驟雨
武蔵山水
驟雨
私は彼女と心臓の鼓動をさへ共にした。
ー堀辰雄ー
これは或る青年の物語である。在る青年、何処にでもいる普通の青年の物語。彼は四方山に囲まれた小さな田舎町で生まれ今日に至るまでの十七年間、過ごしている。この物語はそんな男が主人公である。
そろそろ朝陽が街を包む頃である。物語が始まるのだ。
目覚めた。覚醒する直前、ほんの一瞬だけ彼女の面影が意識の表面に浮かんできた。
外はまだわずかに暗い。空は白々と明るくなり始めた頃だ。
ゆっくりと起き上がりいつもの机の前に置かれた椅子に座る。そしてスマフォを確認すると時刻は四時を少し過ぎていた。今日も結局二時間ばかりしか眠る事ができなかった。スマフォのロックを解除すると画面には僕と彼女が写っている。僕は間抜け笑みを浮かべている。そして彼女は綺麗な顔で微笑んでいる。とても幸せそうに。この日は彼女が急にカメラを向けたものだから僕の顔がこんなに間抜けになってしまった。おもむろにフォルダーを開き彼女との思い出を眺めた。写真に映る彼女は全て幸せそうだ。
スマフォをそっと置くと不意にため息が漏れた。
階段を降りて洗面台の鏡に映った自分の姿をまじまじ見るとクマが酷いことに気づいた。指で目の周りの皮を伸ばすとさらにクマが強調される。頬もわずかに痩けている様にも思える。僕は冷たい水を顔面にかけた。
静かなリビングに入る。そして時計を確認する。僕が家を出ないといけない時間までもう少しある。本当は行きたくない。行ってしまったら、行ってしまったら全てが終わってしまう。認めたくない現実を否応なく認めさせられてしまう。でも、行かねば。これが最後なのだから。
朝食を食べようか。本当は食べたくないけれどもう二日も水だけしか体内に入れていない。このまま出かけるとなるとかなりの確率で道中倒れるだろう。僕は構わないが他の人に迷惑をかけてしまう。それは嫌だから何か少しだけでも食べて行こう。
トーストを一枚取り出してトースターに入れる。そして五分。シンクにもたれ掛かりながら真っ赤になったトースターの中を見つめる。
五分経った。皿を出してその上にトーストを載せコップに水を入れてそれらを食卓の上に置く。いただきます、と心の中で呟いて一口、熱いトーストをかじる。なぜだか悲しみが急にこみ上げてきた。その悲しみを振り払う様に残りのトーストを口に入れ水で流し込む。
もう、正真正銘の朝だ。白いカーテンの隙間から青い空がどこまでも澄み渡っているのを認めた。白いカーテンは彼女のスカートの様に時折、揺れている。
食器を下げまた座る。何もする事がない。何かしなくては悲しみに負けてしまう。僕は本を読み始めた。次第に小さな文字が判別できなくなっていった。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていた様だ。本がそのまま伏せてある。時計を見るとそろそろ出かけなくてはいけない時間になっている。僕は立ち上がり風呂場へと向かった。
素早く済ませ髪を乾かし自室へと戻る。
僕はうつろな顔で母親が綺麗にしてくれた服を着る。黒い靴下、黒いズボン、白いシャツに黒いジャケット。鏡の前に立って黒いネクタイを結ぶ。普段ネクタイなんぞ結ばないので中々思い通りにできない。
玄関で靴を履く前に鏡に映る己の姿を確認する。鏡の向こうの僕は涙を溜めていた。
靴を履き大きく深呼吸をして外へ出る。外へ出た瞬間太陽の光が鋭く僕の目を襲った。そういえば彼女とデートする時、必ず今日みたいな快晴だったな。僕は頬を拭い歩み出した。
もう、彼女には会えないらしい。
その日、街に激しい驟雨が訪れた。雨は街を濡らし過ぎ去った。今にも振り出しそうな雲を後に残して・・・
(了)
驟雨 武蔵山水 @Sansui_Musashi
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