雪の降る春の日、私は君と出会った

蒼狗

雪の降る春の日、私は君と出会った

 進学と共に住み慣れた地から離れた。修めたい学問があるわけでもない。色恋を追いかけてとかでもない。ただ遠いところに行きたい。その一心で大学を決めた。

 これはそのツケとでも言うのであろうか。

 私は踏み慣れない雪に足をとられ、盛大に道のど真ん中で転んでいた。痛みと恥ずかしさ、そして視界の端に転がる割れた卵が起きあがる気力を奪っていた。

 神奈川から北海道へ。高校の同じクラス、ひいては同じ学年の中で、この北の大地を新天地に選んだのは私だけだった。家族や先生、クラスメイトには適当な理由を言って来たが、さっそく心が折れそうだ。

 例年よりも少しだけ春の訪れが遅い、と寮の管理人さんは言っていたが、入学式を桜ではなく舞う雪で迎えたのは初めての経験だった。そもそもここまで積もっている雪を見ることさえ、ほぼ初めての経験だった。雪道の歩き方や防寒対策についても教わったが、正直に言ってなめきっていた。

 背中の痛みが引いてくると同時に、段々と地面の冷たさがコートを突き抜けてきた。段々と起きあがる気力さえこの冷たさに吸い込まれていくような気がする。

「何してんの?」

 声がしたかと思うと、顔をのぞき込んでくる影があった。私以上に上着を身につけ、目元以外は肌が見えていないその人物は、私の顔を覗いたままその場にしゃがんだ。

「……転んでしまったら立ち上がる気力が無くなったんです」

 おそらく初対面な気がしたため、自然と敬語になる。

「でも寒くない? 自分は寒すぎて早く家に帰りたいよ」

「なら私になんて構わないで帰ればいいじゃないですか」

 唯一見えている瞳が、不思議そうに私に語りかける。

「そりゃあ自分と同じ学科の人が変なことをしていれば気になるじゃん」

 同じ学科。

 思い出した。私と同じように道外から来た人がもう一人居た。

 口元まで上げたマフラーとニット帽の隙間から見える肌は、程良く日に焼け目の前の人物の故郷を表しているようだった。

「しかも自分と同じ南から来た人だもん。どんな人なのか気になるじゃん」

 マフラーで隠れてはいるが、たぶん笑っているのだろう。私はというと戸惑いを隠せないでいる。

「同じ……たしか沖縄だっけ? 私は神奈川だから全然違いますよ」

「でもここからすれば南でしょ」

「最北端の都道府県だから当たり前じゃないですか」

 くすくすと笑っているのがよくわかる。

「結構話す方なんだね。黙ってスマホいじっているとこしか見たこと無かったから以外だったかも」

 そっくりそのまま同じ言葉を返したかった。

 お互い、同じ授業を受ける人とはそれなりに話しているのは見たが、しっかりと話しをしているところは見たことがない。ちょっとだけ言葉を交わし、盛り上がる前に終わる。そんな感じだった。

「そっちもそんなに笑う人だとは思わなかった。変わった人だとは思ってたけど」

「雪道で寝転がっている人に言われたくないかな」

 再び、くすくすと笑い声を上げる。

 私はようやく体を起こし、ほんのりと体に積もった雪を払う。少しの時間だったのに体が白くなっていた。

「起きあがるんだ」

「そりゃあ……まあ。寒いし」

 今になって恥ずかしいところを見られたという羞恥心がこみ上げてきた。

 立ち上がり、袋から飛び出した食材を戻す。

 いつの間にか降っていた雪は止んでいた。

「自分も寒くなってきたから先に行くね」

 二個ほど割れてしまった卵パックを袋に戻したところで、背中に彼女の言葉が届いた。

 振り返ると、少し離れた場所まで彼女は進んでいた。

「またね!」

 元気よく声を上げ手を振りながら去る彼女に、私は申し訳程度の腕を上げゆらりと振った。

 去って行く彼女の背を見ながら、いつのまにか敬語が崩れていたことに私は気がついた。


 高校で何かあったわけではなかった。虐めもなければ、友達との仲違いもない。家族と仲が悪いから離れたかったとかでもない。神奈川という場所が嫌いというわけでもなかった。

 ただ単純に何もなかっただけだ。関係も経験も何一つ特別なものがなかった。もちろん自分から作りに行こうとしなかったのもある。

 そんな自分が何も知らない場所に来たとき、どうなるのかが気になった。だからこんな場所までやってきた。

 今目の前には、またね、と行って立ち去った人が居る。それだけでなぜか新鮮な気分になった。

 この白色の景色の中で、そこにだけ色が付いたみたいに私の心は躍りだした。

 人生で初めての雪が降る春の日、私に何かが起きた。

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