第16話 7月30日 晴れ ときどき 雨

◇ AM10:00


「おにいちゃんがなかなか遊んでくれないから、おねえちゃんと遊んだのよね」

 シャボン玉した、楽しかった! 一昨日、遅くに帰宅した自分にそう報告しに来たレイの話を聞いていると、ミナの皮肉いっぱいな声がした。その物言いにむっとしながら、カイは心中で反論する。

『仕方ないだろ、こっちにだって、都合ってもんがあるんだし』


 だがそれでも、確かに、ここ最近ろくに構っていないという自覚はあり、罪悪感も覚えてはいるのだ。久々に、バイトも友人たちとの約束も無い日、レイと一緒に出かけることにした。


 そういえば、街の中をぶらついたことはなかったかな。

 いつも外出と言えば、図書館ばかりだった。そう思い至って、街歩きをすることにした。そうしておけば、万一迷子になっても、家の方向がわかるかもしれない。いつか帰るべき場所が見つかっても、また自由に遊びに来れる―。

 いつか、帰る。あの家から、いなくなる。

 当り前のことなのに、それまで不思議なほどにそのことを考えていなかったことにカイは気付いた。もう随分長く預かっているのに、正式な預け先が見つかったという連絡が来ないことを、なぜか不思議にすら思っていなかった。そうだ、自分の家は、仮の預かり場所。見知らぬ手にぎゅっと掴まれたかのように、胸の奥が痛んだ。


 街の中心を流れる小さな川に沿った遊歩道は、港に続く道。日差しは強いが、木々の陰の下を伝ってのんびり歩くのは、なかなか快適だ。日除けにと被らせた帽子を頭に載せ、レイは得意げに少しだけ前を歩く。素足に履いたお下がりの靴が、妙に大きく見えた。

 たまには徒歩も悪くないな。そう思っていると、目の前が開け、色に光を照り返す海が見えてきた。海の上には、沸き立つ入道雲。

「あ!」

 レイが声を上げ、不器用な足取りなりの精いっぱいのスピードで駆け寄っていく。

「おい、転ぶなよ! 気をつけろ!」

 カイは大声で叫ぶ。振り向いた顔は、パッと花が咲いたような笑顔。つられて笑いながら、カイは小さな影を追って走り出した。


「これ、海? すごいねえ!」

 岸壁ぎりぎりに立ち覗き込むようにしながら、レイが追いついてきたカイに言う。

「そう、海だけど。見たことないのか?」

 ない、と首を振りながら、レイはさらに白い波を泡立たせる水面を見つめた。

「あんまり端に寄ると、落ちるぞ?」

 そう言いながら、近寄って子どもの腕を取る。覗き込むのをやめないレイにいたずら心が沸き、そのまま海のほうへ掴んだ腕をぐい、と前方に突き出した。半ばつんのめるような格好になって、レイの上半身が海へと傾く。

「わあっ!?」

 珍しく慌てた声に、思わず笑いを洩らすと、子どもは振り向いて、むっとした顔で言った。

「落ちたって、平気だもん。泳ぐの上手だから」

「へえ、初耳。泳げるのか」

「泳げるよ、すっごく上手だよ」

「じゃあ、今度泳ぎに行くか?」

 おとなしいレイが、こんなにも子どもらしい顔を見せるのは初めてかもしれない。意外さと嬉しさににやにやしながらそう言うと、急にはっとした表情になった。

「…いい。行かない」

「海じゃなくて、プールだぞ?」

 泳ぎがうまいと散々主張しておきながら、急に身を翻すかのように拒絶して俯いた子どもに、海で泳ぐのは怖いのか、と考えながら、カイは諭すように言った。

「プール?」

「ああ、プールは大きな水槽みたいなもん。だから、流されたりなんてことはない。な、それなら安心だろ?」

 だが、そんなカイの言葉に、レイはさらに表情を固くして激しく首を横に振った。先ほどまでの態度と一変して、急に頑なになってしまった態度を何とか打ち破ろうと、

「…本当は泳げないのに、泳げるって言っちゃった?」

 わざと少しだけ意地悪そうに聞いてみる。

「違う! 違う、でも…」

 海から視線を離さない子どもの頬から顎に汗が伝い、ぽたりと落ちた。少し、呼吸が荒い。そういえば、随分長い時間、暑いところにいたかな。

「わかった、泳ぐのはやめだ。マリナハウスのティールームでサイダー飲もう」

 話題を早々に切り上げて、カイはレイの手を軽く引きながら、海に臨んだ木造風の建物へとレイを導いた。


        ***


◇ PM3:20


 来た道を引き返す途中、不意に、雨雲が遠くの空に沸き上がった。それはみるみる近づいてきて、ぽつりぽつりと水滴を落とし始める。と思う間もなく、それは激しい土砂降りとなった。

「雨だぞ! 家までもうすぐだ、走れ!」

 だが、カイが急かしても、子どもは一向に慌てる気配を見せなかった。

「雨? これ雨? ……ねえ、濡れるよ?」

 空を見上げ、雨に当たった腕と体を見下ろし、頬に落ちる水滴に触れる。

「当り前だろ、ばか! 早く来いって、びしょ濡れになるぞ!」

 半ば怒鳴りつけるように注意しても、レイはただ意外そうに目を見開き、どんどん水を吸い続けるシャツの裾を引っ張っていた。その腕を掴んで半ば強引に引き寄せ、小脇に抱えるようにしながら一気に家までの道を走る。辿り着いてようやく一息つくと、タオルを持ってきて、子どもの顔と髪、腕をざっと拭いてやった。


「すごいねえ、雨も濡れるんだね。でも、だいじょうぶだった。どうしてかな? 体中全部浸からないからかな?」

「何を言ってるんだ、お前は?」

 手を休めることなく拭いてやりながら、カイは、独り言のような意味をなさない子どもの言葉に大げさに眉を寄せてみせた。

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