第16話
人は悪辣な状況に陥れば救われたいと思う。
村が
場所、場合は様々だ。けれど、その悪の深度が深く、長期的であればあるほど、人というのは摩耗していく。
摩耗した心は拠り所を求める。
救世主に、神に、英雄に、あるいは勇者に。
聖女達は祈りを捧げる。祈りを向ける先は、酷く歪な存在にだ。
聖女達は救世主を信じない。奴らは世を救い、個を救わない。奴らの眼中に
聖女達は神を信じない。神は乗り越えられる試練しか与えないと言うが、こんなものは試練ではない。此処はただの地獄。それ以上でもそれ以外でもない。奴らは、気ままに人の生を
聖女達は英雄を信じない。英雄だって救世主と同じだ。奴らは強敵を望んでいる。強敵を倒せば倒すほど、奴らは英雄としての格を上げる。倒す事を考えてはいても、救う事を考えてはいない。民が救われるのは、おまけに過ぎない。結果的に、助かっただけなのだ。
聖女達は勇者を信じない。この世界の勇者は歪んでいる。利己的で、愚かで、他者から異様な程の愛を貰う。真っ当な存在ではない。もう一度言おう。この世界の勇者は歪んでいる。
彼女達は彼等に祈らない。彼等を必要としていない。
救世主も、神も、英雄も、勇者も、必要無い。
聖女達が必要としているのは、ただ一人。今起きている惨劇を見過ごさない存在。ただ、それだけの者。
「……」
あれから幾日が過ぎた頃、エルシャは言った。
「皆、祈りを捧げましょう。我らが
優しく、それこそ、聖女の如く笑みを浮かべながら、エルシャは心臓の前で両手を組み祈りを捧げる。
最初は祈っているのはエルシャを含めた数人だけだった。
けれど、エルシャとフェードは繋がっている。フェードの活躍を、エルシャは知る事が出来る。
その度にエルシャはうっとりとした笑みを浮かべて、フェードの活躍を皆に語る。嘘でも、妄想でも、想像でもない。事細かに、まるでその場に居たかのように、エルシャは語る。
段々と、エルシャの言葉を信じる者が増えてきた。
彼女達は拠り所が欲しかった。この地獄から救われたいと思っていた。
凌辱を受けていない聖女達も、戦場に出る恐怖からエルシャの言葉を信じ、フェードの再臨を祈り始めた。
彼女達は、ただ縋る相手が欲しかっただけなのだ。
彼女達の殆どが主都よりも文明レベルの劣る村出身の少女達だ。その思想も、首都の者達よりも幾分か原始的なところがある。
いや、それも関係無いだろう。この地獄に居れば、余程の者でもない限り、超越的な何かに縋りたくもなる。
ヘンリエッタ・F・モースキンは祈りながら考える。
あの男を信用しても良い。エルシャの目を治してくれた事には感謝している。エルシャの話を聞く限り、あの男なら自分達をこの地獄から救い出す事は容易いだろう。
だからこそ、信じたくなる。信じてしまう。
けれど、妄信的になってはいけないと、冷静な自分が警鐘を鳴らす。
妄信とは、狂信とは、恐ろしいものだ。信じている者が破綻してしまえば、脆く崩れ去る。
妄信も狂信も、論理的思考を必要としない。心を酔わせ、何も考えずに相手を心底から信用するだけ。それは難しい事だけれど、それ以外の選択肢の無いこの地獄では、それは容易い事だ。むしろ、論理的思考をする方が難しい。なにせ、考えれば考える程、この地獄に救いは無いのだから。
「……」
こんな事になって、皆が皆彼を信じるようになった現状を見て、ヘンリエッタはあの時の言葉を思い出す。
『そのプレゼントを見て、僕を信じる気になったら大きな声で僕を呼んで。そうすれば、僕は即座に此処に来よう』
もう皆信じている。彼の意に背かない者はいないだろう。
彼はこうなると分かっていたはずだ。だからこそ、あの時の言葉の真意を考えずにはいられない。
あの時の言葉は、自分にだけ向けられた言葉。彼が選んだのは自分だから。自分が彼を懐疑的に思っていたから、彼が投げかけた言葉。
それは分かっているのだけれど、その意図が分からないのだ。
「ヘンリー」
「――っ。な、なに?」
「雑念が混じってるわ。集中しなさい」
「……え、ええ……」
怒るでもなく、叱るでもなく、優しく諭すようにヘンリエッタに言うエルシャ。
純粋に彼に祈る気にはなれないけれど、確かに雑念と言えば雑念だ。
ヘンリエッタが考えなくてはいけない事は、彼の目的ではなく此処からの脱出の手段だ。
例え少ない可能性でも、それを可能にしなければいけない。生き延びるために、この地獄から逃げ出すために。
「……っ」
そこまで考えて、いつも思う。
逃げて、その先は? 自分は家の者に売られた。騙されて、売り飛ばされた。
自分が逃げたとなれば、家の者は自分を殺しに来るだろう。死ぬ事を望まれて自分はこの地獄に送り込まれたのだから。
他の自分と同じような境遇の少女達は次々に死んでいった。魔族に殺され、魔物に殺され、兵士達の慰みの果てに命を奪われ、尊厳を踏みにじられて自死を選んで……。
おおむね、皆死んでいった。貴き血を持った者で生きているのは、自分だけだ。
だから助けなくてはと、貴族としての使命を果たさねばと。
けれど、逃げた先でまた逃げなくてはいけないのであれば、この地獄から出る意味は?
外には危険が多い。魔物がうろつき、賊が
その日の食料にありつくのも一苦労だろう。仕事だって、逃げながらの生活では出来る事は限られる。
「…………」
他の聖女達だって同じだろう。此処を逃げ出した後、事態の発覚を恐れるレカール公爵の手の者が命を狙うはずだ。何せ、聖女の補充は容易だ。三級聖女など、十把一絡げに等しい。
この地獄を出て、その先は? その先に、安住の地はあるの?
ずっと思っていた事だ。目を向けないようにしていた事実だ。けれど、彼女は聡明だから、その事実から目を背けられない。どうにかしようと必死に考えてしまう。
けれど、無理だ。どう考えても、治癒魔法が使えるただの小娘には、どうする事も出来ない。
でも、生きなきゃ。助けなきゃ。それが貴族の使命なのだから。
おそらく、フェードはアタシの隙が見えていた。心の中の、誰にも頼れない無力な少女の気高くも
「来た……」
祈りの最中、エルシャの気色ばんだ声が響いた。
直後、ごとりと肉質的な何かが牢屋の石畳に落ちる音が聞こえてきた。
目を開け、それを見る。
上手く落とされたのだろうか、あるいはたまたまか。
それはちゃんと前を向いて置かれていた。
「ひっ……」
驚きか、恐怖か、誰かが小さな悲鳴を漏らす。
その
驚愕に見開かれた目は真っ直ぐにヘンリエッタを見つめる。
その顔を見て、どこかで、何かが外れる音がした。
「フェード!! アタシは貴方を信じるわ!! だから、だから――」
――アタシはどうなっても良いから、この子達を助けて。
心の底からヘンリエッタは叫んだ。
外れたのは、弱い自分を抑える理性の
フェードは約束を護った。幾つもの勇者を殺した。
悪魔に物を頼むには、何かの代償が必要だ。
それが自分の命なら、それでも構わない。あぁ、分かっている。自分の命を差し出すのは、最後の見栄だ。貴族としての、ほんの少し残った誇りだ。
けれど、それと同時に、もう何も考えたくないとも思っている自分が、もう終わりたいと思っている自分がいる。
悪魔に命を差し出して彼女達を助けるのであれば、あぁ、それはなんて気高い自己犠牲だろう。
尊厳も、誇りも護れる。そんな、卑しい自分の、自分のための言葉。
「いや。君の命は必要無い。必要なのは、君達の力だ」
空間が歪み、その者は姿を現わす。
どこにでも居そうな、平凡な顔の少年。けれど、どこか超越的な力を匂わせる少年。
「今日までよく耐えた。改めて自己紹介だ。僕の名前はハクア。巷じゃ
「あぁ……ハクア様! 我ら聖女一同、貴方様の再臨を心待ちにしておりました!」
エルシャが涙を流しながらフェード、改め、ハクアに
「フェードって、偽名だったのね……」
「ああ。あの時は、何処に誰が居るか分からなかった。うっかり聞かれて、情報が洩れても面倒だ」
それを聞いて、改めて名乗った意味をヘンリエッタは理解する。
「さて、生き残ってもらった君達には悪いけれど、僕ぁ君達をただ助けに来たわけじゃない」
「――っ!! さっきも言ったわ!! 何か必要なら、アタシの命を――」
「必要無い。二度もくだらない事を言うな」
ヘンリエッタの言葉を、ハクアはくだらないと切って捨てる。
「なっ……!!」
「ヘンリー、言葉を控えなさい。ハクア様の前ですよ」
エルシャが叱責するように言う。今まで聞いた事も無い、冷たい声音。
「良い。僕は君達の上に立とうなんて思ってない。今まで通りで構わない」
「いえ。貴方様は貴き御方。礼儀を欠くような言動などできません」
「なら好きにすると良い。けれど、それを他者には強要するな。良いな?」
「はい」
エルシャの言葉に一瞬眉を
「さて。じゃあ本題だ。僕は君達をただ助けに来た訳じゃない。それじゃあ、意味が無いからね」
「私達に出来る事なら、どんなことでも」
「その意気や良し。と、言いたいところだけどね、これは強要はしない。やりたい者だけ、やれば良い」
ぱちん。ハクアは一つ指を弾いて鳴らす。
直後、ハクアの周りに幾つもの武器が落ちる。
「君達をこんな目にあわせたレカール公爵は僕が殺してきた。その時、彼の屋敷にあった武器を奪ってきた」
「なるほど、これで身を護れという事ですね?」
「いや違う」
エルシャの言葉を即座に否定し、ハクアは聖女達を見る。
「君達は、此処の兵士達に尊厳を奪われてきた。何度も、何度も、何度も何度も――それこそ、数えるのが億劫になるくらい。考えるのが苦痛になるくらい。そうだろう?」
ハクアの言葉に聖女達は俯く。
その通りだ。考えたくも無いくらい、辱めを受けてきた。言われなくても、自分達がそれを一番理解している。
「君達はただいたずらに奪われ続けてきた。自分の暮らしも、尊厳も、仲間も、平穏も、全部奪われた。此処に居る、人間の皮を被った醜い化物共に」
そんな奴らを、君達は許せるかい?
静かな、けれど、よく通る声でハクアは言った。
数秒の静寂の
「許せない……」
その言葉が聖女達に伝播する。
「許せない!!」
「地獄に落ちればいい!!」
「魔族に惨たらしく殺されればいいのよ!!」
「私達と同じ目にあえばいい!!」
許せない、許せない許せない許せない許せない―――――
聖女達の怨嗟の声が地下牢に響き渡る。
そして、誰かが言った。
「出来る事なら、この手で殺してやりたいわ!!」
その瞬間、ハクアはぱんっと手を打ち付ける。
それだけで、聖女達は不気味な程一斉に静かになる。
「殺してやりたい。うん、良いじゃないか」
にこり、優し気な笑みを浮かべるハクア。
「殺してやろう。此処に居る全員。魔族なんかに渡す必要は無い。君達が、殺してやれば良いんだよ」
ハクアの言葉が浸透する。
聖女達の目は最早ハクアには向いておらず、ハクアの足元に転がる武器に向けられる。
「そのために、僕はこれを持ってきた。同じ目にあわせてやりたい? 良いよ、同じ目にあわせてやれば良い。君達にはその資格が在る。いや、君達だけだ。彼等を惨たらしく殺して良いのは」
剣を一本拾う。
その剣を、ハクアはヘンリエッタに差し出す。
「君達に必要だったのは、切っ掛けと武器、君達が逃げる先、そして、
そう言って、ハクアは悪辣に笑う。
ああ、そうか。やはり、全部この少年の掌の上だったのだ。
ヘンリエッタの策に足りなかったものを、ハクアは全て用意してくれた。
彼女達が逃げる先は確認していないけれど、恐らく本当に用意してあるだろう。
……いや、そんなことはどうでも良い。
「……ええ、そうね」
ヘンリエッタは一度瞑目してから、ハクアを見る。
もう、考える必要は無い。
武器が有る。ハクアが居る。否定しようのない、殺意が在る。
「お膳立て、感謝致します。後は、私達の手で清算します」
ヘンリエッタ・F・モースキンは剣を握る。
これは反撃ではない。確かな殺意を胸に、惨殺の限りを尽くそう。
「ああ、君達の手で、終わらせるんだ」
悪魔は笑う。けれど、どうでも良い。
悪魔だって、助けてくれるなら、手を差し伸べてくれるなら……。
奴らを殺せるなら、誰の手だって取って踊ってみせる。
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