ほしい、ほしい、ほしい

永瀬文人

第1話

 これが、最後の一冊だ。

 真新しく、厚い表紙の本。多恵は爪先立って伸び上がり、本棚にそれを押し込む。古くて細かい傷の目立つ木製の本棚は、不満気にきしむ音をたてた。

 ランドセルを背負ったまま、後ろで手を組み小さな体を反らせ、多恵は見上げる。七歳では解読不可能な難しい漢字の並んだ背表紙が詰まっていて、得意な気分が口元をほころばせようとする。どれもが大事な戦利品。見せたい。けれど、内緒にしたい。

 早かった鼓動が、ようやく落ちついてきた。走って帰宅したためだけではない。一年あまり同じことを繰り返した今でも、脈が跳ね上がる程のスリルがある。その証拠だ。

 深呼吸をすると、絶望的なかび臭さが、多恵の中に渦巻いてこもった。本棚の体臭が新品の戦利品に染み込むのも、時間の問題だろう。

幾度も頁をめくった、一冊だけある児童書が目につく。ちょうど一年前、祖父から貰った本だ。表紙をめくった頁の隅に、大橋多恵、と細いペンで書かれている。祖父の字だ。多恵のものとなった本棚に初めて巣喰ったのがこれで、その後しばらくは場所を独占していた。繁々と、多恵が書店に通うようになるまでは。

学校から戻ると、本棚の足元に座り込み、独り、その児童書を読みふけるのだ。飽きることなく、陽が落ちるのをそうして密かに待つ。陰りで頁が黒ずんで見え、目の奥が痛み出す頃に、ようやく多恵は本を閉じる。大抵その時分には、部屋の扉の向こうから、神経に触る声がした。黒板を爪で引っ掻かれたように、多恵はいつも身震いした。

「多恵ちゃん。お夕飯のご用意が出来ています。お食べなさいね」

 返事も待たず、多恵が居るのかどうかなど確かめもせず、扉の向こうで大きな足音が遠ざかって行く。子ども嫌いな手伝いの女で、偶然顔を合わせてもそっぽを向く。視線のそらし方は見事なものである。ただ毎日、扉越しに同じ台詞を抑揚もなく言い終えると、さっさと消えるだけの者だ。

 普段、ほとんど家に居らず、休日らしい休日も過ごさない祖父は、手伝いの女と多恵の間で固まっている空気の具合など、まるで知らない。下校した多恵が、何をしているのかさえも。

 目に見える仕事については、手伝いの女はよくやっていた。炊事に洗濯、掃除。結果のみを見れば、取りたてて問題はないのかもしれない。

 多恵も同じだ。来る日も来る日も授業に出席して、学期末に成績表を持ち帰れば、小学生という役割の結果を祖父に差し出せる。何かの反応欲しさに、成績表を叩きつけるようにテーブルに置いたとしても、夜中にそれを見る祖父には判らないことだ。

祖父に引き取られてから、つまりは両親が事故死してから、祖父と交わした言葉を、多恵は数えることができる。大学の研究職をこなす祖父には、家は忙しさの合間を縫って仮眠する止まり木にすぎないらしい。

 十分に、与えている。少なくとも、祖父自身はそう思っている筈だ。広すぎる多恵だけの部屋、着ないうちに小さくなってしまうありあまる洋服、多すぎる小遣い。多恵には何も言えない。目に見えるものは、いつだって完璧なのだ。


 祖父の元で暮らし始めて二年が経ち、小学校の入学式が済んだ夜、多恵は誰も居ない「家」で泣くことをやめた。部屋の闇は、相変わらずの息苦しさをたたえていた。自分以外、熱を発するものがない家。呼吸をしない夜。

カーテンの隙間からは月明かりがこぼれていた。それが、昼間、多恵の部屋に一つ増えた家具の影を濃く際だたせた。

 高さの割には横幅の狭い、頼りなげな祖父の本棚。

 多恵が入学式から独りで帰って来ると、どうしたことか祖父が居たのだ。そして、黒ずんで古い匂いを纏った本棚を、多恵の部屋へ運んで来た。自分の書斎で使い込んだものなのだろう。埃一つない、がらんどうの棚が、五つもついている。祖父はそこに真新しい児童書を一冊置き、部屋を出て行きかけて、ついでのように振り向いた。       

「大切なんだぞ。なあ、多恵」

 久しぶりに耳にした祖父の声だった。真っ直ぐに、祖父は多恵を見ている。

 大切なんだぞ、多恵。

 祖父の言葉が、耳元でこだまする。多恵の喉の奥が、小さく鳴った。

 祖父は、多恵の届かない処を素通りするだけではなかったのだ。滅多に家で過ごさないにせよ、多恵のために足を止める気持ちがあるのだ。こんなふうに。

 親子連れで賑わう入学式の間中、ずっと反らしていた胸が、ふっと楽になった気がした。祖父は、今日が多恵にとって特別な日だと覚えていてくれた。だからこそ、多恵の帰宅を見図らい、大事な研究にまつわるものを包んでいた本棚を、こうして運んで来たのだ。 

「お前が一つ大きくなる毎に、一冊の本をあげよう。それを本棚に入れなさい」

ゆっくりと遠ざかって行く祖父の背を眺めて、多恵は湧き上がる言葉を何から口に出そうかと迷った。

 おじいちゃんの本棚、嬉しいな。だって、部屋に置いたら、おじいちゃんと一緒に居られる感じが、するじゃない? この本もね、この本も、絶対に大事に……。

廊下の角にさしかかった祖父が、急に振り向いた。          

「本当に大切なんだぞ、本棚は。知識が歳月をかけて集まる宝庫だ。粗末にしたら許さないから、そのつもりでいろよ、多恵」

 唇から零れる寸前だった言葉が、縮こまって引いて行った。多恵は凍てついて、ただ祖父の口元を見ていた。

 おじいちゃんが大切なのは、本棚だ。多恵では、ない。

 祖父は前へ向き直り、廊下の角を曲がって行った。

 自分の呼吸音が、耳障りだった。口を固く結んだまま、多恵は浅い呼吸を繰り返していた。醜悪なカビの匂いが背高のっぽのそいつから漂ってきて、吐き気がした。


 多恵が書店へ通い始めたのは、入学式を一ヶ月ほど過ぎてからだ。

 きっかけは、簡単なことだった。

 通学路にある書店に立ち寄った。ふと見上げると、天井の隅の鏡に、店主の老人と客が奥の本棚に屈み込んでいる姿が映っていた。注文された品を探している最中らしい。

 多恵の居る店の入り口近くには、題名に「大学」という文字の含まれた本が平積みされていた。

 そして周りには客が居なかった。

 部屋の片隅を陣取った空っぽの本棚が思い浮かんだ。棚板に一冊だけ、ぽつりと横たわった児童書。

 多恵が一つ大きくなる毎に一冊づつ本をくれると、祖父は言った。多恵が一歳大きくなるまでは、祖父は手放した本棚に近づかないのだ。

 淡々と仕事をこなし、多恵が帰宅する頃に「家」を出て行く手伝いの女と、住んでいるのに居ない祖父。夜が過ぎて、朝が来て、これがあとどのくらい繰り返されたら、祖父は多恵の部屋の本棚と対面するのだろう。多恵が大きくなっていく様を、祖父はどうやって知るのだろう。それまで多恵のことを、祖父は覚えていられるだろうか。

 気づいた時には、多恵は通学路を家へ向かって歩いていた。普段と違うのは、「大学」という文字の入った題名の本を抱えていることだった。

部屋の扉を閉め、多恵は本棚と向き合った。児童書の隣に寄り添うように、新品の本を並べてみる。何かを考えるのも億劫になり、本棚の前に座ってそのまま眠り込んだ。

 同じ書店には、当分の間、寄りつかない習慣がついた。あちらこちらの書店を点々と巡り、多恵の部屋の本棚には日増しに新しい本が増えていった。多恵にとっては難しすぎて、厚すぎて、高価でおよそ面白みのない本。祖父には判る筈だ。決して子どもが欲しがるような内容ではないことを。


 最後の一冊。

 上段から下段まで本で埋め尽くされた本棚を、多恵は眺める。

欲しかったのは、ただ一言だった。多恵、一体、どうしたんだ。それだけで十分だった。

 入学式からの一年間、祖父が呼びかける声をたえず待っていた。それに比例して、本棚の重みは加速的に増した。もう、紙一枚も入る余地がなさそうだ。

ついに祖父は、多恵の部屋へ足を踏み入れることもなかった。いつも急ぎ足で多恵の前を通り過ぎ、視線は多恵の頭より遥か上を走っていた。

 ようやくランドセルを下ろし、多恵はつややかな背表紙の列を眺めた。

 誰も知らない、多恵の宝物だ。増え続ける本に気づかない祖父を無言で責めながら、同時に誇らしくもあった。多恵だけの秘密。

 いつか、誰かが追いかけて来るかもしれないスリルも、これで終わりだ。がっかりしたような、ほっとしたような、ばらばらの気持ちが多恵の中で踊る。

 部屋の扉がノックされた。

 息を呑み、多恵は扉を見つめた。

 警察?

 ついに、来たのだろうか。いや、証拠など何も残っていなかったろう。第一、ノックされているのは部屋の扉で、玄関ではない。

 手伝いの女?

 ノックをして多恵に対面することなど、一度たりともなかったではないか。初めて何かを思い立ち、わざわざやって来るなどおよそ考えられない出来事だ。

 と、いうことは。

 扉が開いた。祖父が立っていた。

 髪が、いっそう白くなったようだ。祖父は黙ったまま一点を見ていた。ただ、見ていた。

 その視線を辿り、振り向いて確かめる必要もなかった。祖父が見ているものが何なのか、多恵には判っていた。

 本棚だ。

 祖父の手から、何かが落ちて音をたてた。新しい児童書の頁が、ぱっくりと床の上で開いていた。

 一年前に聞いた祖父の声が、多恵の耳に蘇った。お前が一つ大きくなる毎に、一冊の本をあげよう。

 ずっと、気づいてほしかった。でも、知らないでいてほしかった。 

 祖父の目から本棚を隠したい。今まで一体、何軒の本屋で何をしたっけ。もっと大人で、もっと体が大きければ、背中に隠せるのに。集めた方法を口ごもらずには説明できない本の詰まった本棚など、祖父に見せずに済んだのに。

「その、本棚は」

 つぶやくように言い、祖父が部屋に足を踏み入れた。反射的に多恵は後ろへ退いた。

 踵が本棚の縁に強く当たった。平衡を崩し、多恵は本棚へ倒れかかった。両手でつかんだのは、ただの空気だった。後ろの寄せた壁との間で本棚は大きく揺れ、傾ぎ、不穏な泣き声を上げた。

 倒れて来る!

 多恵は屈んだ姿勢で、本棚を仰ぐ。棚に押し込められていた本が次々に吐き出され、本に挟まっていた色とりどりのスリットが噴き出して宙を舞う。

本棚は床に横たわっていた。枠が歪み、棚が外れ、ネジが一箇所、醜く飛び出していた。

 多恵は気分がすっとした。それから、鳥肌が立った。

 祖父に貰った本棚を、自分は憎く思っていたのか。ずっと祖父のそばで、大事に扱われてきた本棚を。

 多恵は、不恰好に突き出ているネジから視線を上げる力を失っていた。

 祖父の惚けたような、緩慢な口調が聞こえてきた。         

「大きくなったな。多恵。……本棚を、負かしたじゃないか」

 祖父の足元には、見たことのない児童書が転がったままだ。仕事の合い間に買いに行ったのだろうか。ひょっとすると、多恵が入り込んではさまよい、逃げ出してきた、いずれかの書店で?

 かびの匂いで、鼻の奥がつんとした。懐かしい感じがした。

 祖父も力が抜けたように座り、ゆっくりと散らばったスリットを拾い出した。オレンジ色。緑。黄色。しわのある大きな手の中に、罪のない短冊が、同じ向きでおさまっていく。確かあれは、レジで本屋の店員が抜き取るものだ。

祖父の両手はスリットでいっぱいになった。音もなく立ち上がり、ようやく声がした。

「負けたよ。お前には」

 祖父は部屋を出た。背で押したのか、扉がゆっくりと閉まった。

 床にはもう、一枚のスリットもない。本は重なりあって山になったり谷になったりし、開いた頁には細かい字があふれ、小さな写真がところどころ浮かんでいた。


 どのくらい見つめていただろう。

 すぐそばにあった本を引き寄せる。ずしりと重いが、膝の上に乗せてみる。一頁目。読めない字は眺めて飛ばし、一字ずつ目で追ってみた。何の事が書かれているのか、さっぱり判らない。

 二頁目、三頁目。それでも多恵は、頁をめくり続ける。表も図もじっと見た。

 ようやく立ち上がって電気をつける。足がしびれていた。

 別の厚い本を取り、多恵は座り込んでまた頁をめくる。

 何冊か繰り返したところでうとうとし、敷き詰められた本の隙間で多恵は眠った。

「おい。おい」

 多恵の頭のそばに、祖父が屈みこんでいる。窓の外からの日差しが眩しい。

 目をこすりつつ多恵が起き上がると、祖父の顔が真正面に来た。

「私は諦めたよ。残念だがな」

 祖父の目は赤くなっている。

「書店を全部回ろうと思ったんだ。この本を、元の場所へ戻すように。でも、それは不可能なことだ。どの本がどこの書店で売られていたのか、お前も覚えてやしないだろう」

 祖父の手の中に、スリットはない。多恵は心細く頷いた。

「それでも、償いが必要だ」

 償う。多恵の頭はもやがかかったように、なかなか働かない。

「その必要は、あるんだ」

 多恵はようやく声を振り絞る。喉の奥に張り付くような、かさついた声が出た。

「本を読んでいるの。全部、全部、読もうと思うの」

 それが祖父の言う償いなのかどうか、多恵には判らない。ただ、自分の元にかき集めてしまった本の山を拓くと、張っていた意地が崩れていくことは確かだった。

 祖父は、両掌を両目に当てた。押し当てて少し動かし、息を大きく吐き出して、多恵を見た。

 多恵の頭が、ふわっと温かくなった。祖父が多恵の頭に片手を置いて、ぐりっと撫でた。温もりは、多恵の足の先までしみわたっていく。

「しっかり刻んで生きろ。この頭に」

 どこかの部屋の窓が開いているのだろうか、扉の先の長い廊下から、かすかに風が吹いてくる。

「私もそうだ。忘れやしないよ。多恵」

 扉の近くに落ちていた、まだ読んでいない本の頁が一枚めくれていった。

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ほしい、ほしい、ほしい 永瀬文人 @amiffy

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