青くもねぇし、春でもねぇ
モウラ
第1話 狛犬のベン
――狛犬のベンは、いつも神社の入り口に座り、道行く人々の群れを見下ろしていました。ごくたまに、気づかれないようにションベンをひっかけるという荒業に出ることもあります。さっきも、見目麗しいご婦人のコートを少しばかりしっとりさせたところです。
――しかし、ある日そのベンのおだやかな日常は、もろくも崩れ去ることになりました。それは、人間どもが、彼のションベンの類まれな効用に気づいてしまったからです。そのションベンをかけられた人間が、軒並みお金持ちになっていくというではありませんか。
「おい、
担任兼物理教師の
「お前ら、ちょっと立て」
まさか高2にもなって「立たされる」という苦行に従事させられることになるとは思わなかった。まぁ、教室左端の最後列なので、衆目にさらされる、という感じはないが。クラスのほとんどの生徒たちは、こちらに一瞥もくれずに黙々と小テストに打ち込んでいる。
「なぁ、お前ら、ずいぶん余裕だなぁ。2年からはもう受験生だって言ってんのがわかんねぇのかねぇ」
富澤は見た感じ40そこそこのメガネをかけたオッサンで、「カタブツ」って言葉がピッタリくる感じだ。これから1年もこんなヤツと付き合ってかなきゃならないと思うと、心底うんざりする。
そもそも、授業初日にいきなり小テストをやろうという魂胆からしてイカレてやがる。「生徒に嫌われる」という観点はコイツのアタマには一切ないんだろうか。まぁ、ねぇからやるんだろうな。というか、こんなヤツのことを好きになる人なんて、この世には……
「いいか、この世には勝ち組と負け組っていう2種類の人間がいるんだよ。将来勝ちたいって思うんなら、心入れ替えないとダメだぞー。こんなとこでくすぶってたら、生きてるイミがないだろー? どうだ、平?」
平は相変わらず余裕しゃくしゃくな感じで答えた。
「まぁ、機会の平等ってやつが保証されてんならって感じっすかね」
「あぁ、なんだって? キカイ……?」
富澤がアホ面を浮かべてポカンとしているので、俺は加勢することにした。この教室で自分が目立つようなことは極力避けていきたいとは思っているが、平のこととなると、話は別だ。
「いまの世の中では、貧しい家庭で育った人には、多くの選択肢は与えられないですよね? 一方で、そこそこ裕福なうちで育ったヤツはそれなりの学校に行けたりする。つまり、スタートラインが平等じゃないってことですよ。でも、恵まれてる人は、そんなこと気にもせずに人生を謳歌するわけだ。平は、そういう安易な『勝ち組』の人生を歩むことに耐えられない人間なんですよ」
言い終えて平のほうを見ると、吹き出しそうになるのを危うくこらえている様子だ。
一方の富澤は、今にもブチ切れそうになるのをどうにか抑えている雰囲気で、言い返してきた。
「いや、俺はお前のことを言ってんだよ。ゴタクばっかり並べてても、アタマはよくならねぇからな。平ぐらい勉強できるんならまだしも。なぁ、
クラス内にクスクス笑いが広がる中で、教室の真ん中へんに座っていた学級委員長の西崎さやかは、ご指名を受けると、さも軽蔑したかのような顔でこちらを振り返り、言った。
「そうやって自分は何の努力もせずに文句ばっか言うなら誰にでもできるよ。あんた、相変わらず言い訳の魔術師だね」
この痛烈なひと言に、クラスの全員が爆笑した。
そこで俺はもう確信したのだ。
あぁ、こいつらとは、一生わかり合えないんだなって――
〇
「いや、でもよ、『ベン』はねぇんじゃねぇ? だって、狛犬だろ? なんで欧米風なんだよ」
平が思い出したかのように言う。
午後3時、放課後の道端。うちの高校の隣はすぐ山で、その山裾の道路からはグラウンドが見下ろせる。青春を気取ったサッカー部だのチアリーディングだのの群れを眺め下ろしながら、俺は答えた。
「まぁ、いいじゃん。『ションベン』と掛かってるってのもあるし」
「あれぜってー偶然だろ。『ベン』に引っ張られて、ションベンって言いたくなっただけじゃねぇの?」
「バレたか。あぁ、そういや例のクマのゆるキャラは中国では『ションベンション』って呼ばれてるらしいけどな」
「へぇー、あんまりいい響きじゃねぇな」
「はい、じゃあ早口言葉。『ベンのペンションでションベンションがションベンしよん』。はい、どうぞ」
「えぇ!? ベンのペンションでベンションベン……って、なんだよそれ!」
ひとしきり二人で爆笑したあと、平はおもむろに言った。
「なぁ、ちょっと、ベン、探しに行ってみねぇ?」
この山の中腹には、人知れず鎮座ましましている神社があるというウワサだけは聞いたことがあった。もちろん、行ったことはない。チャリを道端に置きっぱにして、俺と平はその神社へとつながるであろう山道に入り込むことにした。道沿いに1本だけ植えてある桜はもうあらかた散っており、新緑の葉がきらめいている。
平と同じクラスになったのは、実に5年ぶりのことだ。
前回は小6だった。というより小5から一緒だった。俺は小5の2学期にこの町に転校してきて、すぐに仲良くなったのがこの平だったのだ。
さっき物理の時間にやっていた「あそび」は、小6の時によく平とやっていたものだ。俺がなんとなく思いついた架空のキャラを登場させて、雰囲気だけの物語を作る。途中まで書いて、平に渡す。するとあいつは奇想天外な発想で、それを膨らませる。授業に飽きた時にはしょっちゅうやっていた。よくバレて先生に怒られてたもんだ。
しかし、幼い頃の友情というのは儚いもので、同じ中学に上がってからはほとんど一緒にあそぶこともなくなった。ヤツはサッカー部の練習に明け暮れていて、ろくに友だちもできなかった俺はただ一人帰宅する日々がつづいた。家でも特に何もすることのない俺はただひたすら「本の虫」になり、あらゆる本を読み漁った結果、他の同級生を「圧倒」するにいたってしまったのだ。もう、俺と心から仲良くすることのできる友だちなんて、絶対にできないんじゃないかという気すらしていた。
中学までは勉強もできていたため、俺は地元では「ナンバーワン」と目される、この進学校に入学することができた。平も同じ高校に行くとわかった時は嬉しかったが、高1では同じクラスにならなかった。平は相変わらずサッカー部に所属し、俺には相変わらず友だちはできなかった。
高2に上がる時は、理科の科目によってクラスが分かれる。化学は必修で、俺はカンタンそうな生物を選ぼうとしていたが、2月のある日、廊下ですれ違った時に平から渡されたメモで、気が変わった。
――物理物理物理、ぜってー物理――
それを見た瞬間に爆笑してしまった。今までさんざん放置しといて、急に俺が恋しくなったのか? それか、俺に物理を選ばせといて、あいつは生物でも選ぶつもりなのか。いや、あいつはそんなことをするヤツじゃない。俺は迷わず物理を選んだ。しかし、物理コースも2クラスあったので、あいつと同じクラスになれたのは、神の粋な采配と言うほかないかもしれない。
山道を歩いていると突如古びた鳥居が現れ、その後ろに急な階段がつづいていた。平は鳥居のど真ん中を堂々と通り抜け、階段を上って行く。俺も後ろから追いかけた。全然先は見えない。
「なぁ、こんな遠いのか?」俺は少し息を切らしながら言った。
「みたいだな。おれも行ったことねぇけど」
「ないんかい」
だいたい100段くらいは上っただろうか。ようやく終わりが見えてきた。
「お、いたぞ、ベン」
階段を上りきった平が言った。鳥居の手前の両サイドの石の上に、ちょこんと2体の生き物が座っている。
「どっちがベンだと思うよ?」
俺は少し意地悪な質問をした。
「んーーーと、こっちだな」
平は迷わず右側を指さした。口が「阿」の形に開いている。
「はい、ザンネン。こっちは『獅子』だよ。『狛犬』は左。口閉じてっから」
平は怪訝そうな顔をしている。
「それ以外はいっしょじゃね?」
「まぁ、いまは見た目はほぼ変わんないけどな。昔は狛犬のほうはツノが生えてたらしい」
「へぇー。いつの間にそんな雑学にお詳しくなられたことやら」
平は皮肉ぶって言うが、それも今までの「帰宅部」としての実績だ。「こうなったのはお前のせいだよ!」ってのは言いがかりだろうから口には出せないが。
平は左側の「狛犬」をしげしげと観察し始めた。まさか、ほんとにこいつがションベン引っかけてくるとか思ってんじゃねぇだろうな。いやはや、俺は付き合いきれない。自分で勝手な物語を作りはするものの、俺だって現実とファンタジーの区別ぐらいつく。
驚いた。かなりの眺望が広がっている。高校は眼下に小さく見え、その遥か向こうには、かすかに海まで見える。こんな隠れた名所があるとは。デートスポットとかにも最適なのかもしれない。というか、あぁ、そうか、クラスのリア充たちはとっくにここの存在に気づいてるだろうし、夜な夜なここに繰り出してちちくり合ってんだろうな。クソみてぇな話だ。
「うわぁ!」
短い叫び声で我に返り、振り向くと、平がカッターシャツの左袖を見ながら固まっている。
「どうした?」
駆け寄ってみると、その袖がなんと、しっとりと濡れているではないか!
「おい、それってひょっとして……まさか……」
俺は愕然としながら狛犬のほうを見た。彼はさっきと変わらぬ風情で座っている。
すると、その狛犬の後ろから、腰の曲がったおばあちゃんがのろのろと出てくるではないか。
「お兄さん、もういいかのう」
「いや、まだ早いって、おばあちゃん!」
平は心底残念そうな声を上げた。
「いやー、もうちょっとおまえの驚いた顔を拝みたかったなぁー」
平はみたらし団子を頬張りながら楽しそうにつぶやいた。社の軒下に二人で座っている。
要はこういうことだった。俺が崖の下の眺望に見とれている間、平はひしゃくで水をまこうとしているおばあちゃんと出くわした。そこで、水を袖に自分でかけ、おばあちゃんには狛犬の後ろに隠れておくように頼んだって話。まったく、やることが幼稚だ。
「でも笑ったわー、『ひょっとして…まさか…!』とか言ってたしな。なんだ、おまえも案外子ども心を忘れてないもんなんだな」
「いや、だってあんなタイミングでやられたらちょっとドキっとするじゃんかよ」
俺もみたらし団子を頬張っている。さっきのおばあちゃんが、「みたらしおあがり」と言って出してくれたものだ。おばあちゃんのいい人ぶりは留まるところを知らない。狛犬の「ベン」は相変わらず澄ました顔をして鎮座している。
「でもよー、あの固そうな犬が立ち上がってションベン引っかけるってなったら、ちょっと萌えねぇか?」平が言う。
「おぉ? なんだそれ。まずは『萌え』の定義からお聞きしたいとこだが」
「まぁ、かわいいの上ってことでいいよ。いかつい顔しながらしれっとおしっこしちゃうっていうね。ギャップ萌えってやつだよ」
「ほう、俺がひたすら雑学を取り入れてる間にお前はおかしな嗜好を取り入れたってわけか」
「まぁ、そういうことでもいいや。でも、なんか非日常っぽいことを味わいたいなっつーのもあってさ」
平は団子を咀嚼しながら少しマジメな顔で言った。俺はおばあちゃんが淹れてくれたお茶を飲んでいる。一方の彼女は境内をほうきで掃いている。見たところ80を超えていそうなのに、働き者だ。俺たち若者はこんなところで油を売ってていいんだろうか。
「でも、あれがベンだって決まったわけじゃないじゃん」と俺はなんとなくつぶやく。
「いや、いいんじゃねぇかな。あれがベンで。万一違ったとしても、ベンってのは、おれたちの心の中にいるんだよ」
「うん、そういう言い方をすると、漢字に変換したくなるけどな。ほんで、『俺たちのお腹の中に、いつも
平は心底いやそうな顔をして言った。
「ほんとにきみは、数多の雑学を身につける代わりに、たいせつなことを忘れてしまったようだね。哀しい限りだよ」
「その『たいせつ』の中身も教えてほしいもんだがな。じゃあ万一あれが『ベン』だとして、もう一方も名前つけてやんなきゃかわいそうじゃん。獅子の名前はどうするよ?」
「それはもう、『ション』でいいんじゃねぇかな」
「お前のほうがふざけてねぇか?」
二人でまたひとしきり笑った。
日は西にゆっくりと傾きかけているが、庇のおかげでいい感じに日陰になっている。春らしい陽気だ。これほど穏やかな午後を過ごすのは何年ぶりだろうという気持ちにもなってくる。
平も団子を食べ終わり、お茶をひと口すすると、つぶやいた。
「それにしても、西崎さんのひと言は強烈だったな」
俺はちょっと驚いた。さっきの授業中のひと悶着については、こいつはもう何も言わないんじゃないかと勝手に思っていたからだ。俺が答えに窮していると、平はさらに言った。
「おまえ、中学で一緒のクラスになってなかったっけ? ずっとあんな感じだった?」
西崎とは、中3で同じクラスになった。もともと仕切りたがりの優等生という感じで、生徒会長もやっていた女だ。こっちとしてはあんまり仲良くなりたくはなかったが、向こうは少し違ったようだ。そして……
「んーー、まぁ、変わってないっちゃ変わってないかな」
「でも、『言い訳の魔術師』ってのはまた言い得て妙だよな。おれもそう呼ぶことにしよう。『魔術師のレン』ってな」
「やめてくれ、キモいから」
「でもよ、あの巨乳は捨てがたいんじゃねぇの?」
たしかに、西崎の唯一の利点と呼べるのは、その局所だった。でも、別にその事実から得られるはずの快楽だけを追い求めようとは俺には思えない。だまっていると、平はつづけて言った。
「なぁ、これは一応聞いときたいんだが……。おまえって、まだ『お茶してる』のか?」
?
なんだそりゃ。西崎をはじめとした女子と「お茶をした」ことなど今までにないし、そんな事実をこいつに話した覚えもない。おばあちゃんからもらったお茶は二人とももうとっくに飲み終わってしまった。あぁ、ってことは、そうか。
「あ、おかわりほしいってこと? おばあちゃんに頼むか」
その答えを聞いた平は、ヘンな顔をして一瞬だけ間を置いたあと、急激に爆笑し始めた。その笑いはしばらくは止まらず、15秒ほどはつづいただろうか。ひとしきり笑い終わると、平は言った。
「あぁ、やっぱいいなぁー、おまえは。いちばん萌えるのはおまえかもしんねぇ。『狛犬のベン』か『魔術師のレン』ってとこだな。たまらんわー」
その意図するところがまったくわからなかったので、俺はしばらくムスっとしていたが、そんな俺のことなど気にする素振りもなく、平は腕時計を見ると、あわてて言った。
「やべっ、おれ5時から店の手伝い頼まれてんだわ。行かねぇと」
まったく、マイペースにも程がある。まぁ、これは小学校の時から変わらぬこいつの特徴とも言えるが。
おばあちゃんに二人でお礼を言って、俺はそのまま帰ろうとしたが、「長寿を願って行こうぜ」と平に言われたので、一応参拝して帰ることにした。おばあちゃんは帰る時、「感心だこと」と言っていたが、お賽銭は俺が5円でこいつが1円だったことは内緒にしておこう。
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