第20話 怒りの颯磨

 マリスティアの触手が血液を撒き散らしてのた打ち回りながらも、素早く本体へ引き戻された。損傷した触手を庇うように、入れ替わりに二本の新たな触手が地を駆け颯磨に迫る。先端が鋭利な切っ先に捻じり曲がり、人の肉体を抉り刺すことに特化した生々しい凶器が、血を求めて唸りを上げた。


 醜悪な外形の触手を蔑むような眼差しで見つめながら、颯磨は迫り出した剣の柄に手を掛け、引き上げた。すると、機械的機構が発動し、サーベル型の剣から意匠の異なる鋭利な刀身を持った剣が分離する。両手に携えた双剣を構え、颯磨は迫り来るマリスティアの触手に向かって疾駆した。


 まるで呼吸するかのような自然さとともに、鮮やかな剣捌きが触手を邀撃する。目にも留まらぬ速さで前進しながら繰り出される連撃は、触手を数十分割に切り刻み、赤黒い血の雨を降らせていく。


 瞬く間に距離を詰められ、マリスティアは魔術的束縛から自由を得た両の手で颯磨の進撃に掣肘せいちゅうを加えざるを得なくなる。逃げ場を無くすように左右から襲い掛かる魔手を、颯磨は身体を捻って飛び上がりながら回避し、一瞬のうちに十数回斬りつけ、細切れの肉片にしてしまう。


 勢いそのままに、マリスティアの懐へ飛び込んだ颯磨は、渾身の力を込めて双剣を袈裟に振り下ろした。


 遂に騎士が打ち破ることの出来なかった空間防壁はいとも簡単に砕け散り、あり余る剣圧が衝撃波となってマリスティアに叩きつけられる。まるで怪物の雄叫びのような轟音がその威力を如実に物語っていた。


 ロザリーに肩を貸しながら、その光景を呆然と見つめていたシエラが思わず唸る。


「凄い……あれが、剣臣と具現鋳造の力」


 彼女の驚きよりも、颯磨をよく知る幼馴染達の驚愕の方が何倍も衝撃的だった。常人離れした身のこなしと戦い慣れているかのような剣捌きは、颯磨とは違う別の何者かが乗り移ってしまったかのような、得も言われぬ不安すら感じさせた。怒りというより、もはや憎悪するかのような容赦ない暴力でマリスティアを追い詰めるその鬼神の如き姿にも、心底恐怖を感じるより他になかった。


 態勢を崩したマリスティアへの追撃を止めぬ颯磨だったが、それは勇猛というより無謀であった。マリスティアはその迂闊さを看破し、再生を果たした触手を再度けしかける。


 颯磨は油断していたわけではない。だが、怒りに我を忘れた苛烈な特攻は、まさしく捨て身の乾坤一擲だった。攻撃を避ける気すら思考にない猛り狂った颯磨は、剣を横薙ぎに振るい、触手もろともマリスティアの核を両断しようとする。


 果たしてマリスティアの喉元を掻き切った颯磨の剣であったが、触手によって右の掌を貫かれ、斬撃は不完全な間合いと威力になってしまい、核を破壊するには至らなかった。


 掌の肉が裂かれ、骨をも砕かれ、真っ赤な血液に色づく自らの右手を視界に捉え、颯磨はようやく我に返った。


「痛ッ――てぇなぁ!」


 激痛に顔を歪めながらも、颯磨は左手の剣を振り下ろし、自らの右掌を貫いていた触手を切断する。後退しながら地面に着地すると同時に忌々し気にマリスティアを睨みつけ、再度の攻撃を図ろうとするも、予想外の事態に全身を硬直させてしまう。


 傷を負った右手から悪寒が這い上がってくる。腕から肩、胸、首へと侵食し、自身の体内に巣食った呪いが形を帯びて、精神をいたぶり始める。


 延々と脳内に反響し続ける呪詛の所為で頭が割れるように痛む。視界には憎しみに歪んだ形相の人間達が迫り来る幻覚がちらつき、恐怖と嫌悪に動悸が激しくなり、身体が痙攣して呼吸すらままならなくなる。


 マリスティアは口腔を大きく開き、核の周囲に邪悪な光を収束し始める。ネフェの命を奪い、メーネの堅固な防壁を打ち破った魔砲が颯磨を標的に定め、今まさに放たれようとしていた。


 放心状態だったロザリーの表情から、見る見るうちに血の気が引いていく。


「あ、アレをまた撃つ気!?」


 シエラとロザリーは颯磨の前に躍り出てマリスティアと対峙する。それぞれの足元に魔術陣が浮かび上がり、眩い光が二人を包む。


 遠く離れた場所であろうとも、その殺意が届く限り被害をもたらすマリスティアの魔砲を防がなければ、ここにいる全員だけでなく、後方のアミューネ村も無事では済まない。だが、冠絶した力を持つ救世主メーネでさえ死力を尽くして防ぐのがやっとだった攻撃を、果たして自分達だけで防ぎ切ることができるだろうか。防いだとしても、自分達は無事にアーデンの森の土を踏むことはできるだろうか。シエラとロザリーは、これまで感じたことのない恐怖と不安に押し潰されそうになりながらも、震える小さな両手で強大な殺意を受け止めんと決死の覚悟を決める。


「……シエラ」


「分かってるロザリー。あんな奴に負けられないもの」


 それは死地に赴く者達の最期の言葉に違いなかった。二人はお互いにぎこちなく笑い合い、ありったけの魔力を総動員して広範囲の空間防壁を展開する。上空から降り立ったヨウカハイネンが二人を引き留めるかのようにけたたましい鳴き声を上げていた。


「姉さま……私達、必ずやってみせるから!」


 ロザリーの裂帛れっぱくの気合が一帯に響き渡る。その雄々しい姿に、しかし玲士朗は心強さを微塵も感じない。彼が感じたのは、死に行く覚悟を決めた者の悲壮、犠牲を求めずにはいられない人の世の理不尽、そして誰かがいなくなる予感の哀惜。


 ――人が死んでいく。何の感慨もなく殺されていく。いとも簡単に、無残に、命が奪われていく。


 それは、本来の死の在り方ではないと、強く思った。命を持つが故に避けられぬ終わりが死であるならば、それはもっと尊く、誠実で、畏敬を以て迎えられるものであるはずだ。翼咲の死がそうであるように……。


 マリスティアは死を騙るただの悪意の塊だ。死に逝く者の思いも、残される者の思いも踏みにじり、奪い尽くす。後に残るのは、救いのない哀しみと果てしない苦しみ、怨嗟、悲嘆……。


 そんなものは認められない。もう誰も殺させはしない。その強い思いが、玲士朗に執るべき道を選ばせていた。迷う一瞬すらなく、ただ友人達を護るために、駆けていた。


 玲士朗は自らも驚くほど自然に具現鋳造の力を行使し、鞘に納められた刀を具現化させる。


 数十メートルの距離も、剣臣としての並外れた身体能力を得た玲士朗にとってはものの障害ではない。マリスティアが魔砲を放つ前に肉薄し、機先を制することは十分可能だった。


 しかし、先をとっても、一撃でマリスティアに致命傷を与え、動きを封じなければ、あの魔砲は防げない。


(出来るのか? 自分に)


 決意は固いが、自信は揺らぐ。もとより降って湧いた身体能力の向上と具現鋳造の力。血の滲むような鍛錬によって鍛えられた強靭な精神に裏打ちされない武力への信頼は、蝋燭の火のように心許なく揺らめいてしまう。


 その動揺を見透かしたように、玲士朗を引き留める声が戦場に響く。


 玲士朗はたたらを踏んで、シエラとロザリーの手前で立ち止まる。引き留めたのは詩音だった。彼女もまた、常人ならざる脚力で玲士朗に追いつき、慣れない力に振り回されながら、玲士朗の傍らでつんのめる。


「おっとっと――やっぱりまだ慣れないわね」


 殺伐とした空気に似つかわしくない気安さで、詩音が玲士朗に笑いかける。呆気に取られる玲士朗の反応を待たずに、詩音が前方のマリスティアを見据えた。


「一人で抱え込むことないって言ったでしょ? まずは私がアイツの反則技を防ぐわ」


「……出来るのか?」


「出来る……ううん、必ずやってみせるわ――もう、誰も傷つけさせないんだから」


 静かな、しかし熱を帯びた決意だった。詩音が大きく深呼吸をして精神を集中させると、全身が紅い光の粒子に包まれ、具現鋳造の剣が彼女の左手に姿を現す。


 その剣は、逆手に持つことを想定された大剣だった。一見すると巨大な鉈の如き幅広の剣は、分厚く、黒い剣身全体が機械的な装飾に彩られている。詩音は軽々とその剣を振るい、マリスティアに向けて構えた。


「私が、みんなを守る!」


 覚悟の宣誓が彼女の剣に内蔵された機構を発動させる。複雑な模様が施された剣身が左右に浮き出し、マリスティアに対峙するように向きを変えた。さしずめ盾のように、剣身が詩音を覆い隠して展開される。


 剣としては異様な形を呈する未知の武器に、玲士朗は驚きを隠せなかったが、すぐに詩音の後方へと退がり、マリスティアへの反撃の準備に入る。


 詩音の言葉に疑念など持ちえなかった。椋木詩音という幼馴染は、やるときはやる女である。と同時に、できもしないことを大言壮語する見栄っ張りでもない。そして、友人や仲間を危険に晒すような真似は絶対にしない。


 ならば自分も、詩音と同じように、為すべきことをなさなければならない。玲士朗は一層自分を奮い立たせ、マリスティアを倒すイメージを練り上げ続ける。その闘志が、戦意が、玲士朗の刀に自然の摂理を凌駕する力を与えていく。


 ――もう迷いはない。不安もない。あとは詩音を信じ、自分を信じるだけだと、玲士朗はまなじりを決す。

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