一章

寿命

 心臓発作だった。


 来栖幸喜、65歳、男性、職業医師。

 死ぬにはまだ少し早い気もするが、それが寿命なら仕方がない。

 深酒も煙草もやらず、どんなに健康的な生活をしていてすら、バカバカしいほどのヘビースモーカーに、長生きレースで負けることもあるのが、人生の不条理なところだ。


 少しだけ人とは違った来栖幸喜という人間の人生を、ふと振り返る。


 七歳の頃、大きな事故に遭った。ニュースでしばらく騒がれたほどのひどい事故だ。

 そして家族の中でただ一人生き残った悲劇の少年として、世間に注目されながら退院した。

 その後、医師を志したのは、当然の流れだったのかもしれない。


 慰謝料と保険金で生活の問題もなく、善良な祖父母の下で必死に勉学に打ち込み、やがて大学病院で小児外科医となった。

 四十代で体力の限界を覚えてからは、内科へと転科したが、小児科の臨床医にはこだわり続けた。


 ちょうど65歳の誕生日となる早朝、突然の発作に、自宅の床で倒れたのがつい先程のこと。あまりの激痛で息もできない。倒れる際に足の小指をぶつけたが、それどころではない。


 体が動く限りは生涯現役のつもりで、定年後の再雇用の根回しも万端整えていたというのに……どうやら、その必要はなかったらしい。まさに定年を迎えた翌日というのが何とも皮肉な話だ。

 少しの休暇の後でまたバリバリ働くはずだったのに、永遠の休暇となりそうだ。


 一人暮らしの懸念がまさに降りかかった格好というべきか。定年直後とは、まったくもってタイミングが悪い。休暇を取ってしまったせいで、連絡が付かないことを不審に思われるまで、しばらくかかるかもしれない。

 第一発見者となる方には申し訳ないというしかない。

 タワーマンションの一室での孤独死。独居老人問題提起の一助となればいいのだが。


 それにしても、四十年も医師をしてきて、よく知る症状だが、いざ自分の身に降りかかるとなったら、実に死ぬほど苦しいものだな。まあ当然だ。実際死にかけているのだから。

 だがこんな事態すら、僕を混乱させるには力不足らしい。死を迎えるなど、普通なら人生で一度きりの大変なビッグイベントのはずなのだが。


 背負うものもない気ままな独身貴族。仕事の引継ぎも無事すんでいるし、悲しむ身内がいるわけでもないのは、幸いと言えば幸いか。実に身軽なものだ。


 遺産を残す身寄りもない。とりあえず毎年遺言状の書き換えを欠かさないでいてよかった。国に吸い上げられるくらいなら、寄付したい団体はいくつもあるのだ。後悔先に立たず、転ばぬ先の杖――やはりいざという時のための準備はしておくものだ。


 僕の遺体の発見者は、室内の様子に驚くかもしれない。

 還暦も過ぎた男の一人暮らしの部屋としては、著しくアンバランスに見えるだろう。


 僕自身の趣味である推理小説やクラシック音楽は数年前にすべて電子に入れ替えたから、大分さっぱりしている。処分の折、二束三文だろうと思っていた古本の多くに思わぬ値がついて驚いたものだ。状態の良い初版本というのは、マニアには価値があると聞いてはいたが、何十年も昔、普通に本屋で買った数百円の本が、数万円に化けるとは。何気なく買って気に入ったから買いそろえていた無名の新人が、今ではミステリーの大家になっていたりしたのも大きいのだとか。本など読めれば用は足りるだろうに、僕には理解不能だ。


 一方で、仕事の一環として重宝した子供向けの資料は、所狭しと大量に棚に並べられたままだ。

 ここ三十年間、常に子供の関心の移り変わりに合わせて人気ジャンルをアップデートし続けてきた。

 患者となる子供とのコミュニケーションのための下準備の産物だ。

 漫画にアニメ、ゲーム、スポーツや乗り物やおもちゃのジャンルなどの本、人気のキャラクターやユーチューバー、パンのヒーローから最近ではライトノベルまで多岐に渡り、まるでコレクターの様相だ。

 僕自身はどれも嗜まないが、常に最新の情報は欠かさず頭に入れていた。自分ではまったく興味もないゲームの攻略本が、いくつもあるのも滑稽な話だ。

 

 これらの地道な努力が、子供に人気のおじいちゃん先生の地位を築き上げたという自負の一端でもある。

 一方で、変わり者だと煙たがる大人も少なくはなかったかもしれないが。


 変人疑惑の最後の一つとして、葬儀に訪れる同僚たちが、来栖先生は重度のオタクだったらしいと囁きあう様子が目に浮かぶ。


 ところで、死の間際のイメージではあるが、これは走馬灯とは別と考えていいのだろうか?


 棚の上の、メイド服をまとった古ぼけたテディベアが、ボタンの目で命の消えゆく僕を見ている。


 ――クマ君、これでお別れだね。


 数十年来の同居クマに、最後の挨拶をする。


 苦しみの中で脳裏に蘇ったのは、血の海に横たわる僕の家族。

 とりわけ強く思うのは、小さな男の子の姿――何十年たとうが、思い返す度に胸が痛む。

 二度と会うことの叶わない、僕に懐いていた可愛い弟。

 こちらなら走馬灯と認定しても良いだろうか。明確な判定基準が分からないからあくまでも推定だが。


 こんな時になんだが、走馬灯といったら死ぬ寸前の人間が見るもの、という想定はいかがなものだろうか。

 走馬灯を見たと証言した人間は、すべからく生還した者に限定されるのだ。それも命の危険のある状況下において、例外なく動揺し、あるいは不明瞭な意識レベルの状態で。そんな酔っ払いの記憶にも等しいような不確かものを真に受け、科学的な検証のしようもないまま世間に浸透させたままでもよいものだろうか。証明されていない以上、迷信と大差ない。

 最も疑念を差し挟む余地がある点は、本当に死んだ人間は、誰も証言しに舞い戻ってきたりはしないことだ。


 実際に死にゆく者は、あるいはそこではまったく別の何かを見ているかもしれないではないか。誰にも証明できない、しかも極めて主観的なものが、世間では当然のように容認されている現状は、どうにも腑に落ちないものがある。


 果たして僕は、これからそれを確かめることはできるのだろうか? 時間的にも肉体的にも、考察する猶予はないだろうことが惜しまれる。せっかく一生に一度得られるかどうかの貴重な機会だというのに。もっとも僕の場合は一度目ではないが、昔死に瀕した時の記憶は、ほとんど残っていないのだ。


 そこで、思わず失笑しそうになる。

 ああ、まったく僕という人間は、今際の際においてまでこうなのか。

 さすがに死ぬほど苦しいから、実際に笑うのは無理なのだが。


 死を目前にして、視界が暗くなってきた。

 不意に、じわりと身を切り裂かれそうなほどの後悔に蝕まれる。


 遣り残したことがあった。


 どんなことをしても、叶えたかった強烈な渇望。

 決して叶うことはないと、心の奥に蓋をして燻ぶらせたまま目を逸らし続けてきた想い。

 何もかも諦めたまま、今、僕の――来栖幸喜の、悪夢のように長かった人生が終わろうとしている。


 僕の、人とは違った人生に、どんな意味があったんだろう。いっそあの時、家族と一緒に死んでいれば……。


 何を今更。

 もう遅い、遅いのだ。それ以前に、僕の望みは、もとより努力ではどうしようも――な――。


 息もできないほどの苦痛にもがきながら、やがて意識は闇に滑り落ちた。

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