第86話 ルナールの習性

 アラタが素振りをしている間、トリーシャは黙ったまま、彼の様子を微笑みながら見ていた。

 暫くして、素振りが終了すると1枚のタオルが差し出される。


「えっ? これって?」


「お疲れさまでした。汗かいたでしょ? そのままだと身体が冷えちゃうから、これで汗を拭って」


「あっ、ありがとう……使わせてもらうよ」


 トリーシャのタオルに顔をうずめると、柑橘系の爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、訓練後の疲れた身体を癒してくれる。

 だが、そんな嗅覚を通して感じる心地いい感覚が薄れてしまうほど少年の心中は穏やかではなかった。


(何これ、何これ、何これ? めっちゃ甘酸っぱいんですけど! ……はっ! これがもしかして噂に聞く〝青春〟てやつなのか? 来たのか? ……俺にも……青い春が……)


 感激のあまりに震えだし、一筋の涙を流すアラタを見て、トリーシャは少しだけ心配になっていた。


「大丈夫、マスター? さっきから身体が震えているけど? 寒くなっちゃった? それに……泣いてるの?」


「大丈夫……大丈夫だよ。むしろ何か充実している感じがするから問題なし!」


「そうなの? ……それなら、いいけど……」


 それから、身体の汗を拭うと、ルナールの少女は「タオル持って行くね」と両手を差し出すのであったが、アラタはさすがにそれは良くないと思い、洗ってから返そうとしていた。

 しかし、それでも断固としてタオル回収を要求するトリーシャに若干の違和感を感じる。


「一体どうしたんだ、トリーシャ! これ、俺の汗が染みこんでるから! 後で洗って返すよ! ちゃんと綺麗にするから!」


「いいえ! 大丈夫だから! 問題ないから! 今返して!」


 何故か男子の汗が染みこんだタオルを奪い合う男女。アラタは、何故こんな事になってしまったのだろうと困惑していた。

 ついさっきまでは、青春の香りがあんなに充満していたのに、今は自分の汗臭いタオルが宙を舞っているのだ。

 そんな折、宙を漂うタオルをかすめ取った人影があった。その人物は、美しい銀色の髪を有し、切れ長の目で2人を見つめていた。


「2人ともこんな時間に大声で騒いで……近所迷惑ですよ」


「アンジェ! それは私のタオル! だから私に返して」


「いやいや! さっき、俺が汗を拭いたやつだから洗って返すって言ったじゃん! だから、俺に返してくれアンジェ!」


 メイドは2人を交互に見つめながら、「はぁ」とため息をついていた。


「トリーシャ、こんな行動は不自然すぎますよ。あなたのマスターは、礼儀を尽くしてあなたに接しているのに、肝心のあなたは自分の本能に忠実ですか?」


「本能? 一体どういうことだアンジェ? 何か知ってるの?」


「……アラタ様にも以前説明した事です。今後こういう事も起こるでしょうから明らかにしておいた方がいいでしょうね」


 そう言うと、アンジェはタオルをトリーシャに返却する。それを大事そうに抱えると、間髪入れずにタオルに顔をうずめて深呼吸をする音が聞こえてくるのであった。

 その状況に困惑するアラタを他所よそに、タオルから顔を離したトリーシャの表情は恍惚としていた。


「……へ? 何故にあの反応? あのタオルには俺の汗が染みこんでるんだよ? 普通……嫌がるんじゃ?」


「あれこそ、トリーシャがタオルを回収しようとした理由です。……アラタ様の臭いがたっぷりしみ込んだタオルを嗅いで……幸福感を得ているのです!」


「…………マジで?」


「マジです。現実に目の前で行われています。先日ルナールは相性の良い相手を臭いで判別するとお伝えしましたが、それによって起こる行為の1つがあれです」


 そう言われて、バルゴ風穴内で聞いたルナールの習性を思い出していた。


(けど、まさか運動後の汗の臭いも大丈夫だとは……ルナールの習性って……)


 2人が静かに見つめる中、トリーシャの恍惚な表情は暫く続くのであった。

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