第250話 覚醒の刻(とき)①

 光球の中では、アラタの意識は膨大な記憶の海に呑まれて自分が何者なのか分からない状態になっていた。

 その時、何か巨大な黒い存在が近寄って来るのが見えた。だが、思考が混乱しているアラタはその脅威に抵抗する事はしなかった。

 その黒い物体はアラタの近くまで来ると、大きく広がり彼の四肢を胴体を顔を拘束し、何処までも深く沈んで行こうとしている。

 

(何だろう、これ? この黒い奴から憎しみ……怒り……悲しみ……絶望……色んな負の感情が流れ込んで来る。もし、こんなのとこれ以上深く沈んで行ったら、多分消えてなくなるんだろうな……それがなんとなく分かる……振りほどこうにもビクともしないし、それに自由になった所で、その後何をすればいいのか分からない……自分が何者なのかも分からないのに、この先どうすればいいんだ……なら、いっそのこと……)


 黒い物体から流れ込んで来る負の感情にアラタの心は蝕まれていく。その危険な存在に抵抗らしい抵抗も出来ないまま、彼の心は沈んで行くかに思われた。

 その時、何かが彼の手を掴んだ。顔が拘束され十分な視界が確保できない中、彼が見たのは小さな子供の手だった。

 

(子供……それも、とても小さな……2、3歳位の子かな? あれ? 待てよ? ……知ってる……この手の感触を……この手は……)


 アラタがその小さな手を僅かに握りしめると、その手も握り返してきた。弱々しくもこの手を離すまいと精一杯な気持ちが伝わって来る。

 

(ああ……そうだ……昔、小さい時によく手を繋いでいたんだ……そうだよ……この手は……)


「チセ……お前なんだな?」


 絶望に沈みかけていたアラタの目に再び意思が灯ると彼の身体から白い光が溢れだす。その光は、彼を覆っていた黒い物体を溶かしていき間もなく完全に消し去った。

 身体の自由を取り戻したアラタが正面を見ると、そこには小さな女の子が笑顔で立っていた。

 ショートボブの髪型でピンクのスカートを穿いている。その子はアラタに背を向けて走り出し、アラタはその後を追う。

 周囲は真夜中のように暗く、その夜道を少し走ったところで少女は年若い男性に抱き上げられていた。その隣には少女に似た女性がにこやかな表情をアラタに向けて立っていた。

 その2人を見た瞬間、アラタは時が止まったかのようにその場に立ちすくんでしまう。

 彼の記憶にあるその男女は、身体が収まる棺の中で真っ白い肌で無表情で横たわっていた。

 その最後の瞬間の印象だけが呪いのように記憶に残り、10年以上の間彼を苦しめてきた。


「父さん……母さん……」


 父と母、そして妹の所へ行こうとするが足が動かない。前へ踏み出せずにいるとチセを抱いたままの父親と母親がアラタの側まで歩いてきた。

 2人とも息子に笑顔を向けている。声を発する事はないが、2人の手がアラタに触れた時に彼らの心情が伝わってくるのが分かった。


「何だよ……ずっと俺を見守ってくれてたのなら、そう言ってくれよ……俺……俺……ずっと父さんと母さんとチセに謝りたかった! 1人で生き延びて、家族の事を忘れかけて……俺……!」


 涙を流しながら謝罪を述べる息子の頭をグシャグシャと荒く撫でながら父親は笑っていた。

 母親も少し涙を流しながら笑顔を向けている。無邪気な妹はアラタに抱っこをせがみ、父から兄の腕に移動しすべすべな頬をすり寄せてくる。それは生前チセがよくやった愛情表現である事をアラタは思い出した。

 アラタの中の辛いだけだった家族の思い出が、日々幸せに満ちていたものに変わっていく。

 父と公園でキャッチボールをした思い出。母が作ってくれた温かくて美味しいご飯。いつも自分の後にくっ付いてきた妹の姿。


「そうだよ……こんなにたくさん楽しい思い出があったのに……今まで忘れてたなんて本当に馬鹿だよ……俺……」


 俯くアラタの頬を指先でつつくと、チセは向こうの方を指さした。アラタがその方向に目を向けると、そこには叔父家族がいた。

 家族を失ったアラタを引き取った第二の家族。アラタは父母と妹への罪悪感から彼らの愛情を素直に受け止めることが出来ず、そのままソルシエルに来てしまった事を後悔していた。

 

「叔父さん、叔母さん、義姉さん……ごめん……そして、ありがとう。今ここにいる皆が本物のはずがないだろうけど……それでも、ちゃんと謝ってお礼が言いたかった」


 叔父家族もまたアラタの側に来て、笑顔を向けていた。その時、アラタの目の前に信じられない光景が広がっていく。

 そこには、魔王グランからムトウ・アラタに至るまでの転生における家族や友人、仲間達の姿があった。

 それと同時に、その時代の自分の記憶が甦っていくのが分かった。そして、彼らの後方からとても懐かしい感覚がするのをアラタは感じ取っていた。

 そこに行く事を躊躇ちゅうちょする少年の背中を父親達が軽く押す。


「行ってらっしゃい」


 彼らは言葉を発しない。だが、アラタは確かにその声を聞いた。アラタは正面を見て少し歩くと後ろを振り返る。

 そこには今までの人生で出会った家族が笑顔で彼を送り出す姿があった。


「――行ってきます!」


 アラタは再び自らが進むべき方向を見据え歩き出す。彼が再び後ろを振り返ることはなく、ただ前だけを見て進み続けた。

 アラタが歩き進める先には、かつて魔王グランとして生きた時代に共に戦った魔王軍の仲間達がいた。

 彼らが見守る中、さらに歩みを進めるとアラタは一度足を止める。そこにいたのは1本の漆黒の剣と1頭の黒いドラゴンであった。


「ソラス……アルバ……」


 しばらくそこに留まり懐かしい相棒達の姿を目に焼き付けると、後ろ髪を引かれる思いをしながら、先に進む。しばらく進むと今度は記憶に新しい人達がいた。


「リュウさん、スザンヌさん。それにスヴェン、コーデリアさん、ジャック、シャーリーさん、エルダー、ウンディーネ、イフリート、シルフ、ノーム……」


 勇者一行と4大精霊達のさらに奥にいる人物達を見てアラタは自然と笑顔になってしまう。新生魔王軍の仲間達がそこにいた。


「バルザス、セレーネ、ドラグ、ロック、トリーシャ、セス……それに……」


 仲間達の最奥には、プラチナブロンドの髪をたなびかせながらメイド服に身を包む女性の姿があった。

 アラタがソルシエルに来て一番最初に出会った人物であり、その後も魔王専属メイドとして彼の側に居続ける女性だ。

 

「アンジェ……」


 アンジェの方に向かって歩き、一度目をつむって再び彼女に目を向ける。すると、そこにはメイドの少女はいなかった。

 だが、アンジェの面影を持った女性がそこにはいた。誤った知識で色気のある寝衣を自分の正装にしてしまった天然気質の女性。

 豊穣の女神アンネローゼは花が咲いたような笑顔をアラタに向けている。


「俺、全部思い出したよ……アンネ。今からそっちに戻る。そしたら……たくさん話をしよう! 離れて過ごした、この500年分の思い出を!」


 アラタの身体から白い光が放たれ、周囲を白く染め上げていく。そして、暗い虚無の世界に次々と亀裂が入り崩壊していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る