まちかみっ!~町に神様の居る日常~

かすていら

第一話 再会

 夢。

 夢を見ていた。

 おれは、そう直感した。

 明晰夢めいせきむという現象がある。

 明晰夢とは、自分の見ている夢がまさしく夢だと自覚できる場合を指して言う。

 だとすれば、おれが置かれた今の状況も、そういった類のものなのだろう。

 気が付けば、おれは、緑の絨毯じゅうたんを思わせる、香り高い芝生の上で横になっていた。

 わずかな湿り気を帯びた柔らかな葉が身体をくすぐり、頬を心地良く撫でる。

 鼻を抜ける鮮烈な緑の匂い……。

 顔を少し上げ、ゆっくりと周囲に目をやれば、そこはおれの知っている世界とはまるで別物だった。

 ひと言で形容するなら、やはり『夢』。

 数センチ先も満足に見通せないほどに鬱蒼うっそうと生い茂る森林が、新緑の大地を包み込むようにぐるりと取り囲み、近くを流れる清流の優しいせせらぎが意識をさらう。

 遥か上空に窺える爽やかな群青は、どこまでも果てしなく続いている。

 あまりにも現実離れした光景……。

 それはまさしく『夢の世界』のように思えた。

 だから、おれは、夢を見ているのだと、そう感じた。

 ここでは時が止まっているように思えた。

 近くを流れる川の水は、絶えず上から下に流れているが、それは円を一周する動きと同じだ。

 規則正しい動作が途切れることなく、延々と続くというのは、時間の消失を意味する。変化こそが、時間に与えられた特色だからだ。そして、終わりがなければ始まりもまたありえない。こうした同じ出来事の繰り返しは、見方を変えれば、もはや時間の流れが停滞しているのも同然と言えた。

 良いところの庭園を思わせる緑地だが、少なくとも、おれの周辺では、目立った変化がまったくと言っていいほど見られなかった。

 それに何より、生き物の気配がしない。

 こんな自然豊かな場所にもかかわらず、空を自由に飛び回る鳥などはおろか、羽虫一匹さえいやしない。

 まるで、おれひとりだけが、ここに取り残されてしまったかのようだ。

 音はすれども風は吹かず、川の水は休みなく流れるも時間はまったく動かない。

 おれのいる夢の世界は、どこか矛盾した、不思議な性質を帯びていた。

 おれはなぜここにいるのか?

 いつから、ここにいるのか?

 そもそも、おれは誰なのか?

 何も、わからない。

 いや、本当は、知っているのかもしれない。

 おれが、まだ、思い出せていないだけで……。

 本当は、おれは……。

「…………………………」

 やはり、何も、わからない。

 今のところわかるのは、ここが、夢の世界だということ。

 ただ、それだけだった。

 呆然と立ち尽くす。

 思わず身がすくんでしまうほどの大自然は、ぽつんとひとり佇むおれの存在など意に介することなく、終わりのない環状運動を続けるのみ。

 特に何をするでもなく、しばらく放心状態でいたおれだったが、ふと気が付いた。

 おれには、やるべきことがあったはずだ。

 一体、それは、何だったか。


『……あなたは……』


 突然の、声――。

 背筋に走る猛烈な寒気と共に後ろを振り返る。

 景色が半周し、夢の色彩が変わる。

 は、大きな木を背に立っていた。

 上が白く、下が赤い、かすかな温かみを感じさせる衣服を身にまとった、人間と思しき、二本足で立つ者。

 ――は少女だった。

 うっすらと、遠目に窺えるは、確かに少女の姿かたちをしていた。


『……あの時の……』


 少女が言った。

 対するおれは、我を失っていた。

 突如として現れた少女に目を奪われ、身動きが取れない。


『また――』


 はっきりと顔は見えない。

 まるで、そこだけもやがかかったように不鮮明だった。


『――お会いできましたね』


 心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃。

 雷に全身を刺し貫かれ、釘付けにでもされたか。

 足が地面に貼り付いたかのように、おれは完全に動きを停止させる。

 ――風が、吹く。

 おれの存在を根こそぎ奪い去るように、強く、強く。

 

『約束――』


 身体が浮遊する感覚。

 天地が逆転し、おれは空中へと放り出された。

 

『――今度は、守って……』


 ――世界が落ちる。急速に降下していく。

 今にも掻き消えそうな少女のささやきを最後に、すんでのところで繋ぎ止められていた意識の糸は、完全に途切れた。

 視界は闇に染まり、記憶は黒で塗りつぶされる……。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ――五年前のことなりしが、平生ひごろの望み足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりて思へば、幼き思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも世の常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげに記ししを、心ある人はいかにか見けむ。

 森鴎外もりおうがい『舞姫』

 

 ――ガタンゴトン


 ――ガタンゴトン 


 ゆりかごの中でうたた寝するのにも似た、懐かしい心地良さ。

 うっすらと汗ばむ蒸し暑さの中で、おれは目覚めた。

(ここは……)

 ぼんやりとした視界の中、濃い茶色の座席がまず真っ先に目に飛び込む。

 そして、車窓から流れるだだっ広い農地と山々とが、完全におれを目覚めさせた。

(そうだ、おれは……)

 背筋を正し、軽く息を吸う。

(うっかり眠ってしまったようだな……)

 時間にして、十数分くらいだろうか。

 少なくとも、寝過ごして目的の駅を通り過ぎたということはなさそうだ。

 腕時計で現在時刻を確認し、ひとまずは胸を撫で下ろす。

 今は午後2時過ぎ。太陽の光もまだまだ眩しい昼下がりだ。

(家を出てから、もう6時間以上経つのか……)

 不意に込み上げるあくびを押し殺し、流れ去る風景を無感動に眺めながら、そんなことを思う。

 手には、眠りに落ちる直前まで読んでいた森鴎外の『舞姫』が握られていた。

(……もう、読み終わっちまったな)

 移動中、手持無沙汰にならないように持って来た小説だったが、暇をつぶしきるよりも先に読破してしまった。

 目的地に到着するにはもう少し時間がかかる。

 それだけ、今からおれが向かうところは遠くにあった。

 明日から着ていく制服などの衣類や勉強道具を無理やりに詰め込んだ大判の風呂敷包みが、今回の移動が大がかりだということを物語る。

(しかし……)

 ひたいを押さえ、頭をゆっくりと横に振る。

 どうも目覚めがあんまり良くない。

 これでも寝起きは悪くない方なのだが、今回に限ってはどうにも意識がはっきりと定まらず、未だに考えがまとまらない始末。

 夢でも見ていたのだろうか?

 ぼんやりとした頭で記憶を辿ってみると、思考はある一点に行き着く。

(夢……)

 確かに、覚えがあった。

(……どんな夢、だったか……)

 よく思い出せない。

「……まあ、いいや」

 内容はほとんど頭に残っていないが、とにかく、不思議な夢を見ていた気がする。

 今は、その事実だけで満足することにした。

(そんなことよりも……)

 本を閉じる。

 体を伸ばし、長旅で凝り固まった全身をほぐしながら、寝ぼけた頭の準備体操がてらに小説の内容を反芻はんすうする。

 森鴎外の小説、『舞姫』の主人公である豊太郎は、未来の政府高官としての活躍を期待され、単身、ドイツに留学するも、無辜むこの踊り子エリスと出会ってから歯車が狂い出す。

 最終的に、豊太郎は、日本有数の為政者いせいしゃとしての地位か、一個人としての素朴で純粋な愛を取るかの究極の選択を迫られることになるが、自らの優柔不断が招いた不幸なアクシデントによって、不本意ながらもエリスを裏切ることになり、失意の中で日本に帰国するという哀れな結末を迎える。

 要するに、彼は、薄氷の上を歩くかのごとく、不安定で壊れやすい愛よりも、何物にも動じない確固たる権力の方を選んだのだ。知らず知らずのうちに心の中で両者を天秤にかけ、暗黙のうちに後者を選び取ったのだ。

 たとえ、自らの選択によって大事なものを失い、ひどく後悔したとしても、その事実に変わりはない。

 では、おれはどうか。

 もし、おれが、彼と同じく、愛か地位かのどちらかを選べと言われたら?

「…………」

 考えるまでもない。

 何を選ぶのかはとうに決まっている。

 それは――。

「……ようやく、頭が冴えてきたぜ」

 徐々に調子を取り戻したおれは、思考を打ち切り、辺りに目を向ける。

 ガタゴトと周期的に揺れる電車の中は、線路の上を進む走行音以外には静かなものだ。

 車内に人影はない。

 平日昼間の地方線に、人が乗っていることはまれだ。

 事実、おれが車両で見かけた乗客は、行商に向かう道中と思しき大きな荷物を持ったばーさんだけだった。

 もっとも、そのばーさんも、少し前の駅で下車してしまったが。

 おれは、単身、ひと気のない電車に揺られ、半ば呆然と居尽くす。

 窓の外に見える風景を、無心に眺めながら。

(……相変わらず、田舎だねえ)

 車窓から窺える景色は、まるで変化に乏しい。畑、田んぼ、そして、山。無駄に広大な土地が一面に広がるのみ。

 変わり映えしない車窓の向こう側を横目に、ふと、昔の記憶が呼び起こされる。

(……もう、5年か)

 おれが、最後に、この町を尋ねてから。

 少年だったおれが過ごした日々は、遥か遠くにかすんで、よく見えない。

 しかし、案ずることはない。

 ここで、おれの新しい日々が始まるのだから。

 すべては、夏の始まりと共に……。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 初夏。

 目の前に広がる緑の大地。

 遥か上空に窺える青い空。

 ――おれは、所狭しとビル群が立ち並ぶ、昼夜問わず喧騒に包まれた、せせこましい都会と違って開放感溢れる大自然に囲まれながら、半ば途方に暮れていた。

「……まだ、つかないのか」

 風呂敷で包んだ重たい荷物を背負い、まったく整備されていないあぜ道を歩くこと、数十分。

 田舎というのはどこもかしこも田んぼと畑ばかりで、見える景色にまるで変化がない。ただ、どこまでも伸びる一直線の道が続くのみである。

「……あちぃな」

 シャツの隙間に風を入れながら、思わずつぶやく。

 天を仰げば、ギラギラと照り付ける太陽が、青空の中心を我が物顔で居座っている姿が窺える。

 まだ7月に入ったばかりだが、この陽射しの強さというのは、都会暮らしのおれには堪えるものがあった。

 とはいえ、おれがこうしてわざわざ舗装されていない田舎道を歩くのには、ちゃんとした理由がある。

 それは、ほぼ無人の駅前に設置されたバス停の時刻表に、次のバスが来るまで2時間かかると書かれていたからではなく……。

「……というか、1日に4本しかバスが来ないとか、ありえねーだろ」

 つまり、朝と昼と夕方と夜のみ。

 頼みの綱であるバスは、大まかに区切られた時間にしか走らなかった。

「たく、田舎ってのはこれだから困る」

 分刻みでひっきりなしにバスが来る都会とは大違いだ。

 ……まあ、それは置いといて。 

「……やはり、土地柄、ここいら一帯は農業が中心か」

 呆れるほどに広がる一面の田畑からもわかるように、ここらは主に田園地区となっている。

 総人口一万にも満たない、閑静な田舎町。

 特産品と胸を張って言える品物もないような、地味で目立たない、時代に置き去りにされた場所。

 ――5年前までは、そうだった。

「とまあ、渡された資料にはそう書かれているわけだが」

 実際に現地に立ってみれば、なるほど、この情報はあながち間違いではなさそうだ。

「でも、海にも面しているんだよな」

 おれの立つ地には、民家もほとんどないような呆れるほどの平地が延々と続いているが、もっと先に進むと、急にひらけたところに出る。

 そこはいわゆる漁師町で、ここよりもひと気が沢山あり、目が覚めるほどの活気があるとのことだが……。

「こんな景観からじゃ、まったく想像できないな」

 ふぅ、と、溜め息をつく。

 もっとも、その海というのも、観光事業に役立つような綺麗なものではなく、もっと粗野で荒々しい、地元民しか近付かないような海だという。砂浜の周りには切り立った崖があり、潮の流れが激しく、とても海水浴ができるような場所ではないと、そんな話を聞いている。

「これも、あとで確認した方がいいだろうが……」

 とにもかくにも、周囲を山と海に囲まれた町。

 おれがやって来た尾前町おさきまちは、そういう場所だった。

 そして、都会育ちのおれが、どうしてこんなへんぴな町に来たかというと……。

「…………」

『空港建設絶対反対』、『農地を奪うな』などの物騒な言葉が書き殴られた立札が、平穏な田園風景にまじって散見される。

 牧歌的な辺りの景観に似つかわしくない立札から目を逸らすように、手元の地図を覗き込む。

「地図によると、もう少しのはずなんだが……」

 現在位置を確認するが、いまいちここがどこだか判然としない。土地勘がないおれにとって、まさに手探り状態だ。

「これも、試験の一環だと思うしかないか」

 自らを鼓舞するように言う。

 せっかくの好機をふいにしては、話にならない。

 与えられた義務を、的確にこなさなければ……。

「ええと、駅から歩いて1時間ちょっとで着く計算だから……」

 疲労と暑さで動きの鈍くなった頭をどうにか回転させる。

 すでに、かれこれ1時間近くは歩いている。

 もう、建物の姿が見えてもいい頃なんだがなあ……。

「うーん……」

 頭を抱え、思わず唸る。

 もしかして、道を間違えたのか?

(だとすると、面倒だな)

 ひとまず、周囲を確認する。

 辺りに広がるのは、呆れるほどに開けた田園地帯。

(……なんか、さっき見た光景と変わってないような……)

 思ってからすぐに気のせいだろうと自分に言い聞かせるが、どうにも妙だった。

 おかしい。

 さっきから、同じところを行ったり来たりしているような……。

(……さて、どうしたものか……)


 ビッビー


 背後からけたたましいクラクションが鳴り、ハッと振り返る。

 果たして、そこには、一台の軽トラが停まっていた。

「どうしたよ? こんな道のど真ん中で立ち止まって? 悪い物でも食ったんか?」

 軽トラの窓から顔を出し、いい感じに日焼けしたガタイの良いおっさんが声をかけてくる。額にタオルを巻き、白いTシャツをまくった格好の、いかにも田舎者って具合の出で立ちだ。

 田舎の人間は基本的に、よそ者に冷たい傾向にあるが、今回のように、まれに人の好い人物に行き当たることもある。

 まあ、それは、おれが若い見た目だということも多分に含まれているのだろうが。

 しかし、すぐ後ろを軽トラが走っていたなんて……、全然、気付かなかったぞ?

 よほど、考え事に集中していたんだなあ。

 とまあ、それはさておき……。

「すみません、瀬津せつ高校第一分校はどこにあるか知っていますか?」

「なんでえ、兄ちゃん、そこの生徒かなんかか? それなら、この道をまっすぐ進んで、突き当たりを左に曲がって、さらにまっすぐ進んで行けばじきに辿り着くわ」

「……この道をまっすぐ……」

 ちらりと振り返り、絶句する。

 目の前には、どこで途切れるかも定かではない地平線が、ただひたすらに伸びている。

(突き当たりって……、ここからじゃまったく窺えないんだが?!)

 しかも、突き当たりに差し掛かったら左に曲がってさらに直進て……、全然、終わりが見えないぞ?

 全身から力が抜けていく。

 これじゃ、待ち合わせ場所に着く前に体力がなくなっちまうぜ……。

「なんだい、兄ちゃん、もうへばっちまったんか?」

 おれの疲労困憊ひろうこんぱいっぷりを見透かした色黒のおっさんが豪快に笑う。

「ええ……、今まで駅からずっと歩いてきたんですが……」

 ぽりぽりと後頭部をかく。

「計算だと、とっくに到着しているはずなんですがね……」

 このおれの説明に対し、おっさんは、毛虫みたいに濃い眉毛をピクリと動かす。

「ほーん、なるほど、そういうことか……」

 何やら、得心とくしんがいったようにつぶやき、にやりと笑む。

 逆に、おっさんの思わせぶりな表情に要領を得ないおれは、突然のしたり顔を怪訝けげんに見詰め返す。

「ちょいと待ってな……」

 そう断りを入れると、ふところからおもむろに煙草たばこを取り出し、そのうちの一本を咥えて火をつける。

「ふーっ……」

 どこまでも透き通るような青空に向かって、独特のニオイを放つ白の煙が立ち昇る……。

「……これで、もう大丈夫だ」

「は? 何がですか」

 おっさんの取った行動と言動がイマイチ一致せず、理解できない。

だよ」

?」

「ここには、悪戯好きなキツネが仰山ぎょうさんいるもんでな」

「はあ」

「奴らは、旅人が特に好きでなあ。普段はあんまり悪さはしねえんだが、兄ちゃんみたいのが来ると喜び勇んで悪戯しにくる」

「……?」

「つまり、だ。兄ちゃん、あんた、んだぜ」

「えっ」

「がはは! まさにキツネにつままれたって顔してるな」

 予想だにしなかった答えに唖然とするおれを横目に、おっさんはもう一度、煙をふーっと吐き出す。

「キツネやタヌキの類は、こういった煙が大の苦手なんだよ」

「はあ」

 ようやく合点がいった。

(どうりで、いきなり煙草をふかし始めたわけだ)

 おっさんの言うことを信じるつもりはないが、一応、そういうものなのだろうと理解しておく。

 田舎という場所は、得てしてこういった迷信や俗信が現代においてもまかり通っているものなのだと。

「兄ちゃんも、一服やるかい?」

 悪戯っぽい顔で、『AAA』のロゴが入った煙草の箱をひらひらと見せびらかす。

「いえ、おれは未成年なので」

 それに何より、健康に悪い。

「そんな堅いこと言うなよ。ほれ、お守り代わりに持っておけって」

「ちょ、いらないですって!」

 身を乗り出したおっさんに煙草の箱を押し付けられ、たまらず両手で防御する。

「遠慮するなって、……ほれ!」

 突然、煙草の箱を放り投げる。

「うわっ!」

 慌てておれはそれをするキャッチする。

(って、貰っちゃ駄目なんだって!)

 つい、無条件反射的に受け取ってしまった。

「ちょっと、困りますよ! 学生がこんなの持ち歩いてたら補導されますって!」

「大丈夫だよ、大丈夫!」

「大丈夫って……、何がですか!」

「だって、それ、中身が入ってないからな」

「……え?」

「カラってことだよ、兄ちゃん」

「……は?」

 呆然と立ち尽くすおれを小馬鹿にするように、おっさんは笑いを押し殺す。

 おっさんの言うことを理解するのに、少しの時間を要した。

 確かに、手に持った煙草の箱は、非常に軽かった。

 つまり……。

(……そういうことかよ)

 煙草の箱をぐしゃりと握り潰す。

「兄ちゃん、見た目通り真面目なんだな。こりゃ、キツネが化かしたくなるのもわかる。わっはっは!」

「…………」

 悪びれなく大笑いするおっさんを前に、おれは閉口するしかなかった。

(ったく、これだから田舎の人間は……)

 普段は排他的かと思えば、妙に馴れ馴れしかったり……。

 心の中で悪態をつく。

「それで……」

 この場を仕切り直すため、えへんと咳を払う。

「おれは、キツネに化かされたせいで、同じところをグルグルと回っていたと?」

「ま、そういうこったな」

「うーん……」

 にわかには信じがたい話だ。

 しかし、現に、おれは路頭に迷っていたわけだし……。

(これは、参ったな)

 ぽりぽりと頬を掻く。

 頭の切り替えが早いおれは、煙草の空き箱の件などすぐに忘れ、地元の手荒い歓迎に頭を悩ませていた。

 やれやれ。

 こっちに来て早々、変な現象に見舞われてしまった。

 まったく、幸先悪いな。

「さあて。ところでよ、兄ちゃん」

 無駄足を食ったことで気が滅入っていると、不意におっさんが声をかけてくる。

「なんです?」

「せっかくだ、わしの軽トラに乗っていくか?」

 ニカッと屈託ない笑顔を浮かべ、自慢の足であろう軽トラを指差す。

「え、いいんですか?!」

 これからの重たい足取りを想像し、落胆していたおれだが、快いおっさんの申し出に歓喜して顔を上げる。

「ここで会ったのも何かの縁だ。『イイヅナ様』も、旅人は大事に扱えって言っているしな! 遠慮はいらねえよ!」

(……イイヅナ様?)

 聞き慣れない単語に首を傾げかけるが、すぐさま疑問符を振り払う。

「いやー、助かります! 本当、ありがとうございます!」

 地獄に仏とはまさにこのことだ。

 ただし、このおっさんの思惑に裏がなければの話だが。

「善は急げだ! さあ、乗った乗った!」

 気前の良いおっさんに急かされ、おれは周囲を気にしながら助手席に乗り込む。

 軽トラの中は狭く、煙草のせいか、何やら独特のニオイがする。

「…………」

 おれはそれとなく車内を確認する。

 じつは、少しばかり懸念していることがあった。

(さすがに、こんな白昼堂々に拉致や暴力沙汰はないと思うが……)

 軽トラには、農業関係の資材や荷物が積まれている。

 極めつけは、軽トラに乗る直前に見えた、荷台の側面に書かれた『尾前町農業組合』の文字。

 嫌な予感がした。

「しかし、そんな大きな荷物抱えて、兄ちゃん、どこから来たんだ?」

 ガタガタと揺れる車内で、色黒のおっさんは不意に尋ねる。

「瀬津市です」

「ほー、あんな都会から。それにしても、何の用で? 帰省にはまだ時期が早いだろう?」

「実は、瀬津市からこの尾前町に転入することになりましてね」

「ほー! それは結構なことだな! だからわしに学校の場所を尋ねたってわけか!」

「まあ、そういうことです」

「おっと、わしとしたことが肝心なことを聞き忘れた。ところでよ、兄ちゃん、名前は?」

「……周平しゅうへい、です」

 あえて、名字をぼかす。

「周平か、真面目そうな兄ちゃんらしい、良い名前じゃねえか!」

「はは、そんなことないですよ」

 他愛ない世間話を交わす。

 内心、おれは、自分の正体が見透かされるんじゃないかと冷や冷やしていた。

 だが、それは杞憂に終わった。

 ――そう思っていた。

「……なあ、兄ちゃん」

 先程までの明るい口調とは打って変わった神妙な雰囲気に、おれは背筋を正す。

 見れば、おっさんの顔付きは、人の良さそうな笑顔が印象的なそれから、自分以外のすべてを敵視するような狂暴なものへと変貌を遂げていた。

 猛獣を思わせる鋭い眼光に、おれは射竦いすくめられる。

「……兄ちゃんは、ここいらの自然について、どう思う?」

 予想していた質問が、ついに来た。

「そうですね……」

 危うく声が詰まりかけるが、どうにか考えをまとめる。 

「……空気がきれいで、緑豊かで、とてもいい場所だと思いますよ」

 出てきたのは、そんな、当たり障りのない答えだった。

 だが、これでいい。

 相手が求めている答えを導き出すことこそが、この場合、最適解なのだから。

「……そうか」

 それが証拠に、おっさんの表情が和らぐ。

 にわかに張り詰めた車内の空気は、ほどなく中和される。

 それでも、おれはおっさんの一挙一動に注視し、警戒心を緩めることはなかった。

「ここいら一帯は先祖代々伝わる土地だからな。戦前、戦中、戦後と、わしのじーさん、ひいじーさんが守った、大事な土地だ」

「…………」

「やっぱり、わしらがご先祖様の遺志を受け継ぎ、この土地を守らねえとな」

 思い詰めたような重苦しい口調から一転、にこやかに言う。

 彼らが、そうまでして尾前町を守る理由……。

 わざわざ、尋ねるまでもなかった。

 おれはなるだけ平静を装っていたが、胸中、穏やかではなかった。

「着いたぜ、兄ちゃん」

 車に揺らされること20分。

 気付けば、木造3階建ての校舎が目の前にそびえ立っていた。

 今が授業中だからだろう、辺りはいやに静かだった。

 鳥のさえずりが聞こえる。

 畑から漂う肥料のニオイが鼻をつく。

 何もかも、都会とは違う。

「ふぅ……」

 車から降り、背伸びしながら大きく息を吸う。

 この辺りでは比較的目立つ校舎と、体育館などの関係設備の数々、そして、敷地内に併設された寮が建つ以外、周囲に何もない。すでに見飽きた田畑が、やはり広がるばかりだ。

 360度視界が開けた、大自然の中に取り残されるように建てられた学校。

 のどかだというにはいささか辺境すぎる場所。

 ここが、おれの目的地のひとつだった。

(……ようやく、到着か)

 何やら感慨深いものがある。

 とはいえ、あまり悠長にしていられない。

 ここには、旅行に来ているわけじゃないからな。

 抱えた荷物の重さが、肩にずっしりとのしかかる。

「そいじゃ、わしは仕事に戻るぜ」

 おっさんが片手をあげ、別れを告げる。

「ええ、お世話になりました」

「なに、いいってことよ。仕事のホンのついでだからな!」

 ニカッと、爽やかな笑顔。

「あまり、キツネやものの類に化かされんようにな」

「ええ、気を付けます」

「もし、また、道に迷ったり、妙な気配を感じたら、煙草をふかしてみろ。それで事態は丸く収まる。一件落着ってわけだ」

「でも、おれは、煙草なんて……」

「なに言ってるんだ、兄ちゃん」

「なにって……、どういう意味です?」

「……まさか、わしが、客人相手に煙草の空箱なんかを渡すと思ったか?」

「……え?」

 それって、つまり……。

 おっさんの意味深な笑みにつられ、ポケットに無造作に突っ込んだ空き箱を急いで取り出す。

 手のひらには、くしゃくしゃに潰れた煙草の箱。

 中を開いてよく見ると、そこには、一本だけ、新品の煙草が……。

 驚いて軽トラの方を見れば、清々しいまでに悪戯っぽい笑みを浮かべるおっさんがいた。

「わしからの餞別せんべつだ! さっきも言ったように、お守り代わりだと思ってくれや!」

(……おっさん……)

 なかなか、いきなことをしてくれるじゃないか。

 これにはさすがのおれも脱帽だった。

「じゃ、頑張れよ少年!」

 威勢よく手を振りながら、おっさんは軽トラを走らせ、去っていった。

(待てよ……)

 ……よく考えてみれば……。

(あのおっさんこそ、化け狐かなんかじゃないのか?)

 そんな、非現実的な考えが浮かんでくるのは、ここが自然に溢れた土地だからだろう。

(……らしくねーな)

 自虐的な笑みを浮かべる。

 なぜ、おれがわざわざこの町に来たのか。

 自らに問う。

 心が急速に冷えていく。

 おれは、雄大な自然と神秘に包まれたこの町を……。

「……さて」

 気を取り直し、改めて辺りを見やる。

 周囲を手つかずの山々に囲まれた、古式ゆかしい木造校舎。

 門には、『瀬津高校第一分校』と書かれた鉄製のプレートが取り付けられている。

(ここで、おれの新たな生活が始まるわけだ)

 正直、父から転入の話を聞かされた時は戸惑ったが……。

「まあ、おれの今後のためになるのだから、やむを得ないか」

 おれには、ある目的があった。

 それは……。

「……さっき、トラックの音が聞こえたから、もしかしたらと思ったけど……」

 校門の陰から、ひとりの女の子が姿を現す。

 燦々さんさんと照り付ける太陽の光にも負けない、清潔な輝きを放つ白いワンピース姿の少女。

 面影があった。

 おそらく、相手もおれの姿を記憶と照合しているのだろう。妙な沈黙が、二人の間で立ち込める。

「……久しぶりだね、周平……くん」

 先に口を開いたのは、彼女の方だった。久々の対面で緊張しているのか、心なし頬を赤く染めながら小さく言う。

 この子の名は、蔵屋敷くらやしき鈴蘭すずか。母の妹の子で、おれの従姉いとこにあたり、今回、お世話になる下宿先の娘だ。大自然に囲まれた環境で程良く日焼けした肌と、人懐っこそうな垂れ気味の目。桜色の唇は瑞々しく張りがあり、柔らかな微笑を添えた口元は彼女の純真さを表しているようだ。若干幼さが残りながらも年相応に整った顔立ちは、贔屓目ひいきめに見てもかなり優れた容姿に思える。肩まで伸びた髪を左右に結ったお下げが、どこか楚々そそとした印象を与える。

 正真正銘、田舎育ちの純正培養。この鈴蘭と言う少女は、その控えめな名前が示すように、飾らない見た目通りの心優しい子だと、おれはそう記憶している。

(確か、おれと同い年ぐらいだったか……)

 彼女とは、分校の前で待ち合わせをしていた。

 こうして会うのも5年ぶりだ。

「なんだか……」

「……ん?」

「なんだか……別人みたいだね」

「……そうか?」

 自分ではよくわからない。

 とはいえ、5年も経てば結構変わるか。

「えと、どうかな、そっちの暮らしは?」

 視線をちらちら泳がせ、尋ねる。

 そんな鈴蘭の微妙な態度に困り、おれはポリポリと頬を掻く。

「うーん、特に変わりはないな。強いて言えば、ここ最近、父さんの仕事が忙しくて、ほとんど会っていないことぐらいか」

「え、それって、結構、大ごとじゃない?」

 鈴蘭は「信じられない」とでも言いたげに目を丸くするが、対するおれはどうとも思わなかった。

「そんなことねーよ。父さんと会えないのは昔からだし、慣れてるからな」

 おれの父は政府高官で、運輸省に所属している。いわゆる官僚という奴だ。

 そのため、父とは滅多に会う機会がない。特に最近は、国の立てたある計画が佳境に差し掛かっているせいもあって、ほとんど顔を見ていなかった。

 母は母で、仕事用の別荘に泊まり込む父に付き添いっきりだし……。

「それに、おれは本校だと寮生活だから、ここ3年はまともに会ってねーかな」

「え?! ということは、周平くん、一人暮らしってこと?!」

「ああ、そうだよ」

「……すごいね、なんだか大人って感じ」

 目を丸くした鈴蘭が、感嘆したように息を吐く。

 ……そんなに驚くことか?

「やっぱり、都会暮らしは大変そうだね。わたしだったら、家族の誰かと一日顔を会わさないだけでも変になっちゃいそう」

「ははは、相変わらず鈴蘭は家族想いだなあ」

「……うん、そうかも。えへへ、なんだか恥ずかしいね」

 おれが軽薄に笑うのとは対照的に、鈴蘭はぎこちない笑みを浮かべたあと、ややして顔を俯かせてしまう。

 こちらとしては軽いジョークのつもりだったのに、鈴蘭の奴、真に受けちゃったみたいだ。

 まったく、昔からそうだったが、ホント、純真だな。

 まあ、おれとしては、そっちの方がやりやすいけど。

「……変わらないね、周平くんは」

「……そうか?」

 思わず首を傾げる。

 しかし、変わったとか、変わらないとか、いちいち評価が変動するな。

 そんなことを思っていると、鈴蘭がジッとおれを見詰めていることに気付く。

 純粋でひたむきな、真っ直ぐ伸びた視線。

「見た目は昔と違ってなんだか大人っぽくなったけど、中身は一緒……」

 ふふっと、柔らかな微笑み。

「やっぱり、周平くんは周平くんだね」

 笑顔でそう言うものだから、おれはなんだか急に気恥ずかしくなって、咄嗟に視線を宙に逸らした。

「いや、まあ、確かに変わったのかもしれない」

 口をついて出た言葉は、限りなく照れ隠しに近かった。

「そうなの? たとえば、どんなところ?」

 首を傾げた鈴蘭に詰め寄られ、おれはますます返答に詰まる。

「えーっと、今までのおれがどう変わったのかどうかは自分でもよくわからねーが、少なくとも、これからしばらくの間は、都会暮らしに慣れたおれの生活様式もガラリと様変わりするわけだから、要するに、以前のおれと比較して、結構、変わるんじゃねーかな」

 苦し紛れに言うと、鈴蘭は納得したように大きく頷いた。

「……そっか、そうだよね」

 くすりと笑い、ゆっくりと顔を上げる。

「周平くん、今日からこっちで暮らすんだもんね……」

 どこか夢心地にも似た、うっとりとした表情。

「……ああ、そうだな」

 おれは小さく頷くと、次いで天を仰ぐ。

 別に、ふと見せた彼女の顔がまぶしかったからじゃない。

 胸に秘めた決意が揺らがないよう、気を引き締めるために校舎を見上げた。

 ただ、それだけだ。

 太陽が輝き、青空が無限に広がる、緑豊かな地。

 おれは、それとなく周囲をぐるりと見渡し、都会では決してお目に掛かれないような景観を目に入れる中で、固く、強く、決心する。

 ……ここ、尾前町は、母の生まれ育った土地だ。ゆえに、おれにとっても第二の故郷とも言うべき場所で、ガキの頃は毎年のように家族で帰省していた。

 そんな、雄大な大自然に囲まれた、穏やかな地で……。

 おれの今後を決定付ける3週間が、今まさに始まろうとしていた。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「さっきから、ずっと思ってたんだけど……」

「……うん?」

 果てしない直線が続くあぜ道を、ひたすら歩く道中。

 おれの横に並ぶ鈴蘭がこちらの背を窺いながらあげた疑問の声に、一旦、足取りを緩める。

「……その荷物、重くない?」

「……重い」

 ガクリと項垂うなだれてみせる。

 おれの肩に背負われているのは、パンパンに膨れ上がった風呂敷包み。

 こっちに下宿するにあたり、必要と思われる物資を可能な限り家から持ち込んできた。衣類を始め、勉強道具一式に、参考書の類。

 それなりの期間滞在するので、量もそれ相応にかなりの重量がある。

 もはや鈍器を軽く凌駕りょうがする重量を誇るであろう荷物の存在を意識した途端、思い出したかのように肩にめりめりと食い込む。

 忘れた頃に再来する、耐え難き苦痛。

(……まあ、さすがに慣れはしたけどな)

 もう1時間以上、この荷物を背負いながら歩いてるし。

「うーん……」

 じーっと、おれの背負った風呂敷包みを見詰める鈴蘭。

 まさか、とは思うが……。

「……その荷物、わたしが持とうか?」 

 予感的中。

 だが、それはあまり当たって欲しくない予想だった。

「いやいや、さすがに悪いって! 自分で言うのもなんだけど、この荷物、凄く重たいし!」

「それは見ればわかるよ。だから、わたしが持とうかなって……」

「まあ、気持ちは嬉しいけどな……」

 それにしても、いきなりとんでもない提案をしてくる。

「これでも、お父さんとお母さんの手伝いでお米とか担いだりしてるから、腕力には自信があるんだよ」

 グッとガッツポーズを取り、力こぶを作る。

「確かに、そうなんだろうけど……」

 実際、都会に住む人間よりよほど、体力も腕力も胆力もあるのはわかる。

 しかし、女性に重たい荷物を持たせるというのは、なんかこう、胸中複雑というか、男としての誇りが無惨にも粉々に砕かれるというか……。

 やっぱり、情けないよなあ。

「いや、せっかくの申し出だが、丁重にお断りさせてもらう」

 ゆっくりと首を横に振るう。

「ええー、いいの? 本当にだいじょうぶ?」

「ああ、こうして道を案内してもらうのだけでも充分だよ」

「……周平くんが言うなら、それでいいけど……」

 不服そうに口を尖らせるが、深追いはしない。

 そんな鈴蘭の大人びた対応に、おれは虚を突かれ、目を丸くする。

 衝撃だった。言葉が出ない。

(鈴蘭には歳の離れた兄がいる。つまり、こいつは妹だ。ゆえに、昔はじゃじゃ馬で、かなりお転婆だった。自分の意見が通らなければ駄々をこね、挙句の果てには泣き叫ぶ。そんな印象が今も根強い。

 だが、今はどうだ? 不満そうにこそすれ、いさぎよく引き下がる。何が何でも要求を飲ませる昔の鈴蘭とは大違いだ)

(……大人になったな、鈴蘭よ……)

 5年の月日を如実にょじつに感じさせる鈴蘭の成長のほどに、おれはちょっとした感動を覚えていた。

(って、おれは、こいつの保護者かっつーの)

 自分で思って、すかさず突っ込む。

(これまでの過酷な旅路で疲れるあまり、思考回路がおかしくなってきたな……)

 これは、早急に休まないと、夜まで持ちそうにない。

「それじゃ、行きますかね」

「そうだね」

 黙々と歩く。

 太陽が容赦なく照り付ける田舎道。

 早くも息が上がりそうになる。

「なあ、鈴蘭……」

「なに?」

「まだ、家まで辿り着かないのか?」

「周平くん、まだ歩き始めてから少ししか経ってないよ?」

「……そうか」

 おれの中では2時間くらいは経過している気がするが、鈴蘭が言うなら、きっと、そうなのだろう。

 再び、足を動かす。

「はあ、はあ……」

 ……もう、どれくらい歩いただろうか。

 汗がだらだらとひたいを伝って首筋を流れて落ちる。

 意識が朦朧もうろうとしてきた。

 ああ、なんだか大きな川が見える……。

 あれが噂に聞く三途の川か……なんて、馬鹿げた考えが浮かぶ。

 現実逃避もここまで来れば、もはや死に直面しているのも同然だった。

「あ、そろそろだね」

 鈴蘭の声につられ、荷物の重みで下がっていた顎を上げる。

 気付けば、民家がちらほら建ち並ぶ道まで来ていた。

 見覚えがある。

「あの分かれ道を右に進んで、また少し歩けば、わたしの家だよ」

 鈴蘭はにこやかに言うが、内心、おれは懐疑的だった。

 田舎での『少し』は、大体、都会の十倍はある。

 ご飯で例えると、都会で言う『少し』のおかわりが茶碗半分ぐらいなのに対し、ここでは大盛りで出される。

(……あと30分は歩きそうだな)

 予想される苦行の再来を思い、またもや重たい足取りで長旅の続きを再開するのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……ようやく、着いた……」

 ひと気のない、小ぢんまりとした駅から、変わり映えしない田舎道を延々と歩き、明日から通うことになる高校を経由すること、早2時間……。

 ぐったりと肩を落としながら、おれは辛くもつぶやいた。

「ここが、わたしの家。……と言っても、周平くんは別に初めてってわけじゃないから、説明はいらないかな?」

 ぜえぜえと肩で息をするおれと比べ、息さえ上がっていない鈴蘭が能天気に言う。

「……いや、やっぱり5年経つと、記憶があやふやだよ……」

 息を整えつつ、鈴蘭の質問に答える。

 目の前には、立派な門を構えた蔵屋敷家がそびえ立つ。

 威風堂々とした佇まい……。

 おぼろげながら、覚えている。

 蔵屋敷家は、地区を収める名家と言うだけあって、なかなか豪勢な家を所持している。

 もっとも、狭い土地を有効的に活用するために階層を増やす都会と違い、自らが所有する広大な土地に建てられたそれは、縦方向よりむしろ横に向けて面積を増やしていた。いわゆる、平屋というやつだ。

 周囲を高い塀に囲われた蔵屋敷家の入り口には、縦幅にして3メートル近い立派な門が構えられ、部外者を高圧的に見下ろしては、容赦なく峻別しゅんべつする。

(いよいよか……)

 否が応でも気が引き締まる。

 そこで、不意に気が付いた。

 おれを見る、鈴蘭の視線に。

「…………」

「……どうした? おれの顔を見詰めて……。おれが酷い顔をしているのはわかるが……」

「う、ううん、別に、そんなんじゃないよ」

 慌てた様子で両手を振る。

「そうか、なら、いいや」

「……うん。……じゃあ、行こっか」

「……ああ」

 彼女の視線の意味は図りかねるが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 重々しく開けられた門をくぐると、満遍なく綺麗に手入れが施された芝生しばふと、その上に石畳が敷き詰められた中庭が出迎えてくれる。

 涼やかな風情を漂わせる中庭に造られた池では、有力者の当然のたしなみと言わんばかりに飼育された、紅白の色彩鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいる。

(……ここも、変わっていないな)

 都心の一戸建てを遥かに凌ぐ規模を誇った、典型的な日本家屋。

 蔵屋敷の者が住まう家は、民家と言うより邸宅と言い換えた方が、この場合、より適切だった。

 明治期より続く、伝統のある一族。

 ――懐かしい風が吹く。

 頬をかすめ、優しく撫でる、自然の香りに溢れたひと吹きは、次の一歩を踏み出そうとするおれの動きを止めるのには充分過ぎた。

 奇妙な感覚が全身を支配する。

 それは既視感だ。

 なぜだろう。

 5年ものあいだ、おれはここに来ていないというのに。

 つい最近、どこかで、似た感覚を味わっていたような、そんな気がする。

 緑の大地……、水のせせらぎ……。

 そして……。

「……もしもーし?」

 ――どこからともなく聞こえる誰かの声。

「どうしたの? さっきからボーッとしちゃって」

 横を見れば、首を傾げた鈴蘭の姿。

「何か、面白いものでもあった?」

「……ああ」

 彼女の呼びかけで我に返ったおれは、咄嗟に生返事する。

「じつは、池のほとりにアマガエルが……」

「え、ウソ!? ホントに?!」

 女の子なのに珍しくカエルが好きな鈴蘭は、興味津々な様子で池の辺りに視線を這わせる。

 両目を輝かせながらおれの嘘を真に受ける彼女を前にして、思わず含み笑いを漏らす。

「ってのは冗談だとして……」

「え、ウソなの?」

 振り返り、間の抜けた表情で尋ねる。

「もちろん」

 当然とばかりに頷き、にやりと笑みを浮かべる。

「むー、周平くんのウソつき」

 それこそカエルが頬を膨らませたようなむくれ顔で、鈴蘭はおれを睨み付けた。

「やっぱり、周平くんって、昔から変わってないんだね」

 溜め息まじりに皮肉をぽつり。

「……ちょっと、大人っぽくなってたからって、変に緊張してたわたしがバカみたい」

「ん? 何か言った?」

「……ううん、なんでもない!」

 顔を真っ赤にし、ぶんぶんと首を振るう。

 まったく。

 思ったことが、すぐ顔と動作に出るんだからな。

(そんなんじゃ、生存競争の激しい都会じゃ生き残れないぜ……?)

 なんて思いつつ、今の純粋な鈴蘭に好感を抱くおれがいるのも事実だった。

「鈴蘭こそ、変わってないよなあ」

「え~、それって、どういう意味?」

「別に、深い意味はないよ。そのままの意味さ」

「ふーん、よくわかんないけど……、まあ、いっか」

 一点の曇りのない、屈託ない笑顔。

 ふと見せる彼女の純真無垢な表情に、おれは少しドキリとする。

 鈴蘭と言う名前が示すように、竹を割ったようなさっぱりとした、それでいて瑞々しい性格が、彼女の長所だった。

「お母さんもお父さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、みんな、びっくりするだろうな~」

 動揺するおれとは対照的に、鈴蘭の方は呑気なもんで、さも楽しげに鼻歌なんぞ歌ってやがる。

 まったく、人の気も知らないで……。

(こういうところも、昔と同じだな……)

「ただいまー」

 過去を回想するおれに先んじて、鈴蘭はガララと玄関の引き戸を開ける。

「おかーさーん、周ちゃんが帰ってきたよー」

(……周ちゃん、って……)

 高校3年生にもなって、子供の頃の呼び名を使うなよ。

(……しかも、おれは別に帰って来たわけじゃないぞ?)

 単に、分校に編入しに来ただけだし。

(鈴蘭の奴……、相当、浮かれてるんだな)

 待ち合わせ場所からここに来るまでの道中、終始、上機嫌だった鈴蘭。

(田舎ってのは事件が少ないから、こういうイベントがあるとすぐに浮き足立つんだよな)

 まあ、無理もないか。

(何と言っても、おれがここに来るのは5年ぶりだしな……)

 そう、5年。

 おれが蔵屋敷家に足を踏み入れるのは、随分と久しぶりだった。

(……そういえば……)

 不意に疑問がよぎる。

 なぜ、風祭の人間が、こうして再び尾前町に来るのに、5年もの間が開いたのだろうか?

 ここは、母の故郷。そして、おれにとっても思い出深い場所でもある。

 現に、5年前までは、家族で毎年帰郷していたはずだが……。

(5年前……)

 ここで、何かがあったのだろうか?

「…………」

(よく、思い出せないな……)

「ほら、周平くん! 早くこっちにおいでよ」

 しびれを切らした鈴蘭がおれを呼ぶ。

(まあ、いいや……、後で考えよう)

「今いくよ」

 そう返事して、おれは広い玄関をくぐった。 


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 キツネをかたどった彫刻や、年代物と思しき壺が飾られた玄関をくぐり、板張りの廊下を通って客間に着く。

 畳敷きの客間はふすまで仕切られているが、十四畳の広々とした間取りだ。壁際に設けられた床の間には仏壇、天井付近の場所には神棚が設置されている。

(こういう神仏習合しんぶつしゅうごうなところが、何とも日本らしいよな)

 素人には読めない梵字ぼんじが書かれた掛け軸が垂れ下がるおごそかな雰囲気の床の間が併設された客間に、一旦、荷物を置き、続いて、居間へと歩く。

「この時間帯は、いつもおじいちゃんが居間でのんびりしてるんだ」

「へえ」

「おばあちゃんは、離れにある縁側でお茶とか飲んでるかも」

「ふぅん」

 何気ない言葉を交わしながら、田舎独特のかぐわしい香りのする板張りの渡り廊下を並んで歩く。

 嗅覚と視覚と聴覚、この3つから得られる情報を元手に記憶を手繰り寄せていく。

(そういえば、そんな感じのじーさん、ばーさんだったような……)

 いかんせん、少年の頃なので記憶が曖昧だが。

「とりあえず、おじいちゃんに挨拶しておかないとね」

「ああ、そうだな」

 先代当主である蔵屋敷くらやしき与一よいちは、ここ尾前町の土地を数多く所有する大地主だ。

 もっとも、今では保持していた土地のほとんどを売却しているのだが。

 まあ、それはさておき……。

(いくら親戚相手とはいえ、失礼のないようにしないと)

 じーさん相手には特に、な……。

 何事も、初めが肝心だ。

 慎重に言葉を選ばないと。

「ほら、ここだよ」

 大きなふすまに閉ざされた一室。

 ここを開けると、じーさんがくつろいでいるという居間に出る。

「じゃあ、わたしから先に入るから、そのあとに続いてね」

 そう言いながら、躊躇ちゅうちょなくふすまを開ける。

 待って、まだ、心の準備が……。

「ただいまー!」

 緊張に胸を高鳴らせるおれのことなど意に介さず、鈴蘭の奴はずかずかと居間に突入していった。

(おいおい、気が早過ぎるって!)

 心の中で突っ込むが、このまま廊下に突っ立ってるわけにもいかない。

(ええい、ままよ!)

 覚悟を決めたおれは、一拍子遅れながらも居間へと進んだ。

 全体的に見て規模の大きな蔵屋敷邸の例に洩れず、居間もまた開放的だった。広さ八畳の和室。ゆったりとした空気が漂うそこには、家族が一堂に会す団らんの場所らしく、壁際に設置された本棚やテレビなどといった娯楽の類がよく目立った。

 中央に置かれた、味わい深い造りの木製の座卓の向かいに、こぢんまりとした人影が窺える。

 その人物の姿のほとんどは、両手に広げられた新聞紙によって隠れてしまっているが、鈴蘭から聞いた事前の話からして、それが家主である蔵屋敷与一その人であることはすぐにわかった。

「おじいちゃん、お客さんを連れてきたよ!」

 鈴蘭が元気よく告げるのと、奥にある引き戸が開け放たれたのは、ほぼ同時だった。

「ただいま、おじいさん! 今日はお隣の作間さんから沢山お野菜をいただいちゃったわ!」

 奥の引き戸から現れたのは、割烹着かっぽうぎに身を包んだ恰幅のよい女性。よく通る大きな声で、座卓の前に座し、熱心に新聞紙を覗き込む人物に話しかける。

 いかにも肝っ玉なこの人は、昔、やんちゃだった鈴蘭に振り回されるおれの面倒を見てくれた……和子かずこ叔母さん。母の妹で、鈴蘭の母親でもある。

(しかし、鈴蘭の話では、伯父さんと叔母さんは農作業に出ているとのことだったが……)

「お母さん、今、帰って来たのかな……?」

 割り込む形で登場した予想だにしない人物を前に、少し戸惑った様子の鈴蘭。

「そっか、勝手口から来たのかも……」 

「ああ、なるほど」

 鈴蘭の示した仮定に納得する。

 おれの記憶では、確か、勝手口は台所と繋がっている。そして、台所は、当然、この茶の間と同じ場所にある。

(だから、こうして偶然に鉢合わせたということか)

 なんて、呑気に分析している場合じゃないな。

「あら、鈴蘭? おかえりなさい。早かったわね」

 鈴蘭の存在に気が付いた叔母さんが、細い目を少しだけ開けて声をかける。

「って、あら? そういえばあなた、周平くんを迎えに行ったんじゃないの?」

「うん、そのことなんだけど……」

「あら、そこにいらっしゃる男性は……?」

 驚きに満ちた表情を浮かべる叔母さんの視線が、おれを捉える。

「あ、どうも」

 頭を下げ、軽く会釈する。

「お久しぶりです、おれです」

 第一印象が重要だとばかりに爽やかな笑みを浮かべる。

「もしかして……、鈴蘭の彼氏かしら?」

 ……ん?

「ち、違うよ! この人は……」

 ……何やら、話が明後日の方向に向かっている気が……。

「おん? なんじゃなんじゃ、鈴蘭、若い男なぞ連れて……」

 今まで新聞紙に目を通していた与一のじーさんが、叔母さんの『彼氏』という言葉に耳聡みみざとく反応してか、穏やかながら威厳の漂う浅黒い顔を上げ、まじまじとおれを見詰め出す。

 窓から射す西日を反射する見事なまでの頭皮が目にまぶしい……。

「そーかそーか、今の今まで男っ気のなかったじゃじゃ馬娘にも、ついに男ができたか。この歳まで長生きした甲斐があるってもんじゃわい」

「これは、今夜はお赤飯かしらね、うふふ!」

「もー、二人ともやめてよー!」

 デリカシーの欠片もないじーさんと叔母さんの妄言に怒り心頭の鈴蘭は、大きく肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら抗議する。

「この人は風祭周平くん! 今日から3週間、わたしたちと一緒に暮らす人! 前から説明してたでしょ!」

「ほうほう」

「あら、まあ」

 外野の野次を打ち消す勢いに気圧けおされてか、目を点にする両者。どこかしら演技臭いのはご愛嬌か。

「どうしたどうした、みんなで騒いで――って、鈴蘭、その男は……」

「お父さん!!」

 角刈りの髪型に鉢巻き姿が似合う、間の悪い伯父さんの登場と同時に発せられた疑問を鈴蘭が一喝して、紛糾ふんきゅうを極めしこの場は何とか収まった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 さて、肝心の挨拶もそこそこに、おれは、自分の部屋だと言う、かつて鈴蘭の兄が使用していた八畳一間の一室に荷物を置きに来た。

 鈴蘭の兄、武彦たけひこは、現在大学生であり、すでに上京済み。

 おれも、昔、彼と話したことがあるが、田舎の純朴な青年と言うよりは、寡黙かもくで気難しそうな印象があった。自分の置かれた環境に満足していないと言うか、何か鬱屈うっくつとしたものを抱えているような、そんな記憶がある。

(だからこそ、蔵屋敷の家を離れ、単身、都会に乗り込んだのだろうが)

 雛鳥ひなどりが栄養を蓄え、やがて大空に羽ばたくその時まで寝食を許された巣のごとく一室。しばらくはここを拠点に色々と行動するわけだ。

 おれが蔵屋敷家のお世話になるにあたって、ひとつのおきてが課せられた。

 それは、『離れにある蔵には決して近付かないこと』。

 なんでも、蔵には、蔵屋敷の由来にまつわる家系図や、尾前町の歴史に関する貴重な史料などが収められているという話。

 要するに、おれのような若僧にとっては、近寄るのも恐れ多い代物だと、そういうことだ。

(ま、さわらぬ神に祟りなしと言うし、わざわざ冒険する必要はないな)

 もっとも、中を覗こうにも、蔵は南京錠なんきんじょうで固く施錠せじょうされているらしいから、そもそも無理があるのだが。

(自分で言うのもなんだが、おれは用心深い男だ。興味本位に動くことなんてありえない。彼らの考えは杞憂きゆうに終わるだろうさ)

 早速、部屋の整理に取り掛かる。

 風呂敷に包まれた所持品を部屋に並べ、あるべき場所へと収納する。

 持参した荷物の多くは書籍の類で、あとは衣類などの生活用品だ。それらは元々置いてあった本棚とタンスにしまい、残りを机の上に置いていく。

(……蔵屋敷与一、ハツ、芳樹よしき、和子、鈴蘭……)

 来るべき明日の準備を進めながら、改めて蔵屋敷の顔触れを思い浮かべる。

(……そして……)

「………………」

 そこで、思考が停止した。まるで、時間が時を刻むのを止めたかのように。

 何かが引っかかる。喉の手前までせり上がった言葉が、どうしても出て来ない。

(なんだ? この違和感は……)

 蔵屋敷の者の中で、誰かが一人欠けている。なぜか、そんな気がした。

(兄である武彦か? ……いや、違うな)

 さしたる確証はないが、どういうわけか確信している。

(じゃあ……誰だ?)

 考える。

 考える。

 考えて、尚、考える。

 暗闇の中に見えて来るのは、闇の黒よりもさらに濃い、ぽっかりと開いた無の空間。あやふやな記憶の奥底に眠る、曖昧模糊あいまいもことした不定形の穴が映し出す、奇妙にも怪しく揺らめく影――。

 どうしても思い出せない。

(おれは、あの時、確かに――)

 違和感の正体を突き止められないまま、時間は過ぎていった。

 部屋の整理は、物の数分で終了した。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ――その夜。

 蔵屋敷家の者と揃って夜飯を食べる際、周囲から容赦ない質問攻めに遭ったのは言うまでもない。

 都会の生活はどうかとか、芸能人に会ったことはあるかとか、ビート○ズ来日はどうだったとか……、息つく暇もないとはこのことだ。

 まったく、手荒い歓迎……もとい、手厚い歓迎だなあ。

 おれはおれで、最近の町の状況とか、周囲の住民のこととか尋ねたりで、気の休まる暇がない。

(……明日から大丈夫かな、おれ)

 与えられた情報をまとめながら、思う。

「どれどれ、シュウちゃんが帰って来たことを神様に報告しに行こうかねえ」

 夕食を食べ終わり、みんなして茶をすする中、そう言って席を立ったのは祖母のハツ。花柄の和装姿がよく似合う、小柄なばーさんだ

「神様?」

 おれは隣の鈴蘭に尋ねた。

「えーとね、離れに大きな土蔵があるでしょ? そこに、神様が祀られているの」

「なるほどねえ」

 ずずーっと茶をすする。

 普通は仏壇とかに報告しそうなもんだが、田舎には独自の風習ってのがあるからな。

「今夜はごちそうだったから、神様もさぞお喜びになるだろうねえ」

 まるで自分のことのように、嬉しそうに目を細める。

 神にお供えでもするのか、夕飯の残りを台所から掻き集めたばーさんは、そのままふすまを開けて廊下に出ると、ひょこひょこと腰を曲げながら闇の中に消えていった。

(……何にせよ、マメなこって)

 甲斐甲斐しく神を信仰する蔵屋敷の者に哀れみに近いものを抱きながら、田舎らしい、まったりとした時間を過ごすのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……ふぅ、さっぱりした」

 風情のあるヒノキの風呂から出て、髪を乾かし終えたおれは、ほかほかの気分ながらも、これからの日々をうれう。

 もっとも、今日は今日で、鈴蘭のお風呂上がりの瞬間にばったり遭遇してしまったり、色々とハプニングがあったが……。


 ――それは、今をさかのぼること30分前の出来事だ。

 風呂に入るため、着替えを抱えて脱衣場まで歩いていたおれ。

 蔵屋敷家のような古い家では、独特のしきたりと言うか、昔ながらの妙な習わしがあるのが常だ。

 風呂の場合も例に洩れず、家長を頂点としたヒエラルキーに従い、一番位の高い者から順番に入浴が許される。

 つまり、本来なら最下位にある末っ子の鈴蘭のあとに、おれが入ることになっている。

 ――そう、この時点でおれは、当然考慮されるべき、ある危険性を充分に認識しておくべきだった。

 長旅で疲労していたせいもあってか、そこまで気が回らなかった。

 もっとも、後悔先に立たずとはよく言ったもので、今となっては後の祭りだが。

 何も知らない当時のおれは、着替えを抱え、呑気に鼻歌なんぞ吹いていた。

 この家の風呂釜はヒノキ製の洒落たものとの記憶があるから楽しみだ――。

 なんて浮かれていたら、廊下と脱衣場とを区分けするカーテンのような仕切りが急に開いて――。

「きゃっ!?」

「うおっ?!」

 バスタオル一枚の鈴蘭と鉢合わせになってしまった。

「ちょ、ちょっと、周平くん?! なにしてるの!?」

 風を切る勢いで仕切りが閉められる。

 湯気で煙る中に見えた彼女のうなじが、網膜に焼き付いていた。

「悪い! てっきり、もう風呂から上がって部屋に戻っているものとばかり……!」

 仕切りの向こうで背を向ける鈴蘭に必死に謝る。

「もう、わかったから! 早くここから離れて!」

「本当にすまん!」

 うの体で逃げ出す。

 水も滴る良い女とは、まさにこのことを言うのだろう――などと、無駄に考える始末だった。

(それにしても、鈴蘭の奴、いつの間にあんな成長したんだ)

 ひとりきりの部屋の中、バスタオル越しに見た彼女の瑞々しい素肌が脳裏に蘇り、そんなことを思う。

 全開となった白い背中は傷ひとつなく滑らかで、全体的にツヤと張りがあり、玉のような水滴が付着していたのも相まって、皮をむいた食べごろの果実を彷彿とさせた。

 綺麗だったな、あれは……。

(いやあ、眼福、眼福)

 何となく小躍りする。

 だが、呆けた思考回路はそこで打ち止めにした。

 おれには、やるべきことがあったのだ。

「………………」

 廊下を歩き、角を少し進んだ場所にある電話の前まで来る。

「すみません、一回、電話を借ります」

 大声で言うと、どこからともなく「あいよ」という返事が届く。

 その声を合図に受話器を取り、番号を回していく。

「夜分遅くに失礼致します、秘書の三崎さんですか?」

 神妙に尋ねると、落ち着いた女性の声が返ってくる。

「ぼくです、周平です。運輸政策局第一局長の風祭かざまつり宗吾そうごに繋いでもらえますか?」

『少々、お待ちください』――どこか無機質な音声が耳に届いた後、しばらく、静寂が流れる。

『……私だ』

 やがて聞こえるのは、重厚な響きを伴う声。

「今、お時間大丈夫でしょうか」

 電話の相手は、おれの父だ。

『問題ない。用件を聞こう』

 まだ仕事中の父だが、その疲れを感じさせない冷厳れいげんな声で応答する。

 親子などと言う甘ったれた一切の感情を排した響きに、風呂上がりで緩んだ心身が一気に引き締まる。

「無事に現地に到着しました」

『そうか』

 素っ気ないひと言。

 普通ならねぎらいの言葉のひとつでもありそうだが、この人からそんな気遣いを期待してはいけない。

「……それで、尾前町のことなんですが」

 電話口の父は、おれからの報告を淡々とした様子で聞き流す。

 短い沈黙のあと、父は、その重たい口を開いた。

『本題に入る前に、ひとつ、お前に忠告しておく』

「なんでしょう」

『……大局を見通そうと躍起やっきになるあまり、目先の調査を怠るなよ? お前のすぐ周りに、思わぬ落とし穴が用意されていないとも限らないからな』

 いやに意味深長な言葉。

「……ええ、わかっています。何事も抜かりなくやりますよ」

『……ならば、いいのだがな』

 お互いに短く笑ったところで、物々しい会話は終わりを告げた。

 次に待つのは事務的な手続き。

 電話口の父は、冷静かつ的確に指示を出し、調査に漏れがないかどうかを子細に確認する。

「問題ありません、心配は無用です。……ぼくは、父さんの息子ですから」

 冗談めかして言うと、普段は堅物の父も思わず失笑を漏らす。

 だが、おれはそこで気を緩めることなく、むしろ精神をより一層研ぎ澄ませる。

「……予定通り、徹底的に洗い出してみせます」

 神妙に告げる。

「こんな、特産品もないような痩せ細った田舎の土地、まったくと言っていいほど環境資源になりません。それこそ、国の管理下に置くのが一番良い。父さんもそう思うでしょう?」

『ああ』と、短い返事。

 おれには、ある目的があった。――としての使命が。

「そのためにも、まずは山村地区にそびえる大天山だいてんざんを確保しなければなりませんね」

 狙いは、目下、大天山に門を構える天台宗てんだいしゅう系神宮寺が管理する社寺有林しゃじゆうりん

 山村地区は、未だに『新国際空港開発計画』の反対勢力が根強く残っている。

 尾前町きっての名家たる蔵屋敷をようする田園地区がおよそ8割がた土地収用が済んでいるのに対し、原生林とも言える手つかずの山々に囲まれたあの区画は、資材運搬用の道路建設のために必要な土地を国側はほとんど保有できていない。

 即刻、蹴散らしてやるべきだ。

「3日です。3日以内に結果を出して見せましょう」

『ほう……』

 高らかに宣言すると、父は小さく嘆息を漏らした。

 すでに布石は打ってある。

 あとは、おれが直接、手を下すだけ。

「父さんの口添えもあって町長はすでに買収済みですし、大地主の蔵屋敷与一はすでに政府側の人間。彼らに逆らって生きていけるほど、この町――要するに閉鎖的な村社会――の序列は甘くありません。そこに、付け入る隙があります。何人なにびとも強大な権力の前には無力、それも背後に国家が控えているとなれば、誰であろうと太刀打ちできませんよ」

 尾前町の有力者のほとんどは、政府のばらまいた金の力や、ともすれば法に抵触ていしょくしかねない暴力的な圧力によって味方についている。

 例外はと言えば、山村地区の名家である東家と、国が警戒する暴力団『暁光会ぎょうこうかい』会長、大田原おおだわら弥之助やのすけが家長を務める大田原家、そして、その彼が懇意こんいにする神宮寺の坊主ぼうずどもだ。

 奴らは確かに厄介だが、何、物の数ではない。

 先にも言ったように、おれには策がある。

「では、僭越せんえつながら新天地での抱負も語り終えたことですし、本日の報告に移りたいと思います」

『よかろう』

「……おれが気になったことは、次の通りです」

 今日一日で感じ取った町の環境や土地の状態、住人の様子を伝える。

『話はわかった。――では、大天山の件は頼んだぞ、我が息子よ』

「はい」

 締めの挨拶を交わし、受話器を置く。

 最後に父が言った「頼んだぞ」の言葉が、やけに重たく感じられた。

「……ここまでは順調か」

 今日の出来事を振り返り、つぶやく。

 おれが、わざわざこんな寂れた町に来た理由。それは、他ならぬ父の仕事のためでもあった。

 おれの父、風祭宗吾は、運輸省内部に特設された運輸政策局の第一局長を務めている。

 5年前、あの『計画』が閣議決定した時から、すべては動き出した。

 ――新国際空港開発計画。運輸省を始め、建設省や農林水産省など、国の名だたる行政機関の重鎮たちが一丸となって推し進める、今世紀最大級の国家事業。斜陽期しゃようきを迎えつつある日本経済の今後を担う栄えある政策、その代表者のひとりとして、父は動いている。

 立場上、仕方のないことだが、父は、新国際空港開発計画を閣議決定にまでこぎつけるため、かなりあくどいことをしてきた。ある時は反対派の意見を封殺するために情報屋を送り込み、女関係などの不祥事を暴いて信用を失墜させ、政界から追放し、またある時は多額の政治献金を用いて相手を懐柔し、またある時は手なずけている暴力団を使って強制的に首を縦に振らせる。空港計画を可決させるための政治的駆け引き――要するに裏工作――を行う黒幕フィクサーとして、父は今も昔も暗躍しているわけだ。

 そして、おれもまた、父の右腕として、この町に送り込まれた。

 ……ひとつのミスも許されない。

 決意を新たに、部屋へと戻る。


 ――おおーん


(……なんだ?)

 薄暗い廊下を歩いていると、外から、獣の唸り声を思わせる不気味な響きが聞こえた。

(……野犬の声か?)

 都会ではさすがに見ないが、尾前町みたいな田舎だと話は別だ。それこそ、一見すれば狼と見間違えるような獰猛どうもうな野犬がいないとも限らない。

 そして、遠吠えの合間に聞こえるのは、田んぼの方から届いていると思しきカエルの大合唱。ゲコゲコと騒がしいそれは、さながら薄闇の中で奏でられるオーケストラのようだ。

(……まったく、都会とは大違いだよな……)

 緑豊かな景色はもとより、漂う空気さえも都会とは断然違う尾前町。

 今までの生活様式とはまったく異なる環境……。

 ふと、電車の中で読んだ『舞姫』のことが頭をよぎった。

 ドイツと言う見慣れぬ異国の地に降り立った主人公の豊太郎も、こんな気持ちだったのだろうか?

 小説の主人公と、今のおれの状況が、重なる。

 愛と権力の狭間、その板挟みとなって大事なものを失った、哀れな豊太郎。

(まったく、馬鹿な男だ)

 彼に同情はしない。

 おれなら迷わず選び取るだろう。何物にも惑わされない圧倒的な地位と、他者を容赦なくねじ伏せる途方の無い権力を。

(そうだ、必ず、手に入れてやる――)

 相手を食らう、強大無比な力。

 おれが欲しいのは、それだけだった。

 敬愛する我が父、風祭宗吾が、権謀術数けんぼうじゅっすうと金の力を用いて欲望渦巻く政界をのし上がったように、おれも、また――。

 部屋に辿り着く頃には、おれの意識は、延々と繰り広げられる黒々とした思考の渦と同化していた。

 頭に、軽い痛みがあった。

「……っち」

 不意に襲った頭痛に眉をしかめる。

 おれは、時々、こんなふうに、原因不明の頭痛に襲われる。

 大体、今のように疲労が蓄積している時に発生することが多いが、なに、気にするほどのことじゃない。

 ひとりで過ごすには広すぎる八畳一間の部屋、その隅っこの壁に背中を預ける。

 初日は終わった。

 ようやくひと息つける。

 とはいえ、これからやることは山積みだ。町の視察、土地の調査、住民の動向の確認、に関する事柄の様々な情報収集。これらすべてを他人にそうとは勘付かれないよう、慎重に、しかし、迅速にこなす必要がある。

(うまく予定を立てないとな……)

 まずは、資料の見直しから始めるとするか。

 と、タンスの横に置かれた荷物を漁ろうとした時だ。


 とんとん


 部屋のふすまが叩かれる。

「周平くん、まだ起きてる?」

 ふすまの向こうから鈴蘭が声をかけてくる。

「ああ、起きてるよ」

 答えながら、疑問を覚える。

「何か用か?」

「ううん、用ってほどのことじゃないけど……」

「……?」

 なんだ?

 思わず身構える。

 まさか、さっきのこと――不可抗力とはいえ、鈴蘭の裸を目撃したこと――をまだ根に持っているのか?

 ……ありえるな。

「なあ、あの時は――」

 おれがそう言う前に、鈴蘭が先に口を開く。

「えっとね……、ただ、おやすみって、言いたかったから」

「…………ヘ?」

 間抜けな声が漏れる。

 ひと息遅れて鈴蘭の言わんとすることを理解し、おれは吹き出しそうになった。

 一気に緊張感が抜ける。

「そんなことを言うために、わざわざこっちに出向いてきたのか?」

「そんなことって……、もう、周平くん? 挨拶は大事なんだよ」

 ふすま越しに聞こえる、非難の声。

 姿は見えないが、彼女のむくれた顔が容易に想像できる。

「わかった、わかった」

 苦笑しながら答える。

 まったく、古い考えだなあ。

 相変わらずと言うか、なんとも鈴蘭らしいと言うか。

「……ほんとに、わかってるの?」

「ああ、わかったよ。……おやすみ、鈴蘭」

「……うん、おやすみ」

 満足げな声色。

「…………」

 ……よし。

 鈴蘭の気配がなくなったのを確認してから、再び、書類に向かう。

(……大天山さえ手に入れば、勝利は目前だ……)

 そのために必要なものは、事前に仕込んである。

 抜かりはない。

 おれの行為が他人を傷付け、人々に非難されることになろうとも、構うものか。

 目的は手段を正当化する。最終的に勝てばいいだけの話だ。

『強者が強者たる所以ゆえん。それは弱者を食らう鋭い歯であることに帰結する』

 父は、おれが幼少の頃から、それこそ口癖のようにそう言って聞かせた。

 父は典型的な支配階級の人間であり、徹底した権威主義者だった。彼は人の下に立つことをとにかく嫌う。大地主である蔵屋敷家の令嬢、万寿美ますみを嫁に貰ったのも、自らの地位を確固たるものにするためだろう。要するに政略結婚だ。

 彼の行動原理には必ず裏がある。結果に結びつく原因が、必ず潜む。偶然はない。すべては計算され尽くしたものであり、明確な法則性――権威者とは何たるかの方法論――に基づくものなのだ。

 ゆえに、父は、非合理的なものを徹底して嫌悪する。

 昔、父はおれにこんな問いかけをしたことがある。

『一の犠牲で十が救われるのと、十の犠牲で一が救われるなら、どちらを取るか』

 考えるまでもない。

 一とは弱者であり、十とは強者だ。強者を犠牲にして弱者を助けるなど、ありえない。非合理的だ。まったく現実的ではない。

 そして、現実的ではないということは、そのまま理性的ではないということを意味する。

『すべて存在するものは、理性的なものである』

 父の言葉に従うなら、理性的な物事以外は成立しない。仮に別の解答が成り立つように見えても、それは言うなれば砂上の楼閣ろうかく、すぐにでも破綻してしまう。つまり、この命題の証明は、前者の『一の犠牲で十を救う』しかありえない。

 おれがそう答えると、父はその氷のような冷たい表情をわずかに緩め、小さく頷いた。

 一の犠牲で十を救う。当然だ。だから『舞姫』の豊太郎も、エリスを捨てた。裕福な生まれである自らの立場を考慮に入れると、貧民街に暮らす彼女の存在はどう考えても足手まといだからだ。

 結果、彼は目標を果たした。政府高官という華々しい地位を手に入れたわけだ。まさしくそれは一の犠牲で十を救ったことに他ならない。

 そして、おれもまた、絶対的な権力を手にするために動いている。

(……絶対に、成し遂げてやる)

 おれは、改めて今後の予定を練り、使命をまっとうするための準備を整える。

「……っ」

 眉間の辺りを鋭く刺すような痛み。

「っち、こんな時に……」

 思考を阻害し、意識をむしばむ、嫌な感覚。

 頭痛は、しばらく続きそうだった。

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