第60話 バラルの加護、アルテミシアの呪い

「カミジョウサトシ。君は……」


「自分の弱さにここで立ち向かわないと、この先……きっと僕は、自分を許せないんです」


 人がそう簡単に変わることはない。戦うことに恐怖し、死を厭う悟志は、全身に纏わりつく血と殺意の気配に心身をすり減らされていた。額に脂汗を浮かべ、顔色を蒼白に染めて今にも卒倒しそうになりながらも、マラファルと対峙することから逃げようとしない。


 平和な世界で平穏を享受していた悟志にとって戦闘も戦争も無縁だ。己の意志を通すために干戈を交える発想はない。だが、理不尽な暴力に屈することなく、抵抗する意思を失うまいと願う心は確かに息づいている。抗うこと、それが生きることに他ならないと、彼の魂は知っていたのだから。


 崩壊した民家の中から、鈍い光を伴った太刀筋が瓦礫を巻き上げる。


「いいぞ剣臣! この日を待っていた!」


 救世主の剣たる伝説の剣士と相対して、マラファルは恐れを抱くどころか逆に昂揚していた。目にも留まらぬ速さで飛び出し、悟志に斬りかかる。


 悟志は動揺しながらも、マラファルの動きを的確に捉えていた。鎚剣を振り上げ、渾身の力でマラファルの剣にぶつける。光り輝く粒子をその身に帯びた両者は正面から激突し、弾けたエネルギーが周囲を震撼させていた。


 バーチュは目を疑った。悟志が振るう冠絶した力だけでなく、剣臣と渡り合うマラファルの尋常ならざる力を目の当たりにして戦意が挫けそうだった。


 ――もはや、人の争いではない。


 激しい剣戟は一太刀一太刀が必殺の殺人剣であり,周囲を灰燼に帰す破壊剣だった。彼らを取り巻く力の源、あるいは戦いに掻き立てる闘争心の発露たる粒子の輝きに、バーチュは底知れない恐怖を感じつつあった。


 鍔競り合うマラファルは狂喜して悟志に呼びかける。


「ずっと試してみたかったんだ。根源を同じくする力、ぶつけ合ったらどっちが強いのかをさ」


「な、何を言ってるんだ……っ!」


「俺達はバラル神の加護を受け、お前達はアルテミシアに呪われている。殺し合う宿命なんだよ、何千年も前から」


 剣を交える度、悟志は追い詰められていった。もとより戦意と闘志に歴然たる差があるのだ。戦闘に臨む恐怖を克服できない悟志は動きが強張り、武器を振るう躊躇いが一つ一つの攻防で後れを取る。戦いが長引けば長引くほど、マラファルの優勢が不動のものとなりつつあった。


 両者の戦いを物陰から窺っていたゴブリンが悟志に飛びかかる。悟志はこれを退けたが、ほんの数瞬、マラファルから意識が逸れた。


 陽動にすらならない間隙。だがマラファルにはそれで十分だった。剣臣と同等かそれ以上の肉体機能の強化をもたらす“バラルの加護”は、摂理の制約を寄せ付けず、桁外れの身体能力を現実化させていたからだ。悟志の首はマラファルによって刎ねられるかに思われた。


 悟志の窮地を救ったのはバーチュだった。圧倒的な戦闘能力の差に愕然としながらも、彼を突き動かしていたのは偏に騎士の誇りと使命感だった。


「卑劣漢め! 貴様の存在は不快だ!」


「邪魔すんなよ雑魚がッ!」


 バーチュはマラファルを押し返し、定められた作法に則って簡易術式を起動させる。


「『求めよ、さらば与えられん』!」


 武具性能強化の魔術詠唱がバーチュの剣に作用する。攻撃力、耐久性を極限まで高め、武器を己の身体の一部として認識する身体拡張の効果を付与したことで、バーチュの剣技はさらなる冴えと破壊力を得てマラファルと剣戟を交わし続ける。


「お前如きじゃ俺と張り合うなんて無理なんだよ」


「百も承知。だが貴様のような奴を野放しにしておけば犠牲が増えるは必定! 信僕騎士として看過することはできん!」


「なら捨て身で俺に挑むか? 他人のために命を懸けるなんざ馬鹿のすることだ」

 

 傷つきながらも、マラファルの猛撃に何とか太刀打ちしていたバーチュだったが、斬撃を弾き返す度に彼の身体も剣も軋み、悲鳴のような音を立てる。バーチュ自身は血にまみれ、遂に大剣も剣身にいくつもの罅が侵食し、敗退と崩壊は時間の問題かと思われた。


「馬鹿と言ったなマラファル! お前のその浅はかさが身をほろぼすと知れ!」


 果たしてバーチュの大剣は蓄積された負荷が飽和して硝子のように砕け散った。しかしバーチュの闘気は衰えることなく、振り下ろされたマラファルの剣を踏みつけて地面に釘付けにし、腰に佩いた鍵のような意匠の短剣を引き抜く。短剣はマラファルではなく、バーチュ自らの心臓に突き立てられ、その予想外の光景と短剣の発する未知の波動にマラファルは当惑した。


「『剣を執りて剣にほろぶべし。御主に許しを請うて、御主の敵を打ち払わん』!」


 バーチュの決死の覚悟と意志がトリガーとなり、短剣の真価が発動する。鍵としての役割を持つその短剣は、人が誰しも魂の奥底に秘める原初虚無へと通ずる道の扉をこじ開ける禁忌の秘具。マリスティアの破界の心働や剣臣の破界剣と同種のこの世ならざる力は、周囲十数メートルのあらゆる存在を別位相へ転移――すなわち無に帰す、テルマテルにおいて比類なき自決装置に他ならなかった。


「貴様のような奴を生かしてはおかん! 私と共に、この世から消え去れ!」


 バーチュとマラファルは組み合ったまま微動だにできない。空間ごと虚無の地平線へ相転移し始めたことで、彼らは身体に楔を打ち込まれたように行動を封じられ、その場から逃れることは不可能だった。


「バーチュさん!」


「カミジョウサトシ! 君はこの世の不条理と理不尽を断ち切る剣となれるはずだ! どうかこの世界を……私の家族を救ってくれ」


「ダメだバーチュさん……死んじゃ……死んじゃダメなんだ!」


 目の前で誰かが死ぬのはもう見たくない。あまつさえ、その記憶も、存在も忘れ去られてしまうことが悟志にとっては耐え難い。だが、テルマテルに固有のその残酷な真実を伝えることもできず、ただ必死に、がむしゃらに、バーチュを引き止めようとすることしかできなかった。


「私一人の命で、搶光のマラファルを討ち取れるなら重畳。今日まで生きながらえてきたのは、このためだったと信じる。天命に従うは私の意志! この意志が道を切り拓き、後輩達の助けになることを願う!」


 バーチュは穏やかな面持ちで目を閉じた。身体の輪郭は綻び始め、ウルリッヒ・バーチュという個人があやふやになっていく意識の中で、臆病だったかつての若い自分と悟志の姿が重なる。


 バーチュが自らの怯懦に立ち向かい、乗り越えられたのは、騎士学校の同窓生として青春時代をともに過ごした妻の存在があればこそだった。騎士として人々を守る使命に共に邁進し、幸せな家庭生活では二人の子宝にも恵まれた。思い出はいくらでもあったが、明瞭と想起されるのは、愛する妻と息子達の、何気ない日常で見た笑顔だった。


「エレイン、オリス、カーリー……どうか長生きしておくれ」


 バーチュとマラファルの周囲が白く染め上げられながら渦巻く。あらゆるものが生者には観測できない領域である虚無へと還り、存在の痕跡すら残さず消滅していった。

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