第30話 あなたを忘れない

 夕顔がゆっくりと俺へ近づいてきた。

 男子トイレで女の子(もとは男だが)とキスをするなんて、なんという背徳感だろう。

 彼女の顔がぶつかりそうなくらい、俺の目の前まで迫ったとき、俺は生まれて初めて恐怖を感じた。ふと、アオイの顔を思い浮かべた。

 なぜなんだろうな。

 そのときの俺は、これは人助けなのだぞと、必死になって自分に言い聞かせていた。これは浮気なんかじゃない。

 だが、本当にそうだろうか?俺はアオイを裏切っているんじゃないか。

 そう思った俺は、彼女の体を両手で押し返して、こう告げる。

「なあ、やっぱり、やめようぜ。夕顔。キスをす――」


 俺の唇に、柔らかくて熱い物体がぶつかった。

 そして、ぱっと夕顔の唇が俺の顔面から離れていった。俺は口づけの余韻よいんを楽しむことなんてできなかった。

 ばさばさと風が吹き込んだかと思うと、夕顔の体がみるみるうちに男性の肉体へと変わっていく。

 あわてて、俺は目をそむけた。見てはいけないものを見ているような気がしたからな。

「やあやあ、ありがとう。これで、男の姿に戻ることができた。礼を言おう。ヒカルどの」と男に戻った夕顔は、満足げにこう言った。

 彼は、洗面所の鏡の前に立って、自分が男であることを確認すると、俺へ振り返って、こう聞いてきた。

「では、約束どおり、貴様に明石君子について教えてやろう。今日の放課後は、貴様は暇か?」

「時間はある」と俺は口をぬぐいながら答えた。

「ふむ。では、自宅へ来たまえ。そこで、私たちの手で、明石君子の正体を明らかにしてやろうではないか」

 夕顔は顔に不敵な笑みを浮かべた。


 その日、授業が終わると、俺と夕顔は、一緒にバスに乗って、彼の家へ行った。

 明石君子の事が知りたくて、俺はセカンドキスを捧げたのだ。明石にどんな秘密があって、彼の家で待ち受けているのは何だろうか。

 夕顔の家は一軒家だった。

 豪勢な門構えで、庭も広い。俺は少し夕顔をうらやましく思った。

 大きな門から家に入ると、夕顔は自分の部屋へ案内した。

「まあ、どこでもいいから座ってくれたまえ。ヒカルどの」と彼は俺にくつろぐよう促した。

 俺としては、明石の知り合いにでも会わせてくれるのかと思ったが、そうではないらしい。

 俺が腰を床に下ろすと、彼は一枚の写真を持ってきて、それを俺に見せてくれた。


 昔の白黒の写真だ。

 古ぼけているから、かなり昔の写真だろう。夕顔の家の前で、二人の女性が並んで写っている。一人は見たこともなかったが、もう一人の女は、俺のよく知っている人間だった。

「明石君子だ!」

 思わず俺は叫んだ。

 その言葉に、夕顔も首をうなづいた。

「貴様もそう思うだろうな。私も君子という名前を聞いたときに、すぐさま、この写真を思い出した」

「この写真をどこで手に入れた?いつ撮ったんだ?」と俺は身を乗り出した。


「祖母の遺品を整理していたら、その中にあった。今年亡くなった祖母の書斎から持ってきたのだよ。ヒカルどの。さて、問題は、この写真がいつ撮られたか、である」

 夕顔が難しい顔をして、写真の裏をめくって、俺に見せてくれた。

 写真の裏には、年月日と一人の女性の名前が走り書きしてあった。

 夕顔がそれを読んだ。

「ふむ、『昭和35年7月7日、君子と』と書かれてあるな。これは祖母の筆跡であろう。明石君子の横にいる女性は、実は祖母なのである」

「昭和35年というと、60年近く昔のことじゃないか」

「そうだ。そうだとすると、いよいよ、謎が深まるばかりであるな。ヒカルどの」

 そう言って、夕顔は俺の顔を見つめた。


 大昔の女性が、その当時の姿のままで、俺たちの前へ現われたのだ。

 幽霊説が復活してきたぞ。いや、それとも、不老不死の人間かもしれないぞ。

 そう思った矢先、眉間みけんにしわを寄せた夕顔が、奇妙なことを言い始めた。

「――私はね、将来、服飾関係の仕事に就きたいと思っている。もちろん、専門学校へ行こうとも思ったが、両親が反対していてね。他人の服装は、ことさらに気になる性質でな。この花柄のワンピースを見たまえ」

 彼が示したのは、写真の明石が着ているワンピースの服だった。かわいらしい花が服全体にあしらわれている。


「このワンピースがどうしたんだ?」

「昨日、明石が着ていた服と同一の物なのだ。シワから汚れまで、すべてが昨日の服装と写真の服装は一致している」と夕顔は言った。

 夕顔の指摘に俺は首をひねった。

 昨日の服と、60年近く前の服が同一であることはありえない。そりゃ、おかしいって。

 俺は食いかかるように夕顔へ詰め寄った。

「おい、待て。夕顔。そりゃあ、無理な話だぜ。60年もシワが変わらない布なんて、あるものか。見間違いじゃないのか?」と聞いてみた。

「いや、見間違いではないな。この浅野夕顔、はばかりながら、おのれの鑑識眼には自信を持っている」

「すると、どうなるんだ?60年前の人間が、突然、タイムワープして、現代に現われたって言うことか?」

 夕顔は答えてくれなかった。沈黙だったが、それが何よりも明確な答えだった。


 俺は夕顔の祖母に当たる人の書斎へ向かった。

 もしかしたら、その書斎で、アルバムなど、明石君子につながる詳しい情報が得られるかもしれないと、俺たちが思ったからだ。ひょっとしたら、明石が過去から未来へタイムワープした証拠があるかもしれなかった。

 俺たちは書斎をあさってみた。夕顔の祖母は、物をきちんと整理する人間だったが、机の引き出しの中だけは、乱雑に書類が置かれていた。

 そして、ついに、発見した。

 最初に発見したのは、引き出しをあさっていた夕顔だった。

「ふむふむ。これは、面白い物が出てきたぞ。さあさあ、見たまえ。貴様はこれをどう説明する?」

 彼は、原稿用紙の束を俺へ突きつけた。三十枚以上はあるだろう。どっさりと重たい紙の一番上に、黒いインクのにじんだ手書き文字で、「氏原ヒカルくんへ 上野君子より 平成30年8月」と書いてあった。


 俺は「上野君子」という名前を見たとき、のどから心臓が飛び出るくらい驚いた。

 夕顔が上野君子の原稿を俺へ渡そうとしたので、俺は震える手でそれを受け取った。手のひらには、汗がたまっていた。

「上野君子と姓を変えてはいるが、明らかに、明石君子の書簡しょかんであろうな。どういう経緯かは知らんが、彼女がしたためて、我が祖母へ託したのであろう。――どうした?ヒカルどの。なにゆえ、そのように顔が青ざめているのだ?」

 夕顔が不思議そうに聞くので、俺は答えてやった。

「上野君子は、俺のよく知っている人間だよ。そうだよ、俺は初めから知っていたんだ」

「ヒカルどの。貴様が何を言っているのか、よく私にはわからんのだが」と夕顔が当惑した声を出した。


 俺は自分の頭を自分で叩きたくなった。

 なぜ、忘れていたのだろうか。こんなにも大事な人を。

 俺は原稿を握りしめると、こう言い放った。

「夕顔。ありがとうな。この原稿はもらっていくぜ。ぜひ、何が書いてあるかを読みたいんだ」

「上野君子とは何者だ?」

「去年亡くなった上野のおばあちゃんだよ。俺が子供のときに、面倒を見てくれた、とても大切な人だ。じゃあな、夕顔。俺は帰らせてもらうぞ」と俺は逃げるように玄関を出た。

 上野のおばあちゃんの本名は、上野君子。上野ムラサキの祖母に当たる人だ。

 明石がムラサキの亡き母に似ているのは、当然だった。血がつながっているのだからな。母とその娘は。

 俺は悟った。上野のおばあちゃんこそ、明石君子その人だ。


 バスに飛び乗ると、座席に座った俺は、いても立ってもいられず、上野のおばあちゃんこと、明石君子の原稿へ目を移した。「この58年間、あなたを忘れたことはありませんでした」という文字が、まず目に飛び込んできた。

 夢中で俺は紙をめくった。

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