異世界転移殺人事件
寿利真
プロローグ
僕達の前に、血の海が広がっていた。
床の上にびしゃびしゃと赤い噴水が跳ね返る。その勢いも、見る間に衰え始めて――。
凄惨な光景を観察しながら、僕と同じ血の色なんだな、などと愚にもつかないことをふと思う。
被害者の正面には、惨劇を作り出した張本人らしからぬ物腰で、泰然とたたずむ殺人鬼。
ああいう顔もポーカーフェイスというのだろうか?
ただしその手には、血の滴る凶器がいまだ不気味なうなりを上げている。
悪夢の目撃者一同は、彼らを取り囲んだまま、目を逸らし、あるいは口元を抑えて、なす術もなくただ恐怖に凍り付いて立ち尽くすのみ。
というのも、動こうにも物理的に一歩も動けないせいだ。
凶行の間中、この場にいる全員が足の裏を地面に縫い付けられたように、ピンポイントな金縛りにあっていた。
理屈は知らないが、重力を操作されているらしい。
ダンスとは無縁の僕でも、今ならポップスの帝王のようにゼロ・グラビティができるのではないだろうか。あれにはムーンウォーク同様、ちょっとした憧れがあったのだ。
もちろんさすがに不謹慎なので、この場で挑戦するのは断腸の思いで諦めた。
筋力に自信があったらこっそり試したかもしれないが、失敗して崩れ落ちでもしたら目も当てられない。こんな非常時に一体何をやっているのかと、一族の皆さんから顰蹙を買うこと請け合いだ。
僕にだって空気を読むことくらいできるのだ。
堪らず嘔吐した伯母の足元へと、すかさずドローン型のお掃除ロボットが、ふわりと駆け付ける。職務遂行ご苦労なことだ。
まずは彼女の靴から、汚物の吸い取りと磨きにかかる。
これで一安心だ。動けないせいで自打球を食らっていて気の毒だったのだ。漂っていた不快な臭いもあっという間に消え失せた。
ところであのロボットが、被害者の血液や肉片よりも、吐瀉物の処理を優先した判断基準はなんだろう? やはり匂いの強弱だろうか? それとも人体は別枠? 単に製造者の定めた初期設定の優先順位に従って? もし周りの人間の期待を読み取った上での行動だとしたら、さすがご禁制となるだけの超絶技術だと感嘆したいところだが。
異常な状況をドラマチックに盛り上げるBGMは、僕がこの国に持ち込んだ作品の一つであるモーツァルト。
それも、公開されて間もない「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」。
この場を彩るには、なかなか相応しい選曲なのではないだろうか?
さすがに技術の粋を極めた【チェンジリングの王】の異次元的な大豪邸ともなると、スピーカーの音質からして実に見事なものだ。まるでホールでオーケストラの生演奏を聴いているかのような臨場感。加えてリアルに血みどろの舞台装置で効果抜群だ。
耳障りなほど高らかに響くアリアの中、居並ぶ一族の視線を、自身の鮮血とともに一身に浴びているのは、今日の会合で初めて面識を持った僕の――というか、この体の血縁者。ここにいる全員がそうだ。
やがて犯人は凶器を収め、悠然と現場から引き上げていく。
犯行の終わりを告げるように、不意に金縛りが解けた。
被害者がどさりと床に崩れ落ちる。
我々の行動の自由も戻るが、誰も追う者はない。ただ身を強張らせて見送るばかり。
一人、条件反射のように被害者の元へ駆け寄ろうとした僕は、
「触らないでください。現場保存を」
感情を押し殺した声色で、制止された。
プライベートな場とはいえさすがに本職の捜査官だと、少々感心する。身内の惨殺現場を目の当たりにしたばかりで、若いのになかなかどうして立派なものだ。蒼褪めていなければなおよかったが。
それより、特にきついわけでもない拘束が振りほどけないことの方に、今更ながら奇妙な違和感を覚えた。
女性とはこんなにも非力なものだったのだなあと、改めてとりとめもない感想を抱きながら、彼を見上げる。
「アルフォンス君。僕は医師だったんですよ」
「コーキさん。今必要とされるのは、監察医です」
その一言に、踏み出そうとした足が止まる。
思い違いを自覚し、すっと、心が醒めていった。
そうだ。何をしているのだ。確かに僕の出る幕ではない。
気付かないうちに、少々冷静さを欠いてしまっていたようだ。この期に及んで、僕らしくもない。
日本での医師免許など、ここでは何の意味もない。かつて定年まで大学病院で勤め上げたキャリアも積み重ねた経験も、欠片も役に立ちはしない。
この世界では。
今の僕には、もう何の資格もないのだ。
もはや駆け寄る資格すらも。
何とはなしに、己の手を見つめる。
僕が何十年も付き合ってきた年季の入った手とはまるで違う。
細い指。華奢でしみ一つない、若く美しい手。
数か月経って、すっかり馴染んできたこの手で、僕はこれからどこまでやっていけるのだろう。
まだ始まったばかり。ここから解放され、自由を取り戻すのは、四日後だ。
認めがたいが、どうやら僕は今、動揺しているらしい。初めからすべて承知の上で、事に臨んだはずなのに。
この感情は、恐怖なのか。それとも覚悟なのか――。
眼前に繰り広げられた馬鹿馬鹿しいほどに現実離れした不条理な空間は、まるで僕の好きだった推理小説――それも怪奇幻想ミステリの世界にでも迷い込んでしまったかのようだ。
「こんなとこ、来るんじゃなかったっ……」
悲鳴のような従姉の嘆きが聞こえる。
確かにその通りだ。しかしもう遅い。僕達は全員、巨万の富という餌を目の前にぶら下げた悪魔の招待を受け、この狂気渦巻く狩場へと足を踏み入れてしまったのだ。
舞台となるのは、外部との連絡手段が完全に絶たれた、古典的シチュエーションともいうべき陸の孤島。
いわくつきの謎めいた館に集められた『キング』の類縁による空前絶後の遺産相続騒動の真っただ中。
鮮血というスポットライトに彩られているのは、四人の犠牲者を出した十五年前の遺産相続騒動の生き残り。
そしてつい先ほど相続人候補から一人脱落したところだ。今回の犠牲者第一号として。
他の参列者もまた、同じく当時の生還者。
ただし、子供と僕は除く。
僕まで除いたのは、すでに死亡者の側に名を連ねているためだ。
マリオン・ベアトリクス――それがこの体の以前の名前。
十五年前の事件で、四人もの相続人候補を手にかけた凶悪殺人犯として、半年前に処刑された。法的にはもう死亡した人間だ。
ある意味あの事件にまつわる、五人目の死者ともいえるだろう。
そして今、マリオンの代わりに僕がいる。
十五年ぶりに、因縁の舞台に舞い戻ったかつてのキャストと、新しく加わった何名か。
殺人鬼が平然と徘徊する、理不尽極まる閉ざされた館。
お約束を詰め込んだような舞台設定の中で起こった、とびきり非現実的な公開殺人ショー。
使い古された陳腐なモノローグで語るならば、今まさに惨劇の幕が、再び上がった――といったところだろうか。
異世界で。
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