七唱 なら、あなたは“信じる”ということを、何をもってして証するのですか
ぽつり、と降ってきた雨粒が服にシミを作る。
「うわー、降ってきた」
森一帯は黒々とした雨雲に覆われていた。
ぽろんぽろんと、葉を打つ雨の音はつたないピアノの音色のよう。それが、ドラム缶に砂利を落としたような騒音へ変わるのに、さほど時間はかからなかった。
天気にまでツバを吐かれた気分で、トーリは走り出す。
青々とした森が、雨にぬれて毒々しい青に変わる中、トーリは枝葉を広げるカシの大木の下に逃げこんだ。
「フリアどこ行っちゃったんだろ……」
途方に暮れてつぶやく。
バケツをひっくり返したように降る雨は止む気配がない。
どうやら先に憂慮するべきは、いかにフリアの機嫌を損ねて〈竜の里〉に連れ戻されないようにするか、ではなく、はぐれた時の合流手段だったらしい。
このままフリアを見つけられず、協力を求めて〈竜の里〉に戻ったが最後、説教されるのが関の山。かんかんになって、トーォーリーィー!と怒鳴る母親の姿がありありと目に浮かぶ。
まずい。やっとのことで手に入れたチャンスをふいにしてしまう。
それだけは何としても避けなければならない。危機感と焦燥感と使命感が同時にせり上がってくる。
「でもどうやってフリア探そう……」
考えても妙案は浮かばず、無為に時が流れるばかり。
旅が始まってから二時間弱。早くも旅がとん
と。
ぴぃ――
大気が鳴動する。
甲高い笛の音が、どこからかともなく聞こえてくる。
東西南北、あるいは上下左右、全方位から聞こえてくるようで、どこからも聞こえてこないような、矛盾した音。
ふいにトーリは走り出した。
*
しとしとと暗い雨が降っていた。
「……不覚です」
根っこを大きく広げた木のウロの中で、フリアは
トーリに当たり散らし、散々走った先でぬかるみに足を取られて転んだのが運のつき。
さほどきつくない斜面を滑り落ち、お
そうして、ぽつぽつと降りだした雨は、いつの間にかうるさいほどの土砂降りへと変わっている。
「くーきゅ……」
フリアの肩に乗ったクィーが心配するように
「ありがと、クィー」
「くきゅ?」
尋ねてくるクィーに、くすりとフリアは情けない笑みをこぼした。
「自業自得というやつなのですから良いのですよ」
「くきゅ、……くーきゅ?」
「そうですね、雨がやむまではここで休んでいきましょうか」
「くうきゅ」
季節は初夏。夏本番に向けて気温も上がりつつある。
雨にぬれたところで風邪をひく心配もないだろうが、わざわざウロから出て雨ざらしになる理由もない。
そういえば、とフリアは思い出した。
トーリとはぐれ、探しても見つからなかった場合、どうすればいいのかセトに確認するのを忘れていた。
〈竜の里〉へ転移するための特殊な
そして、ここからが肝心なのだが、トーリが旅を続ける上で、フリアはいなくても問題ない。なんらかの偶然でフリアとはぐれ、なんらかの不慮の事故でフリアと合流できないことがあれば、あの少年は晴れて自由を手に入れることができる。
その致命的な事実にセトが気づいていないとは思えないのだが。
そこまで考えたところで、
「でもそれも、それすらも意味のないことですね」
「くーきゅー……?」
心細そうに鳴くクィーをなでながら、考えを巡らせる。
最初から、意味のない旅だ。
竜の加護も魔法による奇跡も既に意義をなくしている。
トーリは竜と契約できることをまっすぐに信じているが、そんなものはとっくの昔に社会的に廃されている。廃れているのではなく。
フリアもまた同じだった。トーリたち〈竜の民〉と同じように廃され、息を潜めて、まるで世界に存在しないように生きることを余儀なくされた種族。
フリアたちはそういう存在だった。
それでいいと思っていた。
否、思っていなかった。
『それでも、約束は結び直せるっておれは信じてる』
『おれは、おれたちはここにいる』
だから、あの
同時に、強烈な反発も。
愚者のすることだ。
フリアはぎゅっと胸元のペンダントをつかんだ。
丸く薄く平べったいだけのクリスタルのペンダントには、何の紋章も浮かんでいない。
「……何をしているのでしょうか、わたしは」
力ない吐息が、瞬きみたいに消えた。
*
うっとうしいほどに湿った空気を肺に流しこみ、森を走ること三十分ほど。
「この辺……かな……?」
雨か汗かわからない、あごの下のしずくを手の甲でぬぐいながら、トーリはあたりを見渡した。
周囲は、相変わらずエゾマツや木々が立ち並ぶだけで、人の気配は感じられない。トーリを導くように響いていた笛のような音も、既に聞こえなくなっていた。
だが、この近くだという確信がトーリにはあった。
もう一度、身近に見える木の上をざっと見渡すも、やはり人影は見当たらない。
となれば。
トーリは銀細工のブレスレッドには埋め込まれた法石の表面を指先でなぞった。きらめく光を放ちながら紋章が浮かび上がる。意味は“羽”。文字通り、羽のような軽さでトーリは跳び上がる。
すたん、と軽やかに着地した
「フリア!」
「トーリ……さん……?」
「良かったフリアいた!」
ぱちくり、とほうけた様子でフリアが顔を上げた。
泥まみれになって、白磁の肌もうすら汚れているものの、ぱっと見、血を流してケガをしている風はない。
「良かった、無事で……!」
「トーリ、さん」
「大丈夫? ケガとかしてない?」
「どうして……」
「え? あ……、うーん、なんか音が聞こえた気がして、そっちに行けばフリアがいるような気がしてさ」
「そうではなく!」
突然、フリアが大声を上げる。
「どうしてわたしを置いて先に行かなかったのですか?」
「どうしてって、そんなの――」
「わたしと離れることができれば、お目付け役であるわたしから解放されて、期限にも縛られずにいつまででも、それこそ竜を見つけるまで旅ができるんですよ!?」
信じられない、と心底面食らったようにフリアが叫ぶ。
トーリは目を丸くした後、思いつかなかったと頬をかいた。
「あ、あー……。アリなんだ、そういうのも」
とたん、フリアが目に見えてわかるほど、がっくりと肩を落とした。
「トーリさんは……、いえ、なんでもありません」
「あうぅ……」
その反応に、多少ダメージを食らわなくはなかったものの、少しの間をおいてからトーリは続けた。
「……それでも、それがアリだとしても、やっぱりフリアのことをここで置いていけないよ」
トーリはフリアの手をゆっくりと握りしめた。どこかに飛んでいってしまわないように。
今にも消えてしまいそうな、危うげな光をたたえた少女の瞳は、また泣き出しそうに揺れていた。
トーリにはフリアの気持ちがわからない。
わかるのは、彼女が何かのことで深く傷ついているということだった。
もちろん、その原因に見当もつかない。
だが、彼女がトーリの旅に付きあってくれることと無関係ではないのだろう。そう勝手に予測している。
すると、重ねた手の平のぬくもりをそっと抱きしめるように、フリアがトーリの手を握り返してくる。
「……トーリさん、一つ聞かせてもらえませんか?」
「うん?」
フリアがついと面を上げる。
先ほどまでと打って変わって、パールグレイの瞳はもう揺れていない。
「あなたは約束は結びなおせると信じていると言いました。では、何をもってして、信じられると証明するのですか」
「何をもってしてって……」
「信じるとは根拠の積み重ねによる結果ないし、確約された期待です。……信仰にしろ信頼にしろ」
まっすぐ向き合うようにフリアが問う。
「なら、あなたは“信じる”ということを、何をもってして証するのですか」
その問いに。
「――だったら、証明終了だ」
「え?」
トーリは目を細め、光に溶けいるほほ笑みを浮かべただけだった。
雨はいつの間にか上がっていた。雲間から差し込んだ光が二人を淡く照らしている。
「質問はそれだけ?」
「え?」
「じゃあ、行こうか」
それだけ言って、トーリは再び歩き出した。
ぽかん、と口を半開きにして言葉を失っていたフリアだが、はっ、と我に返ったように声を上げる。
「ま、待ってください……! それはどういう意味ですか!」
「大丈夫だいじょーぶ。なんとかなるって」
「なんとかなるも何も、まだわたしは答えを聞いていま――っ」
と、トーリに手を引かれて歩き出したフリアが、ぎゅう、と手を握りしめてくる。
振り返れば、フリアは顔をしかめながら唇を強く横に結んでいた。
もしかして、とトーリは首をかしげる。
「フリア、どこか痛めた?」
「……みたいです」
観念したように、フリアが答えてくる。
トーリは銀細工のブレスレットに石留めされた法石をぐるりと眺めた。ばつが悪そうにぼやく。
「あー、ごめん。治癒できる法石あんまり持ってないんだった」
「いえ、わたし魔法で治癒できますから。少し待っててもらえませんか」
そう言ったフリアが再び木のウロの前に座りこんだ。左足首にかざしたフリアの手のひらに涼やかなペールブルーの光がともる。
しばらく、そんなフリアを眺めていたトーリだが、
「えい」
ひょい、と、唐突にフリアを背中におぶった。
「え?」
「しっかり捕まっててねー」
「トーリさん!? お、おろしてください!」
フリアの抗議を無視してトーリは走り出す。ぐん、と風を切るように。
雨上がり、光を浴びてきらきらと朝露のように輝く水滴は、今は森を色鮮やかに染め上げていた。
「っていうか、どこ行くんですか!? そっちは街道の方じゃないですよ!?」
「寄り道! きっとこの天気なら見れると思うから!」
「なら、なおのこと下ろしてください! そこまで遠くないのでしたら、転移魔法で移動できますから……!」
「こっちの方が早い!」
ぴしゃりとフリアの文句を封殺して、ばしゃばしゃと水たまりを弾きながらトーリは森を駆け抜けた。
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