第21話 美人との長いお別れ

 俺の複雑な家庭の事情を打ち明けているのは、親友の遠野とその妹アオイにだけだ。彼女たち以外は、だれも、俺が女たちと暮らしていることを知らなかった。

 学校の奴らに話してみろ。

 お前の娘を見せてくれと家に押しかけてくるだろ。ムラサキに悪い虫がついては困る。なんと言っても、俺の娘は美少女だからな。

 他の女もまあ、かわいいしな。

 だから、できるだけ、このことは秘密にしておきたかったんだ。


 その秘密が漏れたのは、5月の月曜日だった。

 その日の朝は晴れていたな。初夏みたいだったよ。

 一人で俺が登校していると、通学路の向こうから知らない美女が歩いてきた。年は35、6ぐらいだろう。昔ながらのワンピースを着ていて、長い黒い髪を揺らしながら、その美女は歩いてきた。

 彼女が俺に向かって挨拶をするものだから、俺も首をこくりと曲げて、ぶっきらぼうに礼をした。


「会いたかった」

 これがその女の第一声だったんだぜ。もちろん、女の顔に見覚えはない。どこかで見たことがあるような気がするが、気のせいだな。

 だいたい、こんな大人の美女と、俺が知り合えるわけがないだろ。

 だけど、さらに彼女が発した言葉に、もっと俺は驚かされた。

「ヒカルくん。私、あなたのことが好きなの。娘のムラサキちゃんがいてもかまわない。私はあなたを愛してる。どんなことがあろうと、永遠に愛してます」

 俺は一歩引いた。

 男子高校生が学校へ向かう最中に、こんな大人に告白されることなんて、めったにないことだからな。驚くと同時に、恐怖も感じた。

 この女は、なんで、ムラサキのことを知っているんだ?


 遠野にもアオイにも堅く口止めさせておいた。ミヤスコも義母かあさんも決して約束を破るような性格じゃない。事情を知っている者は、ごく一部だけなのだ。

 わざと、俺は知らないふりをした。

「ええと、ムラサキとはだれのことです?そもそも、俺はあんたのことなんか知りませんよ。初対面なんですし」

 美女は目に涙をためた。

 おいおい、泣かせるようなことを俺は言ったか?

 俺がたじろいでいる間に、彼女は手にした金色の懐中かいちゅう時計を見ながら、俺のそばへ寄ってきた。

「そう、そうなの。私のことを知らないのね。どうやら、お別れの時間ね。私は明石あかし 君子きみこ。お願いだから、私のことを忘れないでね。愛してる、ヒカルくん。いつか、きっとまた会える」


 明石と名乗る女は、それだけ言うと、俺の目の前から去って行こうとした。

 まだ聞きたいことが山ほどあった俺は、とっさに彼女の腕をつかんだ。

「おい、待てよ!あんた、何者なんだ?」

「さよなら。ヒカルくん。髪の毛を一本もらっていくね」と明石は別れを告げて、髪の毛を一本むしるように俺の頭から取った。

 俺は悲鳴を上げた。

 すると、明石の体がぼんやりと薄くなっていた。まるで、映画の特撮効果のようだ。透明人間のように彼女の体が消えていく。

「おい!なんなんだ、これ?どうなっているんだ?明石君子だったな?明石君子!」

 俺は彼女の体が完全に消えてなくなるまで、ずっと、彼女の名前を叫び続けた。


 一人取り残された俺は、ぼうと立ち続けていた。何分もそのままだったんだろう。

 やがて、後ろから遠野が声をかけた。

「どうしたのだ?氏原君。とんまな顔がますます、とんまに見えるのだが。白昼夢はくちゅうむでも見たのかい?」

 我に返った俺は、さっき起きたことを遠野に話した。

 信じてもらえるかどうかは自信が無かった。なにしろ、当事者である俺が一番、幻覚ではないかと疑っていたからな。

「ふむ、興味深いがね、氏原君。それはそうと、僕たちは学校に遅刻してしまうかもしれないよ。後で詳しい話を聞こう」と遠野は言った。

 遠野と俺が通っている高校のチャイムが鳴り始めた。

 俺は駆け足で校門へ向かった。

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