Episode2
あのスライダーを、もう一球─嶋清正編─
昼下がりの甲子園球場、七日目の第三試合で四十九代表の
じっとりとした汗の出そうな蒸し暑い日で、
「七回あたりまで投手戦に持ち込めば、勝ち目はあるかも知れへんな」
監督はサラッと言ってのけたが、
(…いっぺん投げてみろや)
エースナンバーをつけたピッチャーの嶋清正は内心、軽々しい監督の言葉を小馬鹿にした様子でブルペンに向かった。
ここまで、強豪古豪ひしめく京都の府大会を一人で投げ抜いてきた清正には、簡単には打たれない秘策があった。
「緩急とコーナーワークだけ間違えなければ、多少球速が遅くても何とか打ち取れる」
という、経験値から導き出した独自の配球術である。
現に府大会の決勝、
「でもワイひとりで野球は出来ん」
キャッチャーの芦野
キャッチャーの芦野は、清正が少し狷介な性分で、
(たまに相手を見下してかかる癖があるからなぁ)
と、警戒をしていた。
ノーシードから勝ち上がったチームだが、それだけに順調でもなく、勢いに任せて勝ち残ってきた訳でもない。
府大会の三回戦、
芦野はそれを気にしていたのである。
なぁ芦野、と清正は、
「あれは確かにワイが悪かった。でも同じことはやらん。安心せえ」
ついでながら立ち直ってからの清正の集中力は只者ではなく、鬼か神でも取り憑いたかというようなコントロールで、特に相手の膝もとへのボールは、腰が砕けるのではないかというぐらいに体勢が崩れてしまうほどであった。
話を戻す。
試合は時教館の先攻で始まった。
清正は二番打者で、もっぱら送りバント要員のような感もなくはなかったが、たまにヒットも打つ。
先頭打者が四球を選んで一塁に行くと、
「二番ピッチャー、嶋くん」
白いヘルメットをかぶった清正が左打席に立った。
相手チームは清正について「クレバーだが何を仕掛けてくるか分からない選手」として、かなりチェックを入れてあったらしい。
そんなことは清正は分からない。
初球の甘めの球を勢い良く振り抜いた。
走りながら打球の行方を目で追った。
フェンス直撃のヒットで、清正は二塁に到達した。
一塁にいたランナーはホームベースを踏んで、結果としてこれが清正の最初で最後のタイムリーヒットとなった。
このイニングは最終的に一点どまりであったが、
「とりあえず、これでノーヒットノーランだけは避けられた」
円陣の真ん中にいたキャプテンがいうと、清正以外の選手はどっとウケた。
清正は早々とマウンドに上がって、投球練習を始めた。
府大会の準々決勝で清正は、ボール球ながら145kmを出している。
「あれはまぐれやで」
などと言うのだが、腕を鞭のようにしならせ、膝を畳み込んだフォームから、オーバースローで投げ込んでくる。
清正は初球はストレートと決めていた。
しかしキャッチャー芦野は、
「今日は、スライダーから行こう」
マウンドに来ると、清正に言った。
相手の様子から、清正のストレートに勝負を張っているように見えたのである。
清正はこういうときは恐ろしく素直で、
「分かった、スライダーを中心に組み立てよう」
初球はスライダーから入った。
すっぽぬけのスライダーがホームへ流れてゆく。
打たれた。
打球は折からの風にのって、またたく間に外野スタンドのぎりぎり座席側に入った。
スタンドは盛り上がる。
「…しくじった」
恥辱的な先頭打者の初球ホームランである。
「引きずるな、まだ初回や」
芦野が駆け寄った。
「すまん、せっかくのリードを」
「次からしっかりやろう」
二番、三番とスライダーで三振に仕留め、四番打者が来た。
スライダーを見てきた。
芦野はカーブのサインを出した。
清正はかぶりを振った。
何度もサイン交換したが合わない。
マウンドに芦野がゆく。
「ここはカーブやろ」
「ストレート今日まだ投げてへん」
「ここではないやろ」
仕方なく清正はカーブを投げたら、セカンドゴロでアウトを取れた。
二回表は三者凡退で、裏の五番打者は大会注目のスラッガーである。
しかも開幕試合でホームランも打っている。
「慎重に、スローカーブから見よう」
意見は一致した。
山なりのスローカーブを投げた。
あまりに遅いので「球速表示不能」と電光掲示板に出た。
コースがよくストライクが取れた。
球場は「球速表示不能」という珍しい現象にざわつき、
「早く投げられへんから遅いの投げてみた」
という逆手の発想を持ったピッチャーの出現に、好ゲームを期待した。
芦野はスライダーのサイン。
清正は信じて投げるしかない。
今度は、さすがにスッポ抜けなかった。
が。
まるで掬い上げるように打ち上げると、次はバックスクリーンに打球は吸い込まれた。
「…もしかして、スライダー狙いか?」
清正は芦野に疑問をぶつけた。
「次のバッターでスライダー振ってきたら切り替える」
六番打者は左。
左投げの清正には有利である。
サインは、…スライダー。
振って来ない。
(…やっぱりストレート狙いか)
ストレートのサインが出た。
芦野はインコースにミットを構えた。
「よっしゃ」
清正は大得意のインコース、膝下めがけて渾身ストレートを投げた。
打たれた。
コースは悪くない。
膝下へ投げ込んだはずだが打たれた。
二者連続のホームランである。
「…嶋、これはまずいで」
「そんなん分かっとるがな」
あのコースを打たれたら、あとは逃げながら躱してゆくより他ない。
七番バッターはスイッチヒッターで、右にまず立った。
「データでいけばストレート投げても大丈夫なはずやが」
またしても打たれた。
ヒットになって一塁にいる。
これ以上打たれてはワンサイドになる。
清正はスパイクの紐を結び直した。
「…甲子園は、やっぱり魔物しかおらんのやな」
清正はプレートを外した。
次の瞬間。
「ボーク!」
中途半端な外し方であったらしい。
一塁から二塁へ、相手のランナーが進塁する。
このあとの清正の記憶は定かではない。
スコアブックによると、七番バッターを併殺打に仕留め、八番はライトフライ。
三回表はホームランで一点返し、三回裏に二連続でデッドボールを出し、さらにスリーランが飛び出して、ここで清正はマウンドを降りた。
七対二から最後は七対六まで追いついたが、最後はフライアウトで試合終了となった。
「えぇとこなしやった」
かなりのちになっても訊かれて悔やんでいるのは、先頭打者ホームランとなった、スッポ抜けの一球目であるらしかった。
「でもあれを逃さんのだけが、要はプロやメジャーに行けるってことやな…」
因みにこのとき先頭打者ホームランを打ったバッターはのちに、大学から韓国や台湾のプロ野球へ渡り歩いて、逆輸入スラッガーとして話題になるに至る。
清正の甲子園経験はあとにも先にもこの一回で、採用試験のときには敢えて甲子園に出た話はせず、清正の試合の顛末が、広く世に知れ渡るようなったのは、アイドル部の顧問として、情報番組のコメンテーターに呼ばれるようになってからの話である。
キャッチャーであった芦野弘大は大学まで野球を続けていたが、肘の怪我がもとで野球を離れ、地元に戻ると生家の書店をついだとの由で、
「たまに北海道から、メロンが来るんですけど」
といい、
「あいつ…大人になったんやなって」
テレビで高校野球を観戦しながら、冷蔵庫で冷やしたメロンを食べるのが、夏の娯楽になったらしかった。
【完】
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