第143話 不動心
月曜にもかかわらず、この試合は最初から32%の視聴率を記録していた。
ちょっと頭の柔らかい会社などは、この時間を休憩にしてテレビなどをつけたりもした。
勤勉でない営業マンは、電器屋の前にたむろする。
おそらく日本で最も多くの人間が、この試合に注目している。
なお千葉県に限って言えば、視聴率は60%を超えたようである。
マウンドで投球練習する直史は、自分のメカニックを確認する。
動きは問題ない。ならばパワーはどうか。
指先に力を入れて投げてみると、想像通りの球がジンの構えたミットに入る。
コントロールもスピードも、自分のイメージ通りに動いている。
応援スタンドを見れば、ツインズのチア、イリヤが鍛えたブラバン、佐藤一族の姿が今日も見える。
熱中症に注意とは言ってあるが、周囲の人間はもう、甲子園観戦のベテランだ。問題はないだろう。
瑞希とイリヤ、二人も直史を見ている。
瑞希が力を入れて真剣な顔なのに対して、イリヤはどこか面白がっている。
なんとも、対照的なものである。
昨日のピッチングは上手く行き過ぎた。
もちろん計算して投げていたので、おそらく完封は出来るだろうと思っていた。
同時に全員を凡退させるつもりではあったが、それは手段であって、目的ではない。
この試合も同じように考えたら、おそらくは上手くいかない。
だが、目指すことは同じなのだ。
一点もやらない。それだけは決めている。
大阪光陰も、気合は入れ直している。
思えばこの三年、大阪光陰は夏の甲子園ではひどい目に遭い続けている。
二年前、上杉勝也に15回完封をやられ、翌日も完封を続けられ、試合には勝ったが上杉には負けたと言われた、あの屈辱の全国制覇。
去年、佐藤直史に参考記録ながらパーフェクトを達成され、空前絶後の大会四連覇を阻まれた。
そして今年、15回を参考記録ながらパーフェクトを達成された。またしても佐藤直史に。
それでも上杉には、試合の上では勝てたのだ。
だが佐藤直史には負けた。
今年も勝てなければ、いや昨日のパーフェクトで既に世間は白富東の勝利と見なしているのかもしれないが、実質はどうであれ、本当の勝利さえ手に入ればいい。
大阪光陰は甲子園で優勝するために作られたチームだ。
スカウトの段階から既に選別され、間違いなく一級品と言われる選手が揃っている。
下手なプロよりも厳しい選別で、全国津々浦々から集められた選手たち。
それが優勝の栄誉にさえ預かれないのは、間違っている。
努力と執念を覆すような天才に、負けてたまるものかという気迫。
間違いなく今日の大阪光陰は、昨日よりも強い。
(問題は真田だけやな)
昨日の試合で、188球も投げてしまった。
確かに一試合で200球を投げる投手はいるし、過去には178球を投げた再試合で登板し優勝したという投手もいた。
しかし真田はまだ二年生なのだ。佐藤直史のような、完全に打たせて取ることが出来るタイプのピッチャーではない。
(絶対に、前兆は見逃さへんで)
日本の野球界の将来のためにも、真田は絶対に壊してはいけない。
先頭の毛利に対しては、チェンジアップとストレートの後のカーブを引っ掛けさせた。セカンドゴロでワンナウト。
続く明石は初球から打っていったが、サード正面のライナーであった。
そして三番の大谷。
毛利は打たされたように思えたが、明石への初球はコースが少しだけ甘かった。
だから反射的に手が出たのだろう。好球必打で間違ってはいない。
コントロールミスなど、少なくとも昨日はなかったように思う。
いや、結果的にこれも打ち取っているので、コントロールミスとは言えないのか。少なくとも明石は一球でしとめられてしまったのだ。
自分はそうはいかない。大谷はゆっくりとバッターボックスに入り、ゆっくりと構える。
リードするジンとしては、わずかだが違和感がある。
要求する通りの球は来ているのだが、わずかに予想を下回ると言うべきか。
(一球、これは?)
スルーのサインに、直史は首を振った。
投球練習では投げていたが、それを本番では首を振った。
(まさか、投げられないのか?)
カーブを使ってストライクを稼ぎながら、他の球種ではボールに外していく。
際どいところはカットされて、10球目。
際どいところからもう少し際どいところへのカーブ。
「……ボール」
宣告に少し間があったのは、審判もこの記録を途切れさせたくなかったのか。
フォアボールで大谷が一塁に出た。
あああ、と球場が溜め息で揺れる。
歓声で揺れることはあっても、溜め息で揺れるなど、甲子園ではなかったことだろう。
だがジンとしてはそれよりもまずランナーが出て後藤に回ったことを考えなくてはいけない。
ツーアウトなのだ。一塁の大谷は俊足であるが、直史のクイックとタイミングの外し方では、スチールは難しいだろう。
無警戒になるわけではないが、ここはバッター勝負。
後藤に投げた初球は内角ギリギリのカットボール。
これを初球打ちした後藤であるが、その打球は速い。
サードの武史のグラブを弾いたが、その先に大介がいた。
素早く素手で取って、そのまま一塁へ。スリーアウト。
ランナーは出てしまったが、一応ノーヒットノーランは続いている。
もっともヒットになってもおかしくない打球は続いたが。
ベンチに戻った直史の様子を見るが、いつもと変わりはない。
もっとも何か違和感があっても、それを表に出すタイプではないが。
「調子はどうだ?」
秦野に問われて、ジンとしても答えにくい。
「悪いわけじゃないんですけど、どうも違和感があります」
「そうか」
秦野としても今の一回の表だけで、直史の調子が昨日ほどでないことは分かっている。
ただ投球練習を見ても、何かが決定的に悪いとは、ジンも思っていないのだ。
「一点を取られるまでは、代えないつもりでいくぞ」
「……分かりました」
岩崎は中二日だし、武史でもいい。
真田の調子次第では、継投は考えていかないといけない。
直史の調子が微妙におかしいと言うなら、真田はどうなのか。
アレクの目から見て、投球練習の球はちゃんと走っていると思う。
(問題は実際のバッターに対した時)
左打席。ずっと真田は左打者に対しては、圧倒的に強い。
そしてこの先頭打者のアレクにも、スライダーから入ってきた。
相変わらず鋭いスライダーだ。よくもあそこまで高速で曲がるものだ。
同じ左のスライダー使いではあるが、アレクにはあの速度であの変化量のスライダーは投げられない。
(高校卒業したら、教えてもらえないかな)
のんびりとそんなことを考えながら、続く球を見ていく。
球威自体は、おそらく回復している。
(ただ制球はどうかな?)
二球目、縦のカーブが甘く入ってきた。
上手くミートできたが、少し上げすぎた。ライトが後退してキャッチし、まずはワンナウト。
「昨日よりは当てられる。球数放らせていこう」
自分は早打ちしてしまったが、哲平にはそう言うアレクである。
ベンチに戻っても、秦野は視線で問いかける。
「スライダーの球威はありましたけど、カーブは甘かったです。制球が微妙かもしれません」
「それじゃあ早打ちしちゃダメでしょーが」
「すみませ~ん」
ニコニコ笑うアレクであるが、次の打席では攻略出来る目算があるのか。
アレクはああ言ったが、少なくともスライダーは打てないなと判断する哲平である。
追い込まれてからは粘っていくが、確かにストレートの制球は微妙かもしれない。
それでも最後はスライダーでしとめられたが、確かに昨日よりは手応えを感じる。
「いけそうです」
「うし」
大介は迷いなく、右のバッターボックスに入った。
左の打席に入ったら、歩かせることも視野に入れて、厳しいところを突いていくつもりだった。
だが右打席に入った。
昨日も右打席に入ったが、そこでは結果が出なかった。そして今日、もう一度右打席に入る。
右打席でもホームランが打てることは分かっている。だからもちろん油断はしない。
(それでも右に入るのは、スライダーが嫌だからでしょ)
ボール球からぎりぎりストライクに入るアウトローのスライダー。これを大介は見逃した。
「すみません」
そして左打席に入り直した。
嫌な感じだ。
キャッチャーの木村もそう感じるが、おそらくマウンドの真田もそう感じてはいるのだろう。
昨日の試合にしても、四打数の二安打であるから、五割を打っているのだ。
四死球を入れたら六打席で四回出塁している。
もちろん甲子園の本塁打記録の保持者であり、ワールドカップのMVPであるとは、高校球児なら誰でも知っている。
だが真田だって世界大会の優勝投手ではあるのだし、怖いバッターだからといってただ逃げているわけにはいかない。
外に二球、ストレートを外した。
そして内にカーブ。これはストライク。
並行カウントになった。
(内に緩い球を投げたから、外のアウトローで打ち取れませんかね?)
(甘く見すぎだ。ただのストレートじゃ、ギアを上げても打たれる)
それに今日の真田は、ギアを上げた時のストレートが、微妙に指にかからない。
外にカーブを外した。
フルカウント。ここから勝負するか、それともボール球で歩かせるか。
大介は秦野から言われている。
他の打席全て三振でもいいから、一発だけ放り込んでこいと。
そんな雑な指示を出す監督も監督であるが、それで腹を括る大介も大介である。
おそらくここからは、背中から内角ギリギリに決まるスライダーが来る。
腕を畳みながら、それをどう打てるかが、真田のスライダー攻略法だ。
(単に外に逃げるスライダーなら空振りだ。一番難しい球、来い)
そう考える大介は、バッターボックスの前寄りに立っている。
木村としては、ここで要求するのは内角ギリギリに決まるスライダー。
もし変化が少なくてデッドボールになっても、それはそれで仕方がない。
(力いっぱい!)
(決める!)
スライダー。タイミングはばっちり。
体を早く開いて、でもまだバットは出ない。
低めのスライダーを、たっぷりと待って、強く振り切る。
バットの根元だった。それでも、充分に力は伝わったはず。
カンカン照りの今日の太陽の下、風はない。
ライトスタンド中段に、ボールは飛び込んだ。
一点が入った。
これが昨日だったら、完全試合で優勝も決まっていた。
なぜ昨日は打てなくて、今日は打てたのか、比較すれば簡単というか単純なことだ。
大介は毎打席ホームランを打つことを考えている。
それが無理な時は、ヒットに切り替えていくのだ。
だが今日は、半分、いや他の打席全てを三振なり凡退しても、一球を打っていくと決めていた。
白石大介が打つと決めたのだから、打てるのだ。
とにかく値千金のホームランであった。
続く鬼塚を今日初めての三振に取ったものの、真田の表情は優れない。
怒りでも悔しさでもなく、ただ沈んでいく。
そんな状態でも後続を切ることが、真田の立派なところなのだが。
「今日の佐藤は打てるぞ」
大阪光陰、木下監督は断言する。
「絶対に打てる。だから、何も心配するな」
普段はどちらかというと心配性なのに、こういった場面には強い。
そしてその言葉には、確かに説得力があると思う。
大谷は粘って出塁したが、明石にはいい当たりをされていたし、一回は一つの三振もなかった。
直史は精密機械とも言われるコントロールを持っている変化球投手だが、同時に三振もかなり奪えるピッチャーなのだ。
それが打たせていると言うよりは、打たれて守ってもらっている。
この回は五番の丹羽からで、木下監督の新任も厚い。
「ノーノーは考えなくてもいいからな」
マウンドに寄って来たジンに直史は短く言った。
「完封以外は、何も考えなくていい」
ヒットを出そうが、敬遠をしようが、点さえ取られなければいい。
いつもの直史だ。
昨日はたまたま、調子が良かったから、一番勝てる確率の高いピッチングをした。それが結果的にパーフェクトにつながっただけだ。
だが今日はそれほどでもない。だから、勝つためのピッチングをする。
ああ、直史だな、とジンは思った。
記録にも、勝負にも関心はなく、ただ試合の勝利だけを望む。
最後の試合で、直史の本質に戻った。
「じゃあ打たせるから、ある程度ヒットは出るぞ」
「分かってる」
直史は、自分が出来ることをするだけだ。
甘く入った球を丹羽はミートしたが、三遊間で大介にキャッチされ、そのまま一塁アウト。
続く宇喜多は初球打ちでキャッチャーフライ。
小早川は大きくスタンドに飛んだファールを打ったが、その後にこの試合初めてのスルーを投げられて三振した。
二回の裏、倉田が先頭打者でやっとヒットで出た。
続く武史は三振したが、中根が粘ってフォアボールを選ぶ。
だがジンも粘りはしたものの、それが結局は内野ゴロになってゲッツー。
点にはつながらなかったものの、両チームのエースは共に、昨日ほどのピッチングはとても出来そうにない。
だが今度は守備陣が、エースの背中を守っている。
それでも両校の監督は考える。
どこで次のピッチャーにつなぐべきか。
おそらく、どこかで決断するべき展開になる。
三回の表、先頭打者木村の打球はセンター返し。だが直史のグラブに納まった。
ナイスプレイであるが、次の真田への初級が甘かった。
今度は頭の上を越されるセンター前への打球で、ついにノーヒットノーランも途切れた。
大阪光陰はベンチも応援も勢いに乗る。
次の打者は毛利。少なくとも進塁打はしてくれるだろうし、明石は一打席目からいい当たりをしていた。
そう考えていたのが悪かった。
「ん?」
直史が真田を見ている。
そしてジンへと向き直るが、そこに意識の間隙があったのか。
素早く振り向いた直史が、一塁へ送球。真田は体重をやや二塁側にかけていて、帰塁が遅れた。
牽制アウト。久しぶりに職人的なアウトが取れた。
こういうアウトの取り方で、変わりかけていた流れを再びこちらに引き戻す。
毛利は高めに外れた球を強振したが、センター定位置でアウトになった。
×××
エース第三部単体で100万PV突破しました。
1.00Mって表記されるんですね。
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