第5話 前夜

横浜中華街


月も星も雲に遮られ、街灯りのみが辺りを照らす中華街。路上には傷ついた人達が横たわり、街そのものにもいくつもの傷が刻まれている。門の外でも未だ戦いは続き、音も閃光も絶えず、平穏とは程遠い時が流れ続けていた。


「隊長、パナテナイアの聖宴に関する資料の解読の方は完了しました」

「助かる。このまま分析の方を開始してくれ」

「了解です」

中華街の案内所の一角、マリアとアイシェの二人は手を休める事なく端末を扱い、幾つもの資料の解読と分析を続ける。

先の戦いの中で手にした最後の希望、パナテナイアの聖宴。それが真に命足る物を作り出せると言うのならば、イリスを救う切り札となるというのならば、それの用途を調べ尽くすまでは休む事などできない。そんな気迫さえも見せながら彼女は作業に取り掛かる。連戦の後であるというにも関わらずに。


「よう、調子はどうだ」

缶コーヒー両手に現れたのはヨハネの班長、ジャンカルロ。

「あまり良いとは言えないな。いかんせん資料が少な過ぎる。そちらの首尾は」

「防衛指揮に関しちゃ俺より鉄の副官殿の方が向いてるんでな。奴に押し付けてきた。それとパナテナイアの聖宴は現物の確認も今回が初めてだからな。文献に関してはイゼベルにも頼んでるが、アイツの反応を見る限りでも出てくるかどうかって所だ」

「そうか……協力感謝する」

コーヒーを受け取り、一気にそれを喉の奥へと流し込む。脳が再び目を覚ましたことを確認するとマリアは今ある資料の分析に取り掛かる。その間には一切の弛緩なく、精神の糸が張り詰めたように。


そんな彼女の様子にジャンカルロは少し意外そうな表情を浮かべていた。

「何だ、用件がまだあるならさっさと言ってくれないか」

「いいや。マルコ班のマリアと言えば、鉄の女と聞いていたから少し驚いただけだ。ここまであの嬢ちゃんの為にするとはな」

「私はいつも全力さ。救える命の為にやれる事は全てやる。それがマルコの隊長としての責務だ」

マリアの答えに、彼はほくそ笑む。

「……俺から見れば隊長としてだけじゃなく、あんた個人の思い入れも強く見えるがね」

「何が言いたい」

「前より少し丸くなった、って事だよ。ほら、貸してみな」

ジャンカルロはマリアを退けるようにしてコンソールを弄り始める。彼はパナテナイアの聖宴のみならず、エレウシスの秘儀とディオニューシアの極光についての資料も展開して。

「ここから先は俺に任せて今日のところは身体を休めな。戦いの疲れも癒え切ってないだろう」

「……助かるが、どうして」

「俺は分の悪い賭けにもつい乗りたくなっちまってな。だから俺は俺なりにこの賭けに全チップを乗せるってだけさ」

そう、現状はまだ賭けである。それも勝ち目の薄い、圧倒的不利な賭け。それでも彼らは手を貸すと、死力を尽くすと言った。ならば、今自分が為すべき事は明日に向けて全てを万全にする事。

「なぁ、ジャンカルロ」

「どうした、マリア」

その為にも、一つだけ聞かねばならないことがあった。

「たった一人の為に、己の全てを投げ捨てる事をお前は愚かだと思うかい?」


己の選択が正しいのか。少女の為に隊長としての責務を投げ捨てる事さえも許されるのだろうか。この迷いを振り払わねば全力を出せぬと分かっていたから、彼に問いかける。

彼は一瞬悩んだ素振りを見せる。そして一瞬首から下げたロケットペンダントを開いて写真を見れば、そこからは答えが出るまでにはそう時間がかからず。

「確かに何も知らない奴からすれば愚の骨頂だろうなぁ」

「やはり……」

「だが、お前さんにとってあの子が大切だと言うのなら何も愚かなんかじゃない。それこそ正に、愛が故の行動だろ。素晴らしいじゃねえか」

いつも通りの飄々として、それでいて余りにも芯の通った答え。

「意外だな」

「なに、俺が同じような状況になればお前さんと同じような選択をするというだけさ。愛する一人の為なら、悪魔にだって魂を売るかもな?」

「私はそこまではしないよ。魂を売ったらあの子に会えなくなるからな」

「全く、冗談が通じないようで何よりだ」

憑き物が落ちたように笑い合う二人。彼女の顔にはもう、迷いなどは無く。

「さあ、さっさと休んできな」

「ああ、感謝する」

ほんの小さくはにかんで、マリアはその場所を後にした。


—————————————————————


ビルの屋上。夜にも限らず、春と夏の狭間の心地よい、暖かな風が肌を撫でる。

休もうにも逸る気持ちは抑え切れず、戦いの熱も冷めず、最善の道を探るべくその力を全力で使い続ける。

「……駄目だ、この未来ではイリスちゃんは愚か、垂眼まで犠牲になってしまう」

ただ彼が幾つもの世界に目を向けても、全員が無事に戻れる未来は見つからず。どの世界でも誰かが犠牲になってしまう。

『いい加減諦めたらどうだ、禅斗?』

嘲り。頭の奥から、自身と同じ声の、"父"の声が聞こえる。


己に宿っている、もう一人の自分であり、己ではない別の何か。


「黙っていろ、進斗」

『どうせ全員で助かる見込みなんてないんだ。いっその事エレウシスの秘儀の力を我が物にしちまえばいいじゃねえか』

「オレは、オレ達はイリスちゃん含め全員で帰る。それ以外の未来など認めん」

『叶わねえ未来に賭けるなんて、無駄だと思わねえか?そんなにみんなで帰りてえならイリスは犠牲にするべきだと思うけどなぁ』

あまりに利己的で攻撃的。悔しいと思うのは、彼の力はこの進斗に寄るものでもあり、切っても切り離す事の出来ない、呪いにも等しい。


時折、彼にその意識を持っていかれそうにもなる。彼の意識が表層に現れることもある。それでも彼は抑えに抑え、今の今までその自我を保って来た。

だがそれも、マスターキュレーターとの戦いの中で均衡は崩れ。力を使えば使うほどにその意識を蝕まれていく。


己の力に呑まれ、バケモノになっていく感覚。


きっと、イリスちゃんもこんな恐怖と戦っていたのだろう。


そう思えばこの程度の侵蝕、耐えられなければ大人として不甲斐ない。心に楔を打ち込むように、己の自我を保ちながら再度並行世界に意識を繋げようとした。


「こんなところにいたんですか、支部長」

「千翼、それに聖ちゃん」

そんなところに現れたのはMM地区支部の少年少女の二人。

「こんな所でうたた寝したら風邪引きますよー」

「悪い悪い。少し風が気持ちよかったからな」

いつも通り、何事も無かったかのように受け応える。今は指揮官として動揺や心の乱れを彼らに見せるわけにはいかない。自分が揺らげば、彼らの事も危険に晒してしまうのだから。

ただそう思った矢先、

「支部長。もし少しでも僕らのことを気にかけてくれてるなら、僕らのことは気にせず全力で戦って来てください」

「こっちは私達がどうにかしちゃいますんで!!」

彼らの方が先に言葉をかけてくれた。


「支部長はいっつも何か隠して、何考えてるのか分からないことが多いです。けど、流石に僕だって今回は分かりますよ」

「ちゃんとイリスちゃん連れてみんなで帰ってきて下さいね!!」

いつも通り穏やかな千翼に、元気一杯の聖。まだ未熟で、放っては行けないと思っていたのに。

化け物ではなく、支部長として帰らねばならないと思っていたのに。

「私が本気を出せば、もしかしたら人ではなくなってしまうかもしれないぞ?」

「それでも、僕らにとって支部長は支部長です」

「それに元から変わってますからきっとそんなに変わらないですよ!!」

「はは、違いない」

いつの間にかもう、支えられる側になって。

「ならばオレは成長した君たちに甘えて戦士として次の戦いに臨むとしよう。そして必ず、イリスちゃんを救い出して見せるさ」

いつも通りの笑顔で彼らに応える。決して躊躇うことなく戦い抜くことを決意して。己を縛る鎖を、全て解き放って。

「ええ、存分に隠し玉を発揮してください」

「がんばえしぶちょー!!」

彼らもまた、満面の笑顔で答える。互いにその信頼を確固たるものに変えて。

「そういう事だ進斗。オレはまだ、諦めんよ」

そして彼は己の中のもう一人に、刻み込む様に言い聞かせた。


信念と熱き魂の下に男は再度世界を垣間見る。

例え至高の未来が見えずとも、見えぬのならば新たな明日を己が手で切り拓いてみせる。

ただ一つの、誰もが悲しむことのない明日を手にする為に。


そして少女がまた心の底から笑える日を、この手で掴み取る為に。


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