に出て何の役に立つ。いや、少しは活躍するのだろう。でも、それもやりたい時にやればいい。コミュニケーション英語なんて特にふざけている。日本語でコミュニケーションを取ることすらままならない高校生に、英語でコミュニケーションを取らせようなど、明らかに教育方針が間違っているとしか思えない。

そんなこんなで、落第しない程度に俺はいつも図書館で授業をサボって本を読んでいた。甲本先生も密かにそれを受け入れてくれた。

本を読むことだけが俺の唯一の生きがいでもあった。ほかに人生に楽しいことなんて何もない。そう思っていた。

今日は入学式。もう少しで新一年生の新委員が入ってくる。まためんどくさい付き合いが増えると思うと、溜息が漏れる。首の後ろをこすりながら、熱い紅茶をすすった。

「啓介君、飲んだら少し新書を並べるのを手伝って欲しいんだけど、いいかしら?」

「ええ、喜んで」

俺はティーカップを傾け、残った紅茶を飲み干した。

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