虚無

羽海 凪

log.1

 「はぁはぁ、死ぬ!やめろ!」

 静かな教室の中、ねちっこく藻掻く音が聡明に響き渡る。

 「うるさぁい。その口を塞ぐにはまだ足りない?」

 水浸しになった手の横の床を強く踏み込み、飛沫がまた、俺に帰ってくる。

 「透馬さぁ、もういい加減に観念しなよ。誰も振り向きもしなくなってるよ。」

 わかってる。少し俺らが黙るとカリカリと芯が紙に擦り減る音しかしていない。進学校のここでは、たかだか“じゃれあい”なんかに関心をもつ方が少数派だ。

 「裏口野郎め」 

 ぼそっと無意識に出た言葉は火に油を注ぐ行為となった。

 「うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいっ」

 ヒートアップしていきながら胸ぐらを掴んでくる瀬島。先程までの塵を見るような目と打って変わって充血した真っ赤な目なった。

 「瀬島さん!持ってきました!」

 口を塞ぐにはまだ足りないか、という言葉に反応して洗脳されてるかのように直ぐに下っぱ二人が水を汲みにいっていた。

 「お、使えるじゃん。御苦労さん。次の仕事ー。こいつを押さえててよ」

 少し躊躇いながらも俺の四肢を押さえつけた。

 あー、流石に男子高校生二人には勝てんわ。

 バケツを持った瀬島が俺に跨がった。

 瀬島の畳み掛けてくる罵声は止まらない。怒りで只でさえ滑舌が悪いのに諦めが大きい俺の脳は聞き取ることを止めていて何を言っているのか分からなかった。

 「俺は特別なんだぁあ!」

 ゴボゴボゴボゴボ。

 喉の弁の処理が追い付かない。食道と肺に無抵抗で水が流れ込んでいく。擦れるようななんとも言えない痛みが胸の辺りに走る。

 何でこんなことになったんだっけ。

 あぁ、瀬島に裏口入学のことを言ったからか。


 俺の母親は俺を産んだ時に死んだ。荒れた父親はギャンブル、煙草、酒に明け暮れ、牢に入れてやることも出来なかった。月二万円が机の上に置かれていて、会うことも無かった。中学生では新聞配達で稼ぎ、高校生では掛け持ちして毎日働いている。特待生にもなって、学費でさえ浮かした。必死の想いで勉強して今を生きていた。

 だから、瀬島が許せなかった。ルールに反してるだの、あーだのこーだの、キレイな理由ではなく、純粋に許せなかった。金があるやつが結局上に行けることが。

 瀬島の裏口入学のことは入学式にたまたま耳に入ってきた。

 駅のホームに立つと隣に瀬島と父親らしき人がいた。この学校は制服がないから俺が入学生と気づかなかったのだろう。彼らは得意気に話し始めた。

 「いいか、尚弥。裏口というのは確かに選ばれた人達にしか出来ない。だがそれを他言すると妬みから攻撃してくる。絶対に他言してはいけない。」

 「父さん、俺ももう高校生だよ。言ってはいけない理由くらいオブラートに包まなくてもわかってるさ。でもそうだな、選ばれた人ってのは間違いじゃない。気分もいい。」

 そんなアホらしい会話が電車内まで続いた。三駅で降りた俺はそれ以降聞けなかったがずっと金持ちアピールのような少し大きめの声でぶっとんだ生活の話をしていた。

 次の日、クラスが発表された。教室に入った瞬間瀬島に気づいた。なんちゃって制服の生地も、人を見下すような目も、瀬島は周りとなにか少しずつ違っていた。

 すぐさま瀬島を廊下に呼び出した。

 「えっと瀬島、だよね?」

 「ああ、そうだよ。」

 「突然なんだけどさ、俺、聞こえちゃったんだよね。」

 「ん?」

 「裏口入学。」

 瀬島の顔が強ばる。何も言わずに背を向け、教室のドアに手をかける。開ける直前、すごい形相で睨んできて

 「潰す」

とだけ言い、教室に入っていった。

 そこからは典型的な潰しが始まった。

 何故か瀬島の下っぱになっていたクラスメートの二人が実行役だった。そして、俺が何か困る仕草をする度、瀬島は左の口角だけ上げ、真っ黒な瞳で俺を見てきた。

 幼い頃からの家庭環境のお陰で無駄に忍耐力が強かった俺は挫けなかった。

 次第にクラスメートが関心を見せなくなるに連れ、日常と化していった。

 

 あぁ、これが走馬灯というやつか。

 今までの記憶がたった数秒に詰め込まれて、頭がはち切れそうだった。

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