八唱 それでも、おれは信じてる
フリアを背負ったトーリがやって来たのは、広々とした森が広がる崖の先だった。
美しく青々とした森の海は、昔と何も変わらない。まるで永遠を閉じ込めたように。
「とうちゃーく!」
「ここは……」
「ほら、あっちの空見て」
そう言って、トーリは赤いポピーの花が咲く、やわらかい草むらの上にフリアを下ろした。
トーリが視線を持ち上げれば、追うようにフリアが空を見上げる。
そこには、ミルク色の薄いオブラートがかかった大きな空に、七色のグラデーションの橋がかかっていた。
「……きれい」
ほう、と感嘆めいた吐息がフリアの唇から落ちる。
「昔さ、ここのあたりで大きな白い竜を見たんだ」
「もしかして、さっき言っていた竜はここで見たのですか?」
「そ」
場所はもうちょっと〈里〉に近いとこだけどね、と付け加えてから、トーリはなんとなく昔話を始めていた。
「……おれ、ずっと小さい頃からさ、自分が〈竜の民〉で、竜がいるんだって言われ続けてきたんだ。……でも、見たことも聞いたこともないものをいるって言われてもさ、ぴんと来なくて。実際の竜なんて、子供の頃に一度見たきりだし」
何を思っているのか、フリアは黙ってトーリの話を聞いている。
「父さんが竜と契約の旅に出るって言って家を出た時もさ、ほんとは半信半疑だったんだ」
「トーリさんのお父様は契約の旅に出られたのですか?」
「うん」
うなずき、トーリは先ほどまでとまったく変わらない調子で続けた。
「旅に出て、そのまま帰ってこなかった」
「す、すみません、わたし……」
気まずそうに謝ってくるフリアに、トーリは困り顔で明るく笑い飛ばす。
「なーんか、まるでつまらないおとぎ話の続きみたいだよね」
フリアは肯定も否定もせず、物憂げにまぶたを半分ほど閉じただけだった。どこか取り繕うように尋ねてくる。
「その、トーリさんが旅に出るのは、お父様の意志を継ぐために……?」
「そんなにおれ、親孝行じゃないよ? だって父さんのこと、あんまり覚えてないもん」
ぼんやりと記憶にあるのは、温かくたくましい父の背中。トーリの赤毛をわしわしとかき混ぜる、節くれだった大きな手。白い歯を見せて、にっと豪快に笑う姿。
すべては色あせた過去の思い出だ。もう、父の声も思い出せない。薄情なほどに。
「ただ、いるんだって。そう思ったんだ。竜はほんとにいるんだって。父さんが死んだときに、不思議とそう思えたんだ」
父の死後、淡い記憶は色を増し、心に拍車をかけた。閉じかけていた心のふたがにわかに揺れ始め、胸が騒ぐのをトーリは感じていた。
もしかしたら、幼い頃の憧れはずっと続いていたのかもしれない。ただ、自分が気づいていなかっただけで。そんなことを思う。
その後、語ることもなく、二人は虹が消えるまでただ空を見つめていた。
唐突にトーリは言った。
「フリア。おれは竜と契約を結び直すよ」
「……それは、無理だとわたしは言いましたが」
「そんなこと――」
言いかけて、止まる。これでは先ほどケンカ別れした時と同じだということに気づき、トーリは落ち着いて言い直した。
「……それでも、おれは竜と契約を結び直したい。そう思うよ」
「くきゅ?」
フリアの髪の毛の中に隠れていたクィーがそっと顔を出す。
何を思ったのか、クィーがトーリの肩にひょいと飛び移った。
「わ」
「クィー?」
「くきゅ……」
クィーが心地よさそうに目を閉じながら、トーリの
「こ、こら、クィー。トーリさんの迷惑になりますから戻ってきてください」
「くーきゅ」
「はは、急になんだよ」
「どうして……」
困惑めいたフリアのつぶやき。
「フリアの言う通り、もしかしたら、竜はこの世界のどこにもいないのかもしれない。もうとっくの昔に人のことなんて見限って、契約を結び直そうなんて思っていないのかもしれない。だから、姿を消したのかもしれない」
クィーのあごの下をなでてやりながら、トーリはフリアを見た。
「それでも、おれは信じてる」
はっきりと力強く、断言する。
「この世界に竜はまだいて、また約束を結び直せるって、そう信じてる」
トーリは力強く断言する。
しかし、フリアの反応はやはり薄い。
それに何を思うでもなく、トーリはふと異なる毛色の声で別のことを言った。
「でも、おれ一人じゃ無理だから。だから、フリアにも協力して欲しい」
「わたしにも……?」
「うん」
こくり、とトーリは首を縦に振った。
「契約を結び直せるって信じてくれなくていい。信じてくれなくてもいいから、協力して欲しいんだ」
すると、人形のようだったパールグレイの瞳に、ゆっくりと光があふれ出す。固く閉じたつぼみが花開くように、フリアが表情をゆるめた。
「……しょうがない人ですね」
ふわりと、ホワイトローズの香り。フリアがほほ笑んだのだと理解するのに数秒かかった。
「でも、しょうがないので付き合ってあげます」
初めて見るフリアの笑顔は、ありていに言えば――魅力的だった。思わず見ほれるほどに。
「トーリさんは非常識っぽいところがあるので、わたしがいないと危なっかしそうですから」
「なにそれ」
ぷっと、トーリが小さく吹き出した。尊大なのに、不思議とおもしろくて。
フリアが形のいい眉をきりっと持ち上げて、拳をぐっと握る。
「わたしに大きく出たからには、ビッグになるんですよ、トーリさんっ」
「せ、背ならこれから大きくなるから、もうちょっと待って……」
「そういうことではなく……いえ。改めて、よろしくお願いしますね」
すっ、とフリアが手を差し出してくる。
虚をつかれたトーリは目をぱちくりと瞬きさせ。
「……こちらこそ」
ゆっくりとフリアの手を握り返した。小さな約束を結ぶように。
と。
「きゅ?」
ぴく、とクィーが垂れた耳をそばだてる。クィーはトーリの肩からフリアの肩へすばやく戻ると、フリアの髪の毛の中にさっと隠れてしまった。
「クィー? どうしたの?」
「――トーリさん!」
突然、ばっとフリアがトーリの隣に踊り出た。両手を突き出す。同時、光のヴェールのような障壁が生まれる。
一拍遅れて、汚れを焼き滅ぼす純白の光熱波が、一直線、トーリたちめがけて突き刺さった。
「な――」
障壁越しでも感じる、びりびりと
フリアが苦しげに、くっ、とうめく。
ほどなくして、光がふっと消えた。また、圧力も。
「誰だ!」
「その反応とセリフは赤点だな、っと」
声は唐突に上から降ってきた。ばっと顔を上げる。
木の幹に手をかけ、枝の上に悠々と立っていたのは一人の青年だった。
黒いジャケットと黒いパンツ。黒とコントラストを成す白い肌と、一つに束ねられた白銀の長い髪。不気味なほどに美しいエメラルドグリーン色の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように鋭くとがっている。
「……くーきゅ?」
そっと、フリアの髪の毛の中から、顔だけのぞかせるクィー。
疑問を言葉にしてみせたのは、トーリだった。
「あんたは……?」
「はじめまして。〈竜の里〉のひな鳥と、そのお目付け役」
青年は胸に手を当てると、貴族さながらの優雅さで、腰を折ってみせた。
「ま、今日はあいさつに来ただけだ――歯ぁ食いしばれよ、お目付け役!」
青年が手を頭上に掲げる。フリアが反射的に手を突き出す。
虚空をまばゆく染める白い火炎が、空気を引きちぎる。
激突した二つの光がうるさく明滅する。
二人の魔法の力量は互角――否。
「フリア!」
「……っ!」
水晶が割れる澄んだ音と共に、フリアの障壁が砕け散った。
衝撃のまま、後ろに倒れかけるフリアの身体を、すんでのところでトーリは支える。
「お前は――お前は何者だ!」
フリアの肩を抱く手にぐっと力を入れながら、トーリは青年をにらみつけた。
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