第7話 キスしようよ

 玄関のドアが開いて、仕事から帰った桐壺の「ただいま」と言う声が聞こえてきた。外は夜だ。

 ぱっとムラサキが俺に抱きつく。

「お父さま、今日はお父さまが料理当番なのをお忘れかしら?」

 俺は思い出した。

 我が家では、料理を作る当番を決めており、俺と父と桐壺で回しているのだ。今日は俺の番だ。

「いけね。すっかり忘れてたよ」と俺は言って、思いついた。「そうだ、アオイ、良かったら食べていきなよ」

 アオイはスマホで親に連絡して許可を得ると、「ダーリンの手料理が食べたい。今すぐに」とおあずけを食らった犬のように答えた。

 台所へ行った俺は、急いでエプロンを着けた。

 居間からは桐壺とムラサキの楽しげな声が聞こえてきた。まるで、本物の親子のようだ。

 アオイは借りてきた猫のようにおとなしくしているつもりらしい。不気味なほど静かだ。

 ふと、俺は後ろに気配を感じた。俺が振り返ると、そこにアオイが立っていた。


「ダーリン、背中、痛む?」とアオイは聞いてきたので、俺は大丈夫だと答えた。

「なあ、アオイ、ビーフシチューがいいか?それとも、カレーライスがいいか?どっちだ?」と俺は聞いた。

「ダーリンが作るものなら、なんでもいいけど、カレーが食べたいかな」

 俺はカレーを作ることにした。俺が野菜を切っていると、アオイが妙なことを聞いてくる。

「ねえ、ダーリン。さっきの、ムラサキちゃんのキスなんだけど……浮気じゃないよね?」

「も、もちろんだよ。あれは不可抗力ふかこうりょくだし、家族同士の軽いあいさつのチューみたいなものなんだ」

 動揺した俺は、あやうく包丁で指を切りそうになった。

「じゃあ、あたしともキスできる?」

 アオイの突然の言葉に俺は言葉を失った。

「あいさつのチュー程度なら、あたしとでも、できるはずじゃん。それとも、あたしとは嫌なの?ダーリン」


 嫌なものか。大好きだ。美人とキスできるなら、俺はどんな障害だって乗り越える自信がある。ただし、キスの相手が親友でなければ。

 アオイは親友の遠野じゃない。それくらいわかっている。頭ではわかっている。アオイの顔が俺の親友にそっくりなだけだ。

 それにもかかわらず、親友と似ている顔の娘とはキスできない。


 しばらく、俺は考えていた。そのうち、俺は顔をアオイへ向けて、目を閉じた。

「……玉ねぎが目にしみたぜ」

「……」

 アオイは黙っていた。沈黙はしばらく続いていたが、やがて、俺の歯と、アオイの歯がカチッとぶつかる音がした。

 ナベのお湯がふきこぼれる音がした。しかし、俺はナベの火を消すことをしなかった。

 アオイの体が俺から離れた。俺はゆっくりと目を開けた。

「バカ。今度は目を開けてよ。ダーリン」とアオイがはにかんだ。

 彼女が台所から去っても、俺はぼんやりと空中をながめていた。世界が変わった。明らかに景色が輝いて見えた。


 その後、アオイと家族で、食卓しょくたくを囲んで楽しく食べた。

 アオイはカレーがおいしいと喜んだ。喜んで、二杯もおかわりをした。

 ご飯を食べていた俺はくちびるに残ったキスの感触を確かめながら、これは決して不健全ではないのだぞと自分に言い聞かせていた。きわめて健全な高校生活に違いないのだ。今日一日のことは、投げられたこと以外、俺が考える理想的な生活じゃないか。


 俺は父の帰りが遅いことに気づいて、桐壺に聞いた。「父さんは?」

 今日から海外出張だと言う答えが返ってきた。当分は向こうで暮らすので、日本へ帰ってこないらしい。

 スマホを見ると、父からメッセージが届いていた。婚約の事には触れずに、「高校生活、がんばれよ」という伝言が提示されるだけだった。俺は「ああ、がんばるよ」と一言だけ返答した。

 そうだ。楽しくて、健全な高校生活がこれから始まるのだ。そのときは、そう信じこんでいた。

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