四章9 『別れの時』

 ノゾムは四肢をもがれ、酷い有様で寝転がっていた。おそらく地面に衝突した時にこうなってしまったのだろう。

 彼女は僕が来たことに気付くと、ゆっくりと僕の方へ顔を傾けた。

「あ、愛……。来てくれたんですね」

 胃から込み上げてくるものを何とか飲み込んで、僕は無理に笑った。

「その台詞、二回目だぞ」

「あはは、そうでしたっけ」

 ノゾムの力無い笑いが、僕の目にはとても痛々しく映った。

 しばらくの沈黙の後、僕はずっと疑問に思いつつも口にできなかったことを訊いた。


「どうして、あんなチートな力を今まで隠してきたんだ?」

 ナルミはノゾムが不正な方法で力を手に入れたとふざけたことを抜かしていた。だが僕はそんなこと微塵も信じてはいなかった。

 さぁ、ノゾム。真実を話してくれ。そしてあいつの思い込みを否定してくれ。お前の名誉をお前自身の口で取り戻すんだ。

「それは、ですね」


 ノゾムはゆっくりと声を絞り出し、言葉を紡いだ。

「もらったんですよ」

「……もらった?」

 不穏な言葉が、僕の頭の中を凍らせた。


「そうです。夢の中で、お父さんに会って。彼からもらったんです……」

「嘘だ!!」

 僕は反射的に叫び、彼女の胸ぐらを掴んでいた。

「お前はそんな奴じゃねえだろう! 一生懸命に努力して、培ってきた力で、最後まで諦めずに戦う!! そんな熱血野郎がお前じゃないか!!」

 僕がどれだけ怒鳴っても、彼女はただ申し訳なさそうに顔を俯けていた。


「どうしてだよ、どうしてなんだよ。ノゾムッ……!」

 僕の問いに答えず、ノゾムはぎこちない笑みを浮かべた。

 ノゾムの体はどんどん消えていく。ああくそ、最後の瞬間に僕は何を話しているんだ。もっと語るべきことがあるのに……! 何で、何でこんなことが気にかかってしまうんだ?


「ノゾム先輩、一つだけ訊いてもよろしいですか?」

 ふいに今まで黙っていたナルミが口を開いた。

「何ですか、ナルミちゃん……」

「努力って、何でできていると思いますか?」

 何の脈絡も無い問いに僕は戸惑ったが、ノゾムはその言葉に苦笑を漏らしていた。

「記憶、ですよね」

 ナルミは唇を噛み、震える声で彼女を責める。

「私は最初、ノゾム先輩の豹変は本当のあなたが姿を現したのだと思いました。でも違った。技の一つ一つに、いつものノゾム先輩が欠片も感じられない。なのに、あなたの記憶にはIさんがいた。それは、たった一つの真実を指し示している……」


 にわかに空から雨粒が一粒落ちてきた。そう思った次の瞬間には頭を、肩を、頬を冷たい雫が叩き、地面を茶色く染めた。

 火山もいつの間にか活動をやめ、世界は雨音の静かな囁き声に満たされた。

 ナルミは手に持った真剣を地面に突き刺し、静寂を叫び声で引き裂いた。

「ノゾム先輩は過去のあなたを捨てたにもかかわらず、力だけを自分の勝手な都合で奪い取ったんです!」

 記憶にない力。それは努力に支えられていない、空っぽで頼り無い力。まるで他人の所有物のよう。だからノゾムに使いこなせるはずが無かったんだ……。

「そんな空っぽな力で振るわれた刀で、私が切れるはずないってノゾム先輩なら分かりますよね!?」


 ノゾムは弱々しく笑みを浮かべて、ナルミの刀を見た。

「夢葉流は、空を切るために生み出されたんですからね……」

 ノゾムから溢れる光はいよいよシャボン玉のように大きくなり、本当に最後の瞬間が来たことを知らせていた。


「行くなッ、ノゾム!! 僕を置いていかないでくれ!!」

 ノゾムのブラウスは透けだし、横たわっているはずの地面が向こうに見えた。雨粒も彼女を無視して地面に水たまりを作っている。もうノゾムはここにいないのではないかと思ってしまう。でもまだ、ノゾムの声だけは聞こえた。


「……愛、聞いてください。君が私を大事に思ってくれていることは知っています。だけどね、私は所詮、ゲームのキャラクターでしかないんです」

「そんなこと無い! お前はずっと僕と一緒にいてくれた、話してくれた、遊んでくれた……」

 何だよ、それ。それじゃあ、本当にゲームと同じじゃねえか。彼女はそんな都合のいい存在じゃなかっただろうが……。


 伝えるべき言葉を探している間にも、彼女の輪郭は失われていく。だけど、見つからない。心の中にはたくさんのノゾムへの思いが渦巻いているのに、それが上手く出てこない。

 その時、背中に衝撃が走った。ジンジンと焼けるような痛みが残り、誰かに叩かれたんだなと今更分かる。振り返ると、守が涙を目の端に溜めながら僕を睨んでいた。


「しっかりしなさいよ! 彼女のことが大切なんでしょう!? あんなにも守りたいって思えるぐらい、大事なんでしょう!? だったらちゃんと、その思いを伝えてあげなさいよ!!」

 目の覚めるような、視界が急に開けたような気がした。

 僕は想いきり息を吸い込んで、自分の胸に詰まったものを全てぶちまけた。


「僕はノゾムといて、滅茶苦茶楽しかった! スッゲースッゲー楽しかった! 今まで生きてきて、お前と一緒にいた時間が一番の宝物だって言えるぐらい最高の時間だったんだ! 異世界転生したんじゃないかってぐらい、全部が輝いて見えた! ノゾムが来てくれて、僕は変われたような気がする! つまらなかった毎日に、面白いって思えるものが見つかった! それもこれも、お前のおかげだ! お前がいてくれたからなんだ! ……僕にはお前がいなきゃいけないんだ、いてくれなきゃダメなんだよ! そうじゃないと、じゃないと……」


 もっと言いたいことがあるのに涙と鼻水が邪魔してきて、考えがまとまらない。喉の奥で何かがつかえて、言葉が出てこない。

「変われた、ですか……。では愛、君はゲーム以外の人生を見つけることができましたか?」

「……え?」

 僕は涙をぬぐいつつ、宙に浮かぶ光となった彼女の言葉を待った。


「私達、ゲームのキャラクターはですね。プレイヤーさんの人生に寄り添う、恋人のような存在なんです」

「こ、恋人!?」

 突然の爆弾発言に僕は柄にも無くテンパってしまう。顔が沸騰したお湯のように熱くなっていくのが自分でも分かった。守とナルミも瞬間的に顔を赤らめていた。


「プレイヤーさんが疲れて帰ってきたら、温かくお迎えしてあげる。まるでお嫁さんのような存在なんです」

「……お前、自分で言ってて恥ずかしくないか?」

「えへへ、ちょっとだけ。でも、とっても真面目な話だから、茶化さないで聞いてくださいね」

 彼女の声音には真剣な思いが籠もっていた。僕は鼻水をすすり、真っ直ぐに光を見た。


「ゲームというのは、軽く言えば息抜き。詩的に詠えば心のオアシス。そして私風に表せば、一時のお嫁さん。学校やお仕事に疲れた時、いつでも帰ってこられる場所なんです」

 いかにも彼女らしい例え方だった。

「だけどですね、愛は知ってますか? 恋人や夫婦の間には、倦怠期っていうものがあるんですよ」

「いきなり生々しい単語を出してきたな……」

「もちろん、ゲームのキャラクターとプレイヤーさんの間にもそういうものがあります。私も愛を見ていて気が付いたんですけどね」

 ふと公園でのことを思い出した。そういえば、僕はゲーム中なのに画面すら見ていなかった。


「あれって、少し私には悲しかったんです。自分がゲームのキャラクターだって知った時から、私には皆に愛して欲しいっていう思いが生まれました。そうでなくても、自分の出ているゲームぐらいは長く愛して欲しいなって。だけど愛は確かにたくさんのゲームを長く遊んでいるけれど、とてもつまらなそうにしていました。それって私達にとって、とても悲しいんですよ。例えるならそうですね、結婚しているにもかかわらず平気でたくさんの女の子を家に連れ込み、あげくに仏頂面で皆を弄んでいる、ってところでしょうか」

「……せめて例えを友達ぐらいにしてくれないか?」

 僕は堪らず、そう提案した。

「いーやーです! 恋人がいいんです!」


 頑固にこだわるノゾム。というかこいつ、本当にこの後消えるんだよな……? そうは思えないぐらい、元気にしゃべりまくっていた。さっきまでの衰弱ぶりが演技だったかのようだ。

「その恋人の天敵、倦怠期の対策方法は何でしょうか? そう、生き甲斐です! 唯一奥さんが許せる浮気相手が、そいつなんです!」

「ごく稀に『仕事と私、どっちが大事なの?』って真顔で聞いてくるメンヘラ系恋人がいるけどな」

「そんな重い人、こっちからお断りです……」

「奇遇だな、僕もだ」

 声を揃えて笑い合った。長い長い時間、お腹がよじれるぐらいに、笑った。

 ふと見上げた時、ノゾムの声を届けていてくれた光の輝きが淡いものになっていた。


「……ノゾム?」

 呼びかけるが、返事が返ってこない。

「おい、ノゾム! 返事をしろ!!」

 光を掴もうとするが、すり抜けて振れることができない。

「……愛」


「の、ノゾム……! ったく、いるなら返事しろよ」

 僕はほっと胸を撫で下ろした。

 だが、なぜかノゾムは弱々しい笑みを浮かべていた。


「そろそろ時間みたいです」

「え……?」

 彼女の言葉をすぐには理解することができなかった。

 しかしどんどん薄くなっていく光が、嫌でも僕に現実を突き付けてくる。

「愛、これは永遠のお別れじゃありません。きっとゲームで、また会えますよ」

 ノゾムの声が、琴の弦を震わせたような弱々しいものになっていく。


「……おい、ふざけるなよ。ゲームで会える夢月ノゾムと、今僕の前にいる夢月ノゾムは違う! 全くの別人だ! さっき、お前等が話していた努力と同じだ。記憶と、時間の積み重なり方が根本から異なるものなんだ。さっき、お前は自分のことをゲームのキャラクターだとか抜かしてやがったよな? 残念だが、僕はそう思っちゃいない! はっきり言ってやる、お前は人間だ、血肉が通った、心ある人間だ! じゃなけりゃあんなに苛々させられなかった、楽しくなかった、それにこんなに悲しくなるわけねえだろうが!!」

「……それでも、私は架空の存在なんです。三次元のプログラムで作られた、ロボットと同じ存在なんです」


 どれだけ必死に叫んでも、彼女の気持ちが動く手ごたえが無い。だけどそんなことで僕の心は挫けず、彼女を思う言葉が口を衝いて出た。

「違う、絶対に違う! 仮にそうだとしても、僕はお前が人間だと言い張る! 世界中にバカにされようとも笑われようとも、僕は言い張る! 僕の一番大事な人はお前だって、世界中のバカ野郎共に宣言してやる、言い切って見せる!! だからさ、頼むよ……」


 声がしぼんでいくのが自分でも分かった。どんなにぬぐっても、涙が溢れてくる。もう声が、言葉にならなかった。

「いがないでよぉ……。僕をおいでいがないでよぉ……」

 泣きじゃくる。みっともないとか、情けないとか思っても、もう我慢なんてできなかった。


 世界が少しずつ剥がれ落ち、現実へ戻っていく。

 だけどここと現実の違いなんて、景色以外には何も無い。

 風も雨も僕の気持ちも、何も変わらない。

 光はもう見えない。涙で霞んでいるのか、本当に消えてしまったのか、もう分からない。

 最後に彼女は、たった一言だけ残して去って行った。

「私、人気者じゃなくてよかったです」

 ――だって、あなたにだけ愛してもらえたから。




 風が吹き抜けていく音がした瞬間、目の前にビルの外壁が広がった。蔦やヒビが走り、相当古いものであることを物語っていた。

「……ナルミ」

 守が呟くように言った。

「なに、守?」

「きっとノゾムは、空っぽじゃなかったわよ」

 そこで言葉を切って、彼女は地面に落としていた空色の傘を拾った。

「だって彼女の心には最後まで、チビがいたんだから」

「……そうだね」

 鼻先に落ちた雨粒を最後に、雨が止んだ。

 空を仰ぐと雲の切れ間から円い月が顔を出した。

満月は優しい光をその身に湛え、また少し涙を零した。

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