恋未満<坂田の場合>

諏訪 剱

第1話 一作目読了翌日のこと

 その日は朝からついていなかった。

 窓の外が明るくなってきた頃に一度目を覚まして部屋の時計を確認したらまだ五時少し前だった。まだ三十分は寝ていられる、と二度寝したが、もうすぐ目覚ましが鳴る、もう鳴るか、もう鳴るか、と気にかけながらうつらうつらとしていた。

 さっきよりも明るくなったかな、でもまだ目覚まし鳴らないしな・・・。

 そう思い、もう一度時計を確認しようという気になった。部屋の中は明るい。目を開けて頭だけ少し横に倒せば時計が見える、はず。しかし・・・瞼が開かない。まるで接着されているかのように目が開けられない。おかしい。瞼が開かない場合は、どこに力を入れればいいのだろう。歯を食いしばってもだめ。口を動かしてもダメ。はて、どうやれば目を開けられるのだろう。日々こなしているまばたきという動作は無意識に行っているものなのだと思い知らされる。こうなったら指でこじ開けるしかない。指。私の指もうまく動いてくれない。指は動くのに顔に持っていくまでの腕が重すぎて言うことを聞いてくれない。指先をわきわきと動かしても当然ながら、ちっとも瞼は開かない。どういうことだ。

 ああ、もう!いいかげんにしろ!

 そう叫べない口で叫ぼうとしたとき、目が覚めた。なんて目覚めの悪い朝。変な夢を見ていたらしい。心なしか、首が痛い。ゆっくりとベッドに起き上がって首を一回転する。どことなく違和感を覚えた。明るい。部屋の中が妙に明るい気がする。時計を見ると、五時少し前だ。

 その割には妙に明るいなあ・・・そういえば目覚ましは鳴ったんだっけ?

 携帯を見ると、8:26の表示。

 ・・・?・・・・・・!

 携帯を開いてアラームを確認する。設定し忘れている。

「ああ、やっちまった。自分のばか!」

 声に出してみると余計に焦燥感が増す。慌てて着替えリビングに行くと、家の中は誰もいない。不自然なほど明るいリビングはシンと静まりかえっている。いつもなら寝過ごしても七時前に出かける母が声を掛けて行ってくれるのだが・・・カレンダーを見ると、「出張」と書いてある。ようやく「明日はいつもより早く出るから」と言っていたことを思い出す。

 何も、お母さんの出張の日に限って、時計の電池が切れることないじゃん!

 顔を洗って髪の毛を整えながら、洗面所の時計をにらみつけた。あと十分で一時限目が始まる。どう考えても無理だ。それどころか、頑張って急がないと二時限目にも遅れるかもしれない。電車のタイミングによってはぎりぎりかもしれない。一瞬、動きが止まる。自分の中で、二人の自分が大論争を繰り広げる。

 間に合う。大丈夫。今すぐ出れば二時限目は間に合う。急げ。

 いや、もう諦めよう。だって寝癖が取れないし、これを直していたら間に合わないし。

 でも、欠席は極力少ない方がいいし。

 いや、一時限目が欠席の時点で、もうだめじゃん。

 でも、一コマ落とすだけで済むんだよ?

 いや、ノート借りる人もいないし。

 でも、借りる人いないからこそ、ダメージは少ない方がいいだろう。

 いや、そんなに頑張ってもしょうがないじゃん。もう遅刻確定なんだし。

 でも、とにかく行こうよ。考えている暇がもったいない。

 いや、もう面倒くさいし・・・

 私は思考を諦め、可能な限り機敏な動作で身支度を済ませると、鞄を抱えて家を飛び出した。駅までひたすら走りに走ったが、二分前に一本行ってしまい、じんわりと汗ばんだのにもかかわらず、結局八分ほどホームで電車を待った。いつもなら読みかけの本を読んで過ごすのに今日は手持無沙汰だ。昨日の夜、寝ながら読み切ってしまった。今日から新しい小説を読むつもりだったのに、慌てていたため持ってこなかった。

 八分なんて、こんなに余裕があるならあんなに走らなくてもよかったのに。なんてついていない。それにしても長い。なんて長い時間だろう。なんて無駄な時間だろう。本もない、何もしない。ただ待っているだけの八分。なんてついていない。


 学校の最寄り駅で下車して駐輪場に向かう。いつもなら同じ高校の生徒で混雑しているが、さすがに二時限目から登校する輩は居ないらしい。私の自転車がぽつんと寂しげに持ち主のことを待っていた。鞄をかごに入れようとすると、空のペットボトルが入れられている。

「誰だ、むかつくなぁ。ちゃんとゴミ箱に入れろよ。くそう。」

 だんだんと苛立ち始めた私は少し力を込めて自転車のスタンドロックを外す。バチンとスタンドが土や小石と共に跳ね上がり、埃が私の目に入った。

「ああ、くそう。まったく今日はついていない。」

 道中、自販機横にあるゴミ箱にペットボトルを入れようとしたが、満杯になっていてその脇にも三本ほど空きボトルが転がっている。

「ああ、くそう。捨てるなってか。」

 仕方なくコンビニまで行って誰のものかわからないペットボトルをゴミ箱に入れて、ようやく学校に行くだけとなったわけだが、もうこの時点で授業に間に合おうという野心は消え失せていた。もうどうにでもなれ、と思いながらたらたらと自転車を漕いだ。

 学校の駐輪場は、当然ながらいつもより多くの自転車が停まっていて、隙間を探すのにまた手間取った。奥まで進んだがすんなりと停められるスペースはなく二、三台詰めてねじ込むしかなさそうだ。仕方なく隙間を作るために自分の自転車を仮置きして人の自転車を動かし始めたとたん、私の自転車が鞄の重さでバランスを崩した。スローモーションで絵に描いたような自転車のドミノ倒しの光景を、私はただもう見守るしかなかった。

「なんなんだ、今日は。もう、やだ。学校なんか来なけりゃ良かった。最低。最悪。」

 いっそ最後まで倒れてしまえ、と倒れる自転車を眺める。今更走って行って倒れるのを途中で止めようとする努力など無意味に思えた。

 ところがその時、想定外のことが起こった。

 突如向こうから男子が現れ、自転車にまたがったまま片手で倒れる自転車を止めたのだ。

 私は驚いて「え。」と言ったが、すぐに彼自身がバランスを崩しかけていることがわかり慌てて走り寄った。私が倒れかかっている自転車を引き受けると、彼は素早く自分の自転車を停め、すぐに黙々と倒れた自転車を起こし始めた。

 あまりにスマートに作業する彼に合わせて私もそのスピードで動かざるを得なくなった。気持ちではもう自暴自棄になっていたのに、体は無意識に近い状態で懸命に自転車を起こしている。もう頭の中はパニックで思考停止状態だ。この上なく居心地の悪い状況に、わきの下に嫌な汗が噴き出てきた頃、見慣れた自分の自転車を起こしていた。

 つまり、倒れた自転車はすべて元通りになったのだ。

 いや、元通りではない。

 そこには2台分の自転車が停められるだけのスペースがちゃっかり出来上がっている。

 私が自分の自転車をおずおずとそこに停めて鞄を取り上げると、助けてくれた彼はスッと自分の自転車を隣に停め、

「ラッキー。」

と言った。驚いて顔を見ると、彼はあろうことか、微笑んだ。

「あ、あの、あ、ありがとう。」

 てっきり怒られるか、嫌みを言われるか、いずれにせよ悪態つかれると思い込んでいた私は、微笑むという行動に対してそう言うのが精いっぱいだった。

「いいよ。おかげで遅刻したのに停められたから。」

 そう言い残すと、彼は校内に姿を消した。

 

 駐輪場での救世主は、たしか隣のクラスの男子だったはずだ。当然ながら名前も知らない。それでも一応、改めてお礼を伝えておいた方がいいだろうと思った私は、昼休みに飴を握りしめて隣の教室を眺めまわした。あまり特徴のある顔でもないから少し時間を要したが、窓側の一番前にぼんやり座っている彼を見つけることができた。私はコソ泥のごとき足取りで他の生徒に気づかれないようそっと彼に近づいた。

「あ、あの、今朝はありがとうございました。あの・・・」

 人見知りの性格である私はしどろもどろになりながら飴を差し出す。

「どういたしまして。隣のクラスだよね?名前、聞いてもいい?」

「あ、坂田、です。」

「俺、相馬って言います。飴ちゃん、頂戴します。」

「ど、どうぞ。では、じゃあ・・・。」

 下げた頭を挙げて顔を見ると、相馬は屈託のない笑顔でさっそく飴を口に放り込んだ。私は自分の顔が赤くなるのを見られぬよう、そそくさと自分のクラスに戻った。


 この日から私は、相馬の存在を気に掛ける様になった。


 相馬は、特別に何かに秀でるでもなく劣るでもなく、目立つことはないが存在感が無いというほどでもない、いわゆるその他大勢のクラスメートの一人、という感じの奴だった。痩せ型で身長は高くもなく低くもなく、顔もイケメンというわけではないが激しく残念というほどでもない。部活は中学からバドミントン部で、一年の頃は真面目に出ていたらしいが、結果は伴わないためか二年になってからはほとんど顔も出さないでいるらしい。

 隣のクラスとは選択授業や男女別になる体育などで一緒になることが多いため、クラス間での交流も自然とあるはずなのだが、私自身は相馬と同じ授業になることはなかった。というのも、私が一人だけ変な授業選択ばかりしているためだ。普通科のみの中堅進学校であるこの高校では、入学時に提出した進学志望をもとにクラス分けをされたのだが、理系希望のくせに世界史を選択したのは学年で数人しかおらず、しかも女子は私一人だったらしい。おかげで理数系の選択授業はいつも一人で行動していた。男子なら同じクラスに四人、隣のクラスに三人、合わせて七人が同じ理数授業の選択をしていたが、彼らは完全に結束していた。休憩時間には連れションまでするような彼らの輪に入りたいわけもなく、私はいつも一人で行動していた。クラスの女子達とは普通に話もしたし昼食を共にする友達はいたが、元々マイペースで勝手気ままに行動することの方が多い私にとっては、べったりといつも一緒にいなければならない仲良しの子を作らずに過ごせる状況はありがたかった。デメリットと言えば、遅刻したときや休んだ時のノートを借りる宛がないということではあったのだけれども。

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