13話 その感情の名は


 一人になった応接室で、セレナはソファーに凭れるようにして体重を預け、息を吐く。

 強く握りしめていた掌には、くっきりと爪の痕が残っていた。


「殿下…」


 ロマリアとの会話を思い出す。

 シュニーは婚約者と決めた者から受けた仕打ちを、どう思ったのだろうか。彼女を憎んだのだろうか、それとも悲しんだのだろうか。

 セレナはもやもやとしたものが、己の内から次から次へと湧き出てくるのを感じていた。


 この感情は悲しみか、それとも、怒りか。


 探るように天井を見上げた時、ノックの音と共に扉が開かれた。


「セレナ様、…大丈夫ですか?」


 大丈夫では、ない。はっきり言って。

 知ってしまった事実に、整理のつかないこの感情に、セレナは疲れた微笑を浮かべながら、声を掛けてきた相手を振り返った。


「なんとか…大丈夫です。ジェフ」

「お疲れ様でございます。お見事でした」


 この部屋でのやり取りを聞いていたかのように言うジェフに首を傾げると、彼は当然とばかりに言った。


「ちょっとズルをすれば、室内の会話など筒抜けなのです」


 ズルとは、と聞き返そうとしたセレナだったが、ジェフの笑顔が怖すぎたので言葉を飲み込んだ。聞かない方が良さそうだ。それ以前に教えてくれない気もするが。


「メイドから、セレナ様がレインテッド公爵令嬢と面会をしていると聞かされた時は、心臓が止まりそうでした」


 全く止まりそうもない心臓をしたジェフが言う。

 彼はメイドからセレナがロマリアと面会している事を聞かされて、慌てて駆けつけたらしい。しかし、呼ばれてもいないただの従者であるジェフが応接室に入る訳にはいかず、外で聞き耳を立てていたという事だ。


「本当にお見事でした。セレナ様が、あぁも簡単にロマリア嬢をいなすとは」

「でも私、殿下が猫を飼っていると言ってしまいました…」

「それくらいは問題ないでしょう。最後にきちんと口止めされていましたし」


 ロマリアは性格の悪さは否めないが、公爵家の令嬢なだけあって根は真面目なのだと言う。

 約束は守られるでしょう、とセレナを安心させるように教えてくれた。


「シュニー殿下は、お辛い思いをされたのですね…」


 静かな部屋に溶け込むようなか細い声で呟くと、ジェフはシュニーの事を話してくれた。ソファーの近くまで歩いてきたジェフを見上げながら、セレナはそれを聞く。


「当時は…殿下も流石に落ち込んではいました。ですが、自分の見る目が甘かったのだと猛省して、早めに気付けて良かったのだと笑っておりました」


 笑っていた。

それはきっと、悲しみを湛えた笑みだろう。シュニーは間違いなく傷付いたのだ。身体も、心も。

 もしかしたら、彼はわざと猫の姿でロマリアに近づいたのかもしれない。

 彼女の本心を探るために。

 結果は聞いた通りであり、確かに正式に結婚する前にロマリアの動物嫌いを知れた事は良かっただろう。

 でも、それ以上に深い傷も負ったのだ。


「殿下のお怪我は、大丈夫だったのですか?」

「それについては、はい。左のこめかみの辺りを切ったのですが、場所が場所なだけに出血が多かったようで…」


 傷の深さの割に血が流れたのだと教えてくれた。今はもう完治しているのだが、皮膚を抉るようにしてついた傷だった為、痕が残ってしまったらしい。


 それを聞いたセレナは、ふつふつと湧き出していた感情が何なのか理解する。


 ――これは、嫉妬だ。


怒りに似た、強い嫉妬なのだ。


 シュニーと短い期間でも婚約を交わし、そして、彼を傷つけたロマリアに。

 そう、セレナは心の内で、強く強く、嫉妬していたのだ。


「セレナ様…?」

「っ…ごめんなさい。少しぼうっとしていました」


 反応の無くなったセレナを心配したのか、ジェフが顔を覗き込んできた。


「疲れたのでしょう、部屋に戻られますか?」

「…えぇ、そうします」


 セレナは気付いてしまった感情に戸惑いを感じながら、自室へと帰るのだった。


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