第三章 上野 君子

第31話 未来の国からはるばると

「この58年間、あなたを忘れたことはありませんでした。あなたは私の愛するたった一人の人間です。あなたがこの手記を読んでいるころには私はこの世を去っているでしょう。その前にどうしてもあなたへ話しておきたいことがあったのです。


 どこから話せばよいかわからないまま、ついに今日まで無為に過ごしてきました。あなたには真実を話すべきだったのです。しかし、それがとうとう私が病床に伏せる間際になるまで沈黙を貫かなければならなかったのは、歴史の改変を防ぎたかったからなのです。

 あなたは真実を知りたがっていた。けれども、私には歴史を変えてはならない使命がありました。


 このように紙で書いてみますとうまく自分の思いを伝えるのではないかと思い、私は筆をとることにしました。

 そして、物事の最初から、つまり、私がどこで生まれてどの時代からやってきたか、その事情を順々に説明していこうと思うのです。あなたには事実をありのまま話すつもりです。それをどう解釈するかはあなたにお任せします。私があくどい人間であったと受け取られてもかまわないのです。それが私の罪業を浄化するたった一つの方法なのです。


 私が生まれたのは火星の北部27地点と呼ばれているところでした。赤い大地に円盤のような建物がぽつぽつと並んでいる小さな都市です。

 あなたの住んでいる時代からはるか百年も過ぎた時代、地球の文明は疫病によって滅んでいました。わずかに残った人類が火星へ移住して、ほそぼそと暮らしているだけなのです。私の両親は一人っ子の私を慈しんで育ててくれました。

 実は私は未来からの時間旅行者なのです。私たちの時代では学術的な調査のために大学生は時間跳躍機を使って過去の地球へ旅をします。もちろん、歴史を変えないように気をつけなければなりませんので、その時代の相当な知識を蓄える講義を40時間受ける必要があります。時間旅行がしたかった大学生の私は必死になって勉強しました。

 あなたにとって興味があるのは私がこの時代になぜ来たのかだと思います。あなたが生まれたころの日本はきわめて平和な国でした。私の先祖が日本出身だったこともあり、その平和な時代の日本に興味を持ったのです。


 この時間跳躍は虫食い穴を通じた時空間のねじれを移動することで実現します。ところが、この虫食い穴を通るためにはいくたびも別の時間軸の世界へさながら飛び石のように出なければならないのです。

 例えば、旧暦2019年の世界へ行くためには、2021年、2020年と、どんどんと過去へさかのぼっていかなければならないのです。

 私が初めて過去へ旅だったのは21歳でした。懐中時計型の時間跳躍機を持って、私はただ一人の身で見ず知らずの地へと向かったのです。過去の世界に持ち込める物は少ないのですが、私はいくつかの未来の道具を持っていました。


 時間と空間を超えて私は地球暦2021年2月10日の昔の日本に到着しました。その日は夜でした。私が着いた場所は公園でした。私の胸はいよいよこれから冒険のような旅ができるのだという希望と寂しさからくる不安でいっぱいになっていました。火星とは違う自然が生んだ新鮮な空気にとまどいながらも、私は公園の中を歩きました。

 すると、むこうから見ず知らずの若い青年がやってきました。それがあなたでした。そのときの私にとってあなたは初めて会う過去の人間なのでした。あなたは何も言わず一目散に私へ駆け寄ると、私の唇を無理やり奪いました。私は驚きました。なぜそんなハレンチなまねをするのか理解できなかったのです。

 あなたはこう言いました。

「そうか。明石。お前と会えるのは、これで、最後なんだな」

 こう愛おしそうに言うのです。やがて、あなたは自己紹介をしました。私としてはこの下品な現地人に対して火星の行儀作法を教えなければならなかったのです。あなたを憎いとは思っていませんでしたが、そのときの私は頭に血がのぼって、ひどくののしった後であなたのほおを平手打ちしました。ほおを打たれたあなたは神妙な顔で「じゃあな。過去の俺によろしくな。明石、おまえを愛してる」と別れを言いました。

 この言葉に私があっけにとられていると、私の体は光り始めました。時間跳躍機が自動で過去へとさかのぼり始めようとしていました。次に転送されたのは7ヶ月前の2020年7月31日の昼でした。そこは日本の海辺でした。私の意思とは関係なしに、私の体を他の時間、他の空間へと機械が跳躍させるのです。

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