イチジノキノマヨイと狂気の境目

高ノ宮 数麻(たかのみや かずま)

イチジノキノマヨイと狂気の境目

 彼からの返信が来なくなってもう3日が経った。


 最後のメッセージは、「ゴメン」だった。いまさら謝罪の言葉なんか意味はない。


 他に好きな人が出来たのは知っていた。それでも私は彼を愛していたし、彼だって私を深く愛してくれていた。


「イチジノキノマヨイ」


 彼はときどき間違った選択をする。大学ではマーケティングを学んだ彼が結果的に選んだ職業は教師だった。学生時代、私の誕生日にはいつも素敵なレストランを予約してくれたのに、今年はバカな学生の世話に追われて誕生日は一緒にいてもくれなかった。


 それでも私は彼を責めたりなんかしない。私はただ彼がそばに居てくれるだけで、愛してくれるだけで十分だった。


 それなのにあんなクソガキ女子高生に惑わされて、彼はいつしか家にも帰ってこなくなった。すべてあのクソガキのせいだ。


 私がクソガキの家に行き、石を投げて全ての窓ガラスを割った時も、彼はクソガキと一緒に私を責め立てた。それどころかクソガキが理不尽にも警察へ被害届を出した時も、彼は一切私を庇ってくれなかった。おかげで私は危うく逮捕されそうになった。


 私は彼のために学校へ手紙を送った。クソガキは彼の教え子だったので、二人のただれた関係を公にする事で彼を救おうと思った。


 私の思ったとおり、クソガキは退学になり、彼は教師という不毛な職から開放された。


 久しぶりに彼が家に戻って来た時、私は彼から深く感謝されると思っていたのに、彼が私にくれたものは殴打と罵倒の言葉だった。


 彼はこの家を出て行く為に荷物を取りに来たのだと言う。せっせと荷物をまとめる彼の後ろ姿を見ていた私は、ただ彼を救いたい一心で、彼の後頭部を彼からもらったシャンパンの瓶で力いっぱい殴った。


 ぐったりと横たわった彼の全身をガムテープでぐるぐる巻にし、右手の手首から先だけ自由にした。LINEのメッセージを送れるようにするためだ。


 「警察に連絡したらあのクソガキをぶっ殺すから。私が本気だって知ってるよね」


 彼はかすかに頷いた。


 「あなたが本気で反省したとき、私に謝罪の言葉を送信してね。これはあなたの為なの。あなたのイチジノキノマヨイは私が正してあげるから安心してね」


 彼はまたかすかに頷いた。


 「じゃあ、連絡待ってるわね」


私が部屋を出ようとした時、彼は塞がれた口で何か叫んでいるようだったけれど、私は静かに玄関ドアを閉めた。


 彼は意固地で、なかなか謝罪の言葉を送信してこない。私はしばらく彼を放っておく事にした。もしこのまま彼が死んでしまっても自業自得だ。


 4時間後、ようやく彼からメッセージが届いた。


 「ゴメン」


 なんて浅はかで陳腐な言葉だろう。やはり彼の事は放っておこう。なにより私にはまだやらなければならないことがある。


 私は今、クソガキの家の目の前に立っている。肩から下げた大きめのバッグには彼からもらったシャンパンの瓶が入っていた。


 やっぱりあのクソガキがこの世にいる限り、彼のイチジノキノマヨイは正せないのだ。


 私はインターホンを押し、笑顔でクソガキに呼びかける。


 「こんにちは。彼のことでちょっと相談したいことがあるの。玄関、開けてくれるかな?」


 クソガキが戸惑っているのはインターホン越しにでも分かった。それでも、彼のことで相談といわれればクソガキも鍵を開けないわけにはいかないだろう。


 私は玄関のドアが開くのを待ちながら、カバンに入っているシャンパンの瓶をぎゅっと握りしめていた。


 


 

 


 


 





 



 


 

 

 

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