第六曲『ポリフォニーはひび割れて』
それ以来、わたしはレイタさんと会うことが出来ないでおりました。きっと練習の邪魔になってしまっていたのでしょう。それならわたしは遠慮しなくてはなりません。
ですが、本日はいよいよ公演日なのです。
新曲はどうなったのでしょう――わたしはどうしても見届けたくて、今、此処に立っています。
「整理番号…Aの1…」
ずっと前に棗さんから頂いていた、一枚のチケットを握りしめ、前方の人だかりを眺め遣りながら、篭ったドライアイスの香りに包まれて。
上手寄り、最後尾のこの位置は、真っ直ぐ前を向いたらレイタさんが見える場所。
ライブハウスの熱気は天井を知らず、お嬢様方が一糸乱れぬ動きで手を扇がせます。そして髪は宙高くに舞わせ、脳を重低音に回し、身体全てを彼らの音楽に投じます。
これも一種の波。形はまったく違っても、ひとつに成ろうと求め続けるフロア、この一体感を、美しいと讃える他に何が出来ましょうか。
彼女たちが手を伸ばし、捧げるように見つめ沈み込んでいくステージは、世界は、生きた夢に溢れています。
そうして鮮烈なヘッドバンギングは、レイタさんの掻き鳴らす下り音階と同時に、無数の高く突き上げる拳へと取って変わります。演奏が終わっても、ドラムもベースも二本のギターも、余韻を長引かせるように、そのひた向きな想い達に応えます。
皆で音を締め括り、コンマ一秒の静寂もなく、沸き立つ歓声はやみません。そのさなかにあって、歌い手の方は少し水を含むとマイクスタンドに手を添えます。
ラストで新曲をと、彼は以前に仰っていました。
「…じゃ、最後に…」
きっとそうです。レイタさんの曲は完成しているのです。
「…新しいの、作ってきたから…」
彼にはどうか奏でて欲しい、
「…聴いてって」
我儘だとしても、本当の音を。
何かを予感させるイントロは、フラッシュするカウントで、冷酷な和音に一挙に飲み込まれてしまいました。それを内側から蹴破って、鋭く飛び出て吼えるように、全てが一斉にヘヴィに音を重ねます。
それらは次第に収束し、声に中心を明け渡し。ギターの音は、歌に誘われやって来た蝶の羽ばたきかの如く、静かに、どこまでもささやかに、時には離れ、また歩み寄りながら、傍らで神妙に仕えています。
それが表情を変えたのは、最後のサビの直前でした。
「…!」
骨の髄から、始まる共鳴。
あの夜の、彼の叫びと願いの旋律。行き場を探し、伸ばされた手。
数え切れない程の瞳が、レイタさんに刺さります。ステージ上にいる棗さんをはじめ、演奏中のメンバーの皆様のものも含めて全て。
ヴォーカルの声を喰っています。それだけでは飽き足らず、自分自身にも牙を剥きたい衝動のメロディ。
生きた夢と、それから死せる未来。両者を欲深く孕んだ音の、美しさを、形容する言葉をわたしは何処にも持ちません。
「……」
黒い黙。曲の終幕を、誰もが受け容れられませんでした。歓声か、拍手か、どよめきか。決めあぐねるお嬢様方の迷いの吐息は、
「玲多!」
飲み込まざるを得なくなります。
「…!?」
慌てふためく観衆を真っ二つに割りながら、何度もそう名前を呼ぶ、声が、わたしの中にある荘厳な旋律の群れを醒まします。
それは顔をこの手が覆い尽くすより速く、わたしたちの波形を全方位から潰し、踏み躙り、上から乱暴に譜面をばら撒くように書き換えて。
「やっと見つけた。こっちへ来なさい!」
逆流して。
「…ッ!」
耳が擦り切れるくらいに高速で巻き戻り、
「玲多!!」
再生されるバッハの旋律。
「え…あれさ、有名な…」
「うっそ、ヴァイオリニストの!?」
「なんでレイタのこと…」
「まさか…息子…!?」
――俺は、父に認められる音楽家に成りたかった。
「…!おまえ…なんで…」
「彼」に肩を押さえつけられながら、
「来るなって言っただろ!アイシャ!!」
遂に、そしてわたしも。
「…お父様」
わたしの喜び。わたしの慰め。
この心は、瞳に映る世界は、彼を求め続けるのだとばかり――。
「…?」
戸惑う彼の目の前に、わたしは愛らしいステップで踊り出たくて。
「お父様…!」
でも、やはり脚は震えるのですね。フロアがまるで、薄い氷であるかのように。
「…愛…紗…?」
こわい。
「…お久しぶりです、お父様。わたし、」
「何故お前が…だってお前は…」
「ずっと会いたくて…わたし…」
「いや…いや、知らない。お前のような者は、知らない」
「お父様、」
「そんな呼び方をするな!私に、娘などいない!!」
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