五唱 旅立ち

 少女と出会って二日後。すなわち旅立ちの日。

 いってらっしゃい、と何人もの人たちに見送られ、トーリたちは明け方に、〈竜の里〉を出発することになった。

 場所は、サビついた看板が目印のタヌキ交差点。


「気をつけてね、トーリ君」

「はい。ありがとうございます、セトさん」

「何かあったら、戻ってきて大丈夫ですから」

「……いいの?」


 うっすらと、トーリが金色にも見えるはちみつ色の瞳を見開いた。

 セトがヘーゼル色の瞳をやわらかく細める。


「もちろん。だって、ここは君の故郷ですから」

「セトさん……」


 自然とうれしさで口元がほころびかけ。

 はたと気づき、トーリは真顔で聞いていた。


「その場合、まだ期限が残ってたら、もう一回旅出てもいいの?」

「それはだめです」

「ケチ」

「それに、そう簡単に根を上げて戻ってくるつもりはないんでしょう?」

「そりゃもちろん」


 にっ、とトーリが口の端を持ち上げる。

 セトが、しかたのない子ですね、と苦笑した後。


「でも、何かあって危ないと思ったら、そういう意地とかプライドは全て捨てて、自分の命を優先させてくださいね」

「……それは」

「君の命は、君だけのものじゃありませんから」


 うながすように、セトがついと視線で自身の肩越しを見やった。

 つられてトーリはセトの後ろをのぞき見た。

 きれいな緑色をしたブドウ畑の間、息を切らしながらやって来たのは、トーリと同じ赤毛を束ねたエプロン姿の母親だった。


「トーリ……っ」

「母さん……」


 何を言おう。何を言えばいいのだろう。

 そう迷っている間に、トーリの目の前までやってきた母親が、すぅー、と息を大きく吸った。次の瞬間。


「ハンカチは持ったの? お財布は忘れてないでしょうね。セトさまからお借りしたメダリオンは何があっても肌身離さず、シャワーの時も首から下げておくのよ。落としちゃ、ぜええええええったいダメよ。それから、一人じゃないんだから危険なことには首を突っ込まないこと。くれぐれもその方には粗相そそうのないように。それからそれから――」


 まるで友だちの家に遊びに行く時のように、否、それ以上の勢いで、母親が一気にまくし立ててくる。


「もう子供じゃないんだからさ……」


 脱力ともあきれともつかない心境で言い返すも、母親は聞いた風もない。


「いくつになっても、あんたはあたしの子どもだってことには変わりないんですからね。あんたといったら――」


 まずい。これは、お説教から昔話へ、昔話から恥ずかしい話へ突入する流れだ。

 トーリは、ばたばたと両手を振ると、母親を止めにかかった。


「か、母さん! おしまい! この話おしまい!」

「いーえ、次お説教できるのがいつになるかわかりませんからね。今日はまとめて――」

「終ー了ー!」

「あっ、待ちなさいトーリ! まだ話の途中よ!?」

「何にも聞こえませーん!」


 しんみりとした別れ際のあいさつとはほど遠い、にぎやかで和やかな笑い声が〈竜の里〉のタヌキ交差点に響く。

 いつも通り口うるさい母親から、そそくさと逃げるように、トーリはその場をあとにした。

 そんなトーリを追うように、少女が歩き出す。


「フリアレアさん」


 少女の名前なのだろう。セトに呼び止められた少女がふと振り返る。


「トーリくんのこと、よろしくお願いします」


 セトの隣に立つ、トーリの母親が深々と頭を下げている。

 少女は応えるように丁寧に頭を下げ、ぱたぱたと小走りに駆け出した。




 新鮮な森の息吹を胸いっぱいに吸い込みながら、トーリは身体を伸ばした。

 空は、青い絵の具を水に溶かした淡い青。

 まだ地平線から昇って間もない、白っぽい金色の太陽に照らされ、トーリの胸元のメダリオンが、うす桃色にも似たオールドローズのきらめきを放つ。


「……っと、しまっとかないと、これ」


 トーリの首にかけられているのは、セトから預かったメダリオンだ。竜のシンボルが描かれた、〈竜の里〉の一族であることの象徴。

 普段は隠しておくよう言いつけられたそれを、トーリは衣服の下に大事にしまった。ひんやりとした銅のメダリオンが、あっという間にトーリの体温を吸収し、肌になじむ。

 トーリはくるりと振り返った。背後からついてくる少女へと。

 髪も服も雪のように白い少女が、パールグレイの瞳を不思議そうに瞬かせる。その手に荷物はなく、手ぶらそのもの。

 戒魔士の中には、異空間を操る者がいるというのは聞いたことがあるが、まさか目の前の少女がそうだとは思いもしなかった。異空間に荷物を収納できるおかげで、普段は剣と財布や地図やコンパスといった必要最小限の荷物だけで、身軽に動き回ることができる。

 それはさておき、トーリは無表情の少女ににこやかに笑いかけた。


「自己紹介、まだだったよね。おれの名前はトーリ・ローアル。君は?」

「……フリア。フリアレア・フラル。この子はクィー」

「くぅきゅ」


 フリアのふわりとした白い髪の毛の中から、クィーの鳴き声だけが聞こえてくる。


「よろしく、フリア、クィー」

「……よろしくお願いします」


 そうあいさつを交わし。


 ――この自己紹介にも満たない会話のあと、ろくな会話もないまま二時間が経過していた。


 確かに、フリア本人が過不足ない実力を持っていると言ったように、あるいはセトが優秀と太鼓判を押すように、フリアの魔法の力は並みの戒魔士を凌駕りょうがしている。

 突然現れて襲いかかられたら、大の大人でもひるみそうな鹿を、魔法の一撃で昏倒こんとうさせられるぐらいには。あれには驚いた。

 涼しい顔でクマを倒した少女といえば、今は野生のプラムの木の茂みの前に立っている。トーリと距離があるからか、クィーはフリアの肩に乗っていた。

 細い枝はプラムの重みで垂れ下がっていた。

 そのうちの一本に、クィーが背中の翼を広げて飛び移った。そのまま枝先にぶら下がり、そっと枝をひとゆすり。

 しなった枝が大きく揺れる。

 が、プラムの実は落ちてこない。

 早くもしびれを切らしたらしい。傷一つない、つやつやとワイン色に光るプラムを、クィーが前足で、べし、とたたき落とした。

 ころころと地面に転がったプラムにじゃれつきながら、クィーが地面を転がる。


「きゅっ」

「こら、クィー。お行儀が悪いですよ?」

「くきゅう……」


 クィーが元より垂れている耳をますます垂れさせる。

 しかないですね、とフリアが手をプラムの木に掲げた。音もなく、プラムの実が枝から離れる。


「はい、どうぞ、クィー」

「くぅきゅ」


 みずみずしい黄色の果肉に、クィーが夢中でかぶりつく。

 そんな一人と一匹のやり取りを眺めながら、トーリは今回の旅について改めて考えていた。


 半年、期間限定の旅。

 路銀が尽きてもおしまい。

 フリアが無理だと思ってもおしまい。


 彼女には、〈竜の里〉に強制的に転送するための法石がセトから手渡されている。有事の際はフリアの判断でいつでも使えることになっている。

 まさしくフリアの言う通り、彼女の機嫌を損ねないようにしなければ旅は終わってしまう。

 つまり、フリアと仲良くなるのが、目下最優先任務だ。

 任務遂行のため、トーリはフリアに近づいた。クィーがさっと隠れ、フリアが顔から感情を消す。

 歩き出したフリアの隣に並び、トーリは再びコンタクトを試みる。


「そこのプラム、小さいけどおいしいよね」

「そうですね」

「クィーってさ、おれが近づくと隠れちゃうけど、人見知りってやつなのかな……?」

「そうですね」

「フリアとは仲いいみたいだけど、小さい頃からの友だちとか?」

「そうですね」

「……あのさ」

「そうですね」

「…………………ところでおれ、アップルパイだけは鼻の穴から食べるんだ」


 ばっちり聞いていたらしい。なぜかタイミング悪く顔を出していたクィーと一緒に、ものすごい目で見られた。

 そのまま、すすす、と不審者に対してするように、距離を置かれる。

 トーリの繊細な心は、早くもダメージを食らっていた。

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