他人でない空似

 ちょとした事件が起こったのは、食事の後のことだった。


 リビングのソファーでお茶を飲みながら、今後の同居の取り決めなどについて雑談を交えて軽く話し合っていた時のことだ。


 言い訳になるが、今日はなんだかんだで、大変な一日だった。いったん死んでからの、異世界で体を変えての蘇り。いくらこの体が若いとはいえ、この環境その他の激変は、精神的にはなかなかにハードだったのだ。


 そしてつい、話し合いの最中にうとうととして、数秒ほどだと思うが意識が飛んでしまった。


「――失敬」


 はっと持ち直して顔を上げると、そこには真っ青な顔のアルフォンス君がいた。恐怖に強張り、かすかに震えてすらいる。


「アル、フォンス君?」


 そのただごとはない様子に、恐る恐る声をかける。


 呼びかけられたことで、硬直が解けたように脱力した彼は、今日初めて目が合った時と同じ、泣きそうな表情で僕を抱きしめてきた。


「よかった……生きてた……マリオン」


 絞り出すように、安堵の声を漏らす。


 母親に甘える子供のように、大きな体で手加減なくぎゅうぎゅうと抱き付かれて、改めて目の前の青年の心の傷の大きさを突きつけられる思いだった。


 僕も大変だった。しかしそれとは別次元の筆舌に尽くしがたい彼の体験に、痛ましさを覚えずにはいられない。


 ただ一人生き残っていた家族が、正義の執行の名の下に殺される様を、ただなすすべもなく見届ける――そんな生き地獄を、ほんの数時間前に味わったばかりなのだ。

 本来なら落ち着いている方がおかしかった。


 椅子に拘束されたまま、薬物によって命が消えていくマリオン――その光景が、居眠りする僕を見た瞬間にフラッシュバックしてしまったのだろう。


 不意を衝いた一瞬で終わる事故のような悲劇とはまた違う、少しずつ、しかし確実にタイムリミットが迫ってくる恐怖と絶望はいかばかりのものか。

 十五年間の努力はすべて無駄だったと思い知らされながら、己の無力をどれほど呪い、孤独と罪悪感に打ちひしがれたことだろうか。


「大丈夫ですよ、アルフォンス君。僕は、ちゃんと生きています」


 今だけは、「マリオンさんではありませんよ」の苦言を封印して、子供をあやすように穏やかに抱きしめ返した。


 彼が自身で言っていた通り、生きて動くマリオンの姿は、それだけで今の崩れそうな心の支えになっているのだ。あの処刑場で一度ぽっきりと折れてしまったであろう心を立て直すための、僕は紛れもなく希望の光なのだ。

 中身が別人であると承知の上でなお。


 これは、思っていた以上に根深い。

 僕は、精神科は専門でないのだが……。むしろ似たトラウマを抱える僕は、患者側に近いと言っていいほどだ。


 かつて弟にしたように、つい頭に手を伸ばしかけて、思い止まる。

 いくら何でもいい大人にすることではなかった。だったら今の状態はどうなんだとは、思わなくもないが。


 結局、彼が落ち着くまで、背中をなでながら見守ることにした。


 もう半世紀以上にもなる昔の記憶が、僕の中でも鮮明に浮かび上がっていた。

 病院で昏睡状態から目覚めた瞬間からずっと、今も寸分違わず瞼に焼き付いたままで薄れないあの光景。


 血の海に沈む家族。何もできなかった無力な自分。

 あの記憶が脳裏から消え去ることは、来栖幸喜としての人生を終えるまで、とうとうなかった。いや、終わってすらも、だ。


 彼の苦悩は、僕にとって決して他人事ではないのだ。


 どうも、よくない傾向だ。意識をきちんと切り変えなければ。僕の方がしっかりしておこうと、決意したばかりではないか。

 この青年を、あの小さな弟と重ねすぎてはいけない。


 突き放しはしないが、甘やかしても駄目だ。

 ただ、今だけは仕方ない。どうしたって時間が必要なことなのだ。焦らずに少しずつ癒して、現実を受け入れさせる助力ができればいいのだが。


「……すいません……取り乱してしまって……」


 しばらくしてから我に返ったアルフォンス君は、ようやく体を離し、きまり悪そうに謝った。


「かまいませんよ。僕にも弟がいましたからね。君と同じ黒髪の、生意気で可愛い弟でした」


 気に病まないように軽く答えるが、いい機会だとばかりに、まだ伝えていなかった事実をここでカミングアウトすることにした。


「ですがどうも、君が少々勘違いをしているように感じたのですが」

「はい?」


 ショック療法というわけではないが、その思い込みは、今すぐに訂正しておくべきだと判断した。


「僕は男性ですよ?」

「―――――――――は?」


 予想通りというか、アルフォンス君は目を見張って愕然とした。


「お姉さんへの夢を打ち砕くようで申し訳ないのですが、前の僕は、六十五歳の男性です」

「…………………………………………」


 絶句したまま、数秒ののち膝から崩れ落ちる青年。


 チェンジリング課の課長の話で聞いていたが、チェンジリングは、共通点の多い、似通った性質を持った者同士への転移が大多数なのだそうだ。

 つまり年齢性別など、前の体とあまり変わらない傾向が顕著だ。当然元の僕も、マリオンと同世代の三十前後の女性、もしくは十代後半の少女のどちらかだと通常は推定される。

 だから今回の僕のような例は、相当まれなのだそうだ。いろいろと悪い意味でのイレギュラーが重なっている。


 ともかくアルフォンス君も、中に入った僕の精神は若い女性のものだと、当たり前のように思いこんでいたようだ。


「六十五まで生きましたが、男性に抱きしめられた経験はさすがに初めてですよ、ははははは」


 追い打ちをかける僕と、顔面蒼白でがっくりとなるアルフォンス君。


「そ、それは……申し、訳……」


 謝罪の言葉すら、しりすぼみに消えていく。

 母親代わりだった姉の母性に甘えてしまっていた気分のところ、中の人が、両親以上のおじさんだったと知らされた時の気分とはいかなるものだろうか。

 好みの女性をナンパしたら、実はオネエ様だったような感じだろうか?


 いずれにしろ、突然投下されたこの情報の衝撃で、すでに先程の動揺は掻き消されてしまったようだ。


「まあ僕もなってしまったからと言って、体に合わせて無理に女性らしい態度を装ってみようとも思わないのですよ。長年かけて培われてきた振る舞いをいちいち切り替えるのにも労力がいりますしね。アルフォンス君も、できれば同性に対するように接してもらえたらありがたいです」

「は、はあ……」


 情報の整理が追い付かず、相槌を打つだけで精一杯な様子だ。

 女性に接していたつもりのこれまでの自分の言動が、全て初対面のおじさんに対して行われたものへと塗り替わっている最中なのだろうか。

 初対面のおじさんにいきなり同棲を持ちかけてしまったり、取り乱して抱き付いてしまったりを思い返して、穴があったら入りたい感じになっているのだろうか。


 そんな内心を察しながら、僕は畳みかけるように続ける。


「それから、この国でもいとこ同士は結婚できるようなので、念のために忠告しておきますが、僕を恋愛対象としては見ないことをお勧めします。見かけは若いお嬢さんですが、君の三倍生きているおじさんですからね。仮に異性として好かれても、その気持ちには応えられないと思います」

「――――は、はい……」


 街歩きをした経験で言わせてもらえば、どうも今の僕はそれなりにモテるようなのだ。ほんの一時間足らずの一人歩きで、何人もの若者にナンパされてしまった。その都度観光と思考が阻害され、非常に煩わしかったのだ。


 冗談でもなく、淡々と率直な意見を突きつける僕に、アルフォンス君は息の根を止められたように呆然と、反射的な同意を示すしかなかった。


 まだショックから完全に抜け出しきれてはいないようだが、もう悪い感じの落ち込みではなさそうだから良しとしよう。


 こうして語らいの時間はお開きとなり、それぞれの部屋に引き上げることとなった。


 再度入った僕用の客間は、すっかり快適に整えられていた。クマ君の仕事に感謝だ。


 考えたいこと、調べたいことはまだ山ほどあるが、さすがに今日は疲れた。

 家の施設は自由に使っていいとは言われたが、もう風呂に入る気力もない。配送されてきた支給品の中から、寝間着を探すのも億劫だ。


 ワンピースを脱いで椅子に放ると、そのままベッドに倒れ込むように身を投げ出した。


 今日は、人生で三指に入るほどの激動の一日だった。これが一番とならないのが、僕の人生の困った点だ。


 しかし大変なことにはなったが、困難とも辛いともまったく思わない。むしろ気分は今までにないほどに高揚している。 


 僕が死の瞬間にまで執着したあの願い。叶うはずがないと、ずっと諦めてきた望み。

 ――再び生まれ落ちたこの世界で、僕は必ず実現させる。


 そう考えると、いもしない悪意だらけの神に、感謝すら捧げたくなるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る