世界一美味しい水の作り方

しづく

曇りのち雨、所により雷雨 いつか晴れ

雨が降っている。僕は雨が好きなので窓の外を眺めていた、水が入ったグラスを持ちながら。あの日もこんな雨だった。グラスの中の液体に目を落とすとあの日々の記憶が自然と浮かんできた。そうだ、あの日もこんな雨だった。


 僕は昔から自分の気持ちを伝えることが苦手だったせいで人付き合いというものが嫌いだった。それが原因で周囲の人と馴染めずにいたが別に僕は誰とも馴染め無くて良かったし、静かに毎日を過ごせればそれだけで良かった。だが学校という集団生活の中で僕のような集団から漏れている存在は逆に目立ってしまい、気付けばクラスから疎まれ、時には陰で僕の行動一つ一つを笑われていた。だがそれをイジメと呼ぶにはあまりに小さすぎる気がしてしまった僕は誰かに必死に縋り付いて助けを求めるようなことも出来なかった。ただずっと誰が僕の敵か分からない教室で悪意のある視線に怯えながら毎日を過ごすしか無かった。そんな日々が続いていくうちにいつしか「人付き合いが苦手」という物は「人間が嫌い」という物に姿を変えた。

 変化など無く、行き場のない悲しさで胸が苦しくなるだけの灰色の学校生活を延々送っていたある日、席替えが行われた。憂鬱だった。僕は席替えというものに良い思い出が一つも無かった。僕の隣になった人はいつも僕を見て嫌そうな顔をするし、お昼になればどこかの誰かに机を勝手に使われて唯一の避難場所は無くなる。どうか酷い人に当たりませんように、と心から願いながらくじを引くことしか出来なかった。担任が新しい座先表を黒板に張り出したので僕の場所だけ確認し目立たない様そそくさと席を動かした。どうか僕の事を変に気にしない人が隣でありますようにと祈りながら隣の人を確認した。その瞬間僕は驚いた。隣の人と目が合ってしまった。思わず目を逸らしてしまう。見ていたと思われる、陰で気持ち悪いと言われてしまう、そう考えた僕は謝るためにもう一度隣を見た。だが予想外な事に隣の人は再び目が合うと

「よろしくね」

と嫌な顔一つせずに笑顔で挨拶をしてくれた。これが僕の人生を大きく変える「彼女」との出会いだった。

 正直僕は「彼女」を警戒していた。散々クラスの中で陰口を言われていたせいで人を信用する事が出来なかった。きっと「彼女」も優しいフリをして僕が油断した所をすぐ友達に報告して、僕の悪口で盛り上がる気なのだろう。お願いだ、僕の方からは何もしないからどうか関わらないでくれ、そう願いながら「彼女」と隣同士の日々を過ごした。だがしかし僕の願いは叶える必要が無さそうだった。最初こそ干渉しないでくれと思っていたが数日経つ事で少しずつ考えに変化が起き始めていた。何故だか「彼女」はいつまでも優しかった。登校して席に着く僕に

「おはよう」

と太陽のような笑顔で言ってくれるし、授業で話し合いの時間になった時にきちんと僕の意見を聞いてくれていた。帰る時も

「バイバイ」

と朝と同じ明るい笑顔で言ってくれていた。

「この人は信じてみても良いのかもしれない」

「彼女」が僕の日常に小さく入り込んできた時、ついにそんな風に考えるようになった。

 「彼女」のおはようにもバイバイにもきちんと返事が出来るようになった頃、何かある度に「彼女」の顔が浮かんでしまっていた。何故かは分からないがもっと「彼女」に近づきたいと思った。だがこの感情が一体何なのか分からずに悶々とした日々を過ごしていたある昼下がり、聞き耳を立てていた「彼女」とその友達との会話でこの気持ちの正体を理解した。

「別れた先輩、まだしつこく連絡してくるんでしょ」

よくある友達同士の雑談の中で出た「彼女」の友達の一言だった。聞かれた彼女はいつものハキハキした声とは違った酷く沈んだ声で一言うん、とだけ呟いた。所詮は数ある雑談の中の一つの話題だったのだろう、すぐに話題は移り変わりそれと同時に「彼女」も今までと変わらない明るい声に戻った。しかしそれ以降の「彼女」たちの会話は僕の耳には入ってこなかった。「彼女」に恋人がいたというのもショックだったが、何よりもその恋人のせいで今も「彼女」が困っているというのが一番ショックだった。

「僕なら幸せにしてあげられるのに」

そんな言葉がパッと浮かんだ。僕なら、そのフレーズが引っかかる。僕なら、そうか僕は「彼女」に対して特別な感情を持っていたのか。この時初めて僕は「彼女」への想いに気が付いた。僕は「彼女」を好きになっていたのだ。

 僕の中の「彼女」への想いに気が付いたからと言って何か大きく生活は変わらない。それでも僕の中に芽生えた「彼女」への愛情は日毎に増大していた。その頃にはもう「彼女」からのおはようもバイバイもただの挨拶では無かった。「彼女」と喋りたい、「彼女」の事が知りたい、人間嫌いだったはずの僕はいつしかそんな事を望むようになっていたがどうしても「彼女」に話しかける事ができなかった。もし僕が「彼女」の事を好きなのが周囲の人にバレて陰で笑われたら、「彼女」を巻き込んでしまったら、そんな見えないトゲの一本一本が僕の胸に突き刺さってズキズキと痛んだ。皆の視線が怖くて怖くて仕方がなかった。

 どうする事も出来ずにただ「彼女」への想いを膨らませている日々もある時終わった。解決策を見つけた。それはあまりにも簡単な事だった。

「恋人になれば良いのだ」

僕にとって「恋人」という言葉は男女間のやましさやいやらしさを取り払う唯一の免罪符のように思えた。恋人になるだなんてそんな突拍子も無い事を思いついたくらいなのだから勿論勝算も無いわけでは無かった。「彼女」の元彼がクズである事、現在「彼女」に好きな人がいるような素振りが見られない事、そしてクラスで孤立している僕に関心を持って話しかけてくれている事。これらは僕が行動を起こすには十分すぎる力を持っていた。これらはとても力強く頼もしく見えた。もう迷いは無い。窓の外を見る。空は雲一つない晴天だ。

 悩みが晴れた僕は次に告白の方法を考えることしたがつい先日まで「恋愛」や「告白」なんてものは映画やドラマの中だけの話だと思っていた僕にとってこの計画を立てることは非常に難しかったし、中々良い案が浮かばない自分自身に嫌気が差す時もあった。だが告白のシミュレーションをする度に頭の中の「彼女」が僕の告白に対して太陽の様な笑顔でこちらこそお願いします、と言ってくれるのを想像すると自然と多幸感に包まれた。結局色々考えては見たが恋愛ドラマの様なカッコいいものは浮かばず、部活終わりに1人で帰宅している「彼女」が呼び止めて告白するという何ともシンプルな方法に落ち着く事にした。そうして僕はその日が来るのを静かに待った。

 幸か不幸かその日は僕が思っていたより早くやってきた。部活の用事で帰宅が遅くなり、一人家路に着く「彼女」を後ろから追った。

「いつ話しかけよう」

「いつ伝えよう」

そんな言葉が頭の中で反芻される。今日が運命の日になると考えた瞬間、僕は怖くなってしまった。そんな僕の心を表すかの様に空は一面分厚い雲に覆われており真っ暗だ。

「今日はもうやめようかな」

そんな事を考えながら河川敷を歩く「彼女」の少し後ろを歩いていた僕はふと景色に目を向けた。一面雲に覆われていたはずの空だったが雲が一部だけ晴れ、夕日が顔を出していた。それはとてもとても美しい光景だった。夕日そのものも綺麗だったが何より夕陽に照らされた「彼女」の横顔がとても儚げに見えて胸が締め付けられた。この夕日が落ちてしまえば、この夕日が再び雲に覆われてしまえばもう「彼女」には二度と会えなくなってしまうと思わせるほどの魔力をその光景は持っていた。ここしかない、覚悟を決めた僕は「彼女」に声をかけた。

「あれ、こんな所でどうしたの」

急に名前を呼ばれたことに戸惑っていた「彼女」に自分の中に溜めていた想いの全てを伝えた。どれだけ僕が「彼女」の事を想っているか、「彼女」との日々にどれだけ助けられたか、どれだけ愛しているかを長い長い言葉で一つも溢さない様に話した。そうして最後は短く、

「僕の恋人になって下さい」

と一言伝えた。それはずっと言えなかった言葉、それは口に出した瞬間き全てが壊れてしまうと恐れて押さえつけていた言葉だった。そうして全てを出し切った僕は「彼女」の目をしっかり見た。その目は見たことが無いくらい悲しそうだった。僕のシミュレーションではここで「彼女」から、こちらこそよろしくお願いしますと言われるはずだったが現実はそう上手くはいかなかった。

「え…そっか…君とは友達だし、恋愛的な感情はないかな。ごめんね…」

ぽつりぽつり、冷たい何かが顔に当たる。雨だ。雨が降ってきた。何故「彼女」に振られるのか分からなかった。今までのおはようもバイバイも僕を弄ぶためだけのものだったのだろうか。僕を騙していたのだろうか。その気にさせて僕の心を踏みにじって遊んでいたのだろうか。途端に目の前の「彼女」が信じられなくなった。僕の知らない「彼女」の一面を想像してしまった瞬間、水の中に一滴のインクを垂らしたときの様に僕の心に真っ黒な感情が広がっていった。

 降り出した雨は一向に止む気配が無い。冷たい雨の一粒一粒が体温を奪う。それでも動けずにそこに立ち尽くす事しか出来なかった。ずぶ濡れになる僕を見ていられなかった「彼女」はタオルを差し出して雨にかき消されそうな小さな声でじゃあね、と一言残して早歩きで帰路に着いた。もうバイバイとは言ってくれ無いのかと思うと悲しくなり、渡されたタオルに目を向ける。まただ、またこうやって僕に優しくするフリを続けて僕の心を弄ぶ気なんだ。僕の愛を否定する気なんだ。そう思ったら僕の足は家路に着く「彼女」に一直線に向かっていた。もうこの身体は僕のものでは無いような気がした。心臓の音のせいで雨音が耳に入らない。

 グングンと距離を詰める。一歩近づく度に目の前が真っ赤になって行く。足は止まらない。心臓の鼓動も段々と早くなる。どんっ、という強く鈍い音がした。次にきゃっ、と短く高い悲鳴が僕の鼓膜に響いた。それは一瞬の事だった。僕は感情に身を任せて「彼女」を河川敷から突き落とした。何かに掴まろうとするも空を切る手も、命が危ないと悟り恐怖で見開かれた目も、倒れる瞬間に鼻をくすぐった「彼女」のシャンプーの匂いも全てが一瞬だった。「彼女」はそのまま土手を転がり川の近くに横たわり、それっきり動かなくなった。

「まずいことになった…」

僕はすぐに周囲を見回した。先程からの雨のおかげで近くに人影は見当たらない。今のうちに、そう思いピクリとも動かない「彼女」の身体を川の草木が生い茂っている所まで運ぶ。僕は悪くない、僕は悪くない、そんな事を呟きながら「彼女」を隠した。人の心を弄ぶからバチが当たるんだ、僕は心から好きだったのに、自分に言い聞かせながら真っ直ぐ家に向かった。玄関を潜ると一目散に布団に潜り込み朝が来るまでガタガタ震えていた。手のひらには「彼女」の柔らかな感触が生々しく残っていた。雨はどんどん強くなっていった。

 僕は悪くない、僕は悪くない、何度この言葉を繰り返していただろう。いつのまにか日付は変わっていた。こんな事をしたのがバレたら間違い無く僕は捕まってしまい人生が終わってしまう、それが怖くて怖くて仕方が無かった。犯人は現場に戻るとよく言うが僕も例に漏れず確認のためにもう一度あの川に行く事にした。昨日の雨はまだ降り続いていたため川の水は増え、流れは昨日より早くなっていた。草木をかき分けて見ると、やはりまだ「彼女」はそこにいた。しかしこの雨による増水で流れてきただろう木の枝などのせいでその身体は傷だらけでもう以前の様な可愛らしい印象は無かった。雨雲を見上げてみる。この雨が記録的な豪雨になるというニュースと目の前の「彼女」が繋がり、一筋の光が見えた。僕の考えているように全てが上手くいけばこのことを誰にもバレずに隠せる、そう思って僕はその一筋の光に縋り付いた。すぐに「彼女」だった物を引っ張り出して更に流れの早い所に連れて行った。途端にそれは川に呑みこまれ、あっという間に流されてしまった。

「バイバイ」

今日は僕から別れの挨拶を告げた。返事はもう返ってこない。

 「彼女」と区切りをつけ家に戻った僕だったが不思議と悪い気分では無かった。「彼女」がもう居ない事は悲しいし、「彼女」に振られたこと事も辛い、でも大好きな子の最期の記憶が他の誰でも無いこの自分であるという揺るぎのない事実は味わったことのない背徳感と達成感をもたらした。今でもこの手のひらにはあの時の「彼女」の質感がべったりと残っていた。以前まで気持ちが悪かったこの感触も今は愛おしく感じ「彼女」を感じるために両手を頬に当てて見た。テレビの中のキャスターが告げている、雨はもう少し続くらしい。

 それから数日経ち、「彼女」が居なくなったというニュースは少しずつ広がっていった。「彼女」の友達は最後に会った日に何か手掛かりが無かったかとあの日の事を思い出そうとしたり、スマホのやり取りを見返していたが何一つ違和感が無く落ち込んでいた。クラス全体が「彼女」という太陽を無くしてしまったせいで暗くなっていた。かくいう僕も太陽を無くしてからの学校生活に何も意味を見出さずにいたので流されていった「彼女」の事を考えていた。きっとこの雨で「彼女」は流されボロボロになりながら少しずつ少しずつ川の水と混じっていく。小学校の遠足で水道局に見学に行った時に職員の人から聞いた、川の水は巡り巡って生活水になるという話を思い出した。だから僕はこう考える事にした、「彼女」は死んだのではなく水に姿を変えたのだ。そう考えたら以前より「彼女」を近くで感じる瞬間が増えた。「彼女」が混じった水で顔を洗う時、歯を磨く時、お風呂に入っている時の全てで水に混じった「彼女」が寄り添ってくれている感じがした。運動をして汗をかけばその汗の元は接収した水なので、この汗も実質「彼女」だ。そう考える事で僕はあの日の「彼女」の行動を許せるようになったし、素直に愛を伝えられるようになった。

 「彼女」が水に姿を変えてから数日が経ったある日、テレビのニュースで行方不明の娘の事を涙を流しながら探す「彼女」の両親が取り上げられていた。「彼女」の父親は目に大粒の涙を浮かべながら娘に帰ってきて欲しいと必死にカメラに訴えかけていたが、その目から流れ落ちる涙の雫も元を辿れば「彼女」であることを僕は知っている。それならば「彼女」も両親の元に帰れて安心しているだろうと思った。何とかして「彼女」の両親にも娘との再会を教えてあげたいものだと思いながらテレビを消し、台所に向かう。棚から一番綺麗なコップを取り出して蛇口を捻ると流動体がトクトクとコップに注がれる。

「付き合う前よりずっと近くにいられるね。」

コップに入った「彼女」にそう話しかけながら窓の外を見た。あの日と同じ、雨が降っていた。だがもうあの日の雨とは違う。もうこの雨はただの水滴では無い。一滴一滴が「彼女」なのである。窓を開け、雨に身体を濡らしながらコップの中の「彼女」を飲み干した。

「とっても美味しいよ」

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