四唱 また、旅が始まりますね。新しい旅が。

「だって、セトさん」

「だって?」


 セトがトーリの言い分を聞こうと穏やかに尋ねてくる。

 だが、この時ばかりはトーリは発言を飲み込んだ。なんだか言い訳するのがかっこ悪い気がして。代わりに身を縮こまらせる。

 ふいに、乾ききった吐息が空気を揺らした。


「――もう、意味のないことです」

「え?」

「わたしが何であろうと、もう意味はないのです。あなた方がなように」

「それは、どういう意味……?」


 ぼんやりと聞き返す。

 だが、少女はきゅっと小さなこぶしを握りしめてうつむくだけだ。


「別にわたしじゃなくても良かったじゃないですか……」

「え?」


 ともあれば、見逃してしまいそうなほどか細い悲鳴。

 くるり、と唐突に少女がトーリに背を向けた。振り返らずに淡々と続けてくる。


「出発は明後日。朝の六時に村の入り口で待ってます。それまでに支度をしておいてくださいね」

「あ、ちょっと!?」


 止める暇もなく、少女は走り去ってしまった。雪の白が、緑のラインを何本も引いたようなブドウ畑の間の道に消えていく。

 やがて、少女が去ってから思い出したのは、彼女の名前を聞き忘れたな、というのと。

 クィーという動物、火を吹いた後、トーリの前に顔を出してくれなかったな、ということだった。

 特に何もすることがなくなったところで、トーリはゆっくりとセトの方を向いた。


「……セートーさーんー」

「はは……」


 低くうめけば、返されるのはごまかすような半笑い。

 どうしろというのだろう。

 どうしようもないのかもしれない。

 言いたいことは色々あるが、まずはこれだ。


「セトさんは、あの子のこと知ってるの?」

「昔から懇意にさせていただいている村に住んでるお方だよ」


 お方、というセトの呼び方は特に触れず、トーリは質問を続ける。


「あの子にもお父さんとかお母さんとか、いるでしょ。その人たちはおれの旅にあの子がついてくこと、反対しなかったの?」


 至極まっとうな質問のつもりだった。


「あの子はセトさんに頼まれて、おれの旅にしかたなく付きあってあげるんだって言ってた。あの子、ほんとはおれの旅につきあうのがいやなのにここに連れてこられたの?」


 それなら、トーリはなおのこと少女を連れていきたいとは思えない。

 母親を一人置いて旅に出ることにためらいがあったとはいえ、上から押さえつけられていたのはトーリも同じなのだから。なら、どうして同じことを少女に強いることができるだろう。


「じゃあ、トーリ君はお母さんや私に反対されたからって、旅に出るのを諦めたかい?」


 セトから返される質問。それが答えだった。


「……今日のセトさんはやっぱり性格が悪い」


 ため息を吐きながら、本日、何度目かわからない同じセリフ。

 どうやら、本人が言っていることはさておき、あの少女は自らの意志でトーリの旅に付き合うと決めてここにいるらしい。そうトーリは判断した。

 それならもう、トーリは少女を連れていくしかなくなるではないか。





 星が小さく輝いていた。

 満月をいくらか過ぎ、欠けつつある月の光に照らされた草花たちがビロードの光に照らされている。

 風にそよぐきんぽうげや、咲きみだれる小さな野ばらたちのそば、たたずむ青年は懐かしさのまま目を細め、夜空を見上げていた。

 昼間、青年と言葉を交わしたかの少年や、少年より年下の里の子供たちに、星の名前を教えて欲しいとせがまれた記憶がよみがえる。幼き日の風景。

 ふと、セトは話しかけた。サビついた看板が立つタヌキ交差点にやってきた人物に。


「……旅が始まりますね。新しい旅が」


 右を向けば、そこには自分より一回り以上年上の女性が立っていた。

 燃えるような赤毛と対照的なモスグリーンの眼差しに普段の陽気さはない。面差しは、かの少年とよく似ている。


「セト様……。どうして、今更トーリを……」


 続く言葉はない。

 に落ちない様子のトーリの母に、セトはゆるい失笑をこぼす。


「魔が差した、という返事では納得いただけないのでしょうねえ……」


 セトは表情を引き締め、トーリの母に向き直った。


「そのための、フリアレア様です」


 告げるも、ぴんと来なかったらしい。尋ねてくる。


「フリアレア様……ですか。見た目は、うちのトーリと変わらない年齢に見えましたけれど、彼女は一体……?」

「純血種、と言えば、伝わりますでしょうか」

「……恐れ多い」


 畏怖いふしたように、トーリの母の顔つきが固く険しくなる。


「トーリ君ほどになりますと、そのぐらいの方がお目付け役の方がよいでしょう」


 意志力的にも、実力的にも。声には出さずにセトはそっと胸に秘める。

 途端、トーリの母が狼狽ろうばいし始めた。おろおろしながら、あの子、粗相をしてないかしら、などと言い出す。

 既に、少女の友達であるクィーに燃やされた後だと言ったら、めまいを起こして倒れそうな勢いだ。

 安心させるつもりでセトが言う。


「きっと仲良くなれますよ。年も近いですし」


 半分建前、半分本音。

 トーリは立ち回りが器用な方ではない。旅の途中、少女と衝突もすることもあるだろう。

 それでも、セトはトーリと少女がうまくやっていけると信じている。

 それよりも、問題は――


「……セト様」


 思いかけたところで、トーリの母が祈るように両手を組みながら、おずおずと進み出てきた。


「あの子の、トーリの願いは……」

「トーリ君の願いはかなわない」


 セトは断言した。希望とも心配ともつかない思いを断ち切るように。

 それから、淡くほほ笑んで。


「……でもそれが、必然ではなく蓋然がいぜんであったらいいな、と私は思いますよ」


 折れなかった方が、少年をより困難に導くとしても、セトはそう祈らずにいられなかった。

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