The Summer without, River imp.
樹真一
The Summer without,River imp.
「早瀬って、カッパ?」
じっとりとした雨の匂いに満たされた昇降口で、よく冷えた炭酸水みたいな声がオレを呼び止めた。
スニーカーに片足を突っ込んでいたオレは、聞き覚えのある声に振り返る。
うちの中学校の昇降口は、伊達かあるいは酔狂かは分からないけれど、ローマのコロッセオみたいな円形をしている。その中心に、まるで向かうところ敵なしとばかりに、女子生徒が立っている。
青柳茜。
通称、委員長。実際、委員長。
2年B組のクラス委員長ってだけなのに、まるで学校の規律そのものみたいに完璧な制服の着こなし。授業中だけ赤い縁のメガネをかけてて、数学の時間にオレと目が合ったら、恥ずかしそうにメガネを外す姿が印象に残っていた。
そんな法と秩序の番人みたいな委員長が、コロッセオの中心で挑戦者を待っている。きっと、呼び止められたオレが、その相手なんだろう。どうやって戦うのかな、肩に垂らしたツインの三つ編みを武器にするのかな。
んなわけない。
オレは靴から足を抜いて、委員長に向き直る。手の中で、自転車の鍵につけたキーホルダー、そのひしゃげた鈴が、ちろ、とだけ鳴った。
「……カッパじゃ、ない」
オレは、冷や汗を流しながら答える。答えてしまう。外で降り続ける雨と同じ温度の冷や汗だ。手の中の自転車の鍵を、そのギザギザのところを、指先でなぞる。委員長の口調みたいな鍵だった。
オレが固まったのを見て、委員長は小さく咳払いし、
「――チャリ通でしょ? だから、ほら、雨降ってるし、カッパかなって」
取り繕うように言った。
「は? あ、え、なに――」オレの左手には、傘。なるほど。「今日は、親が迎えに、」
「でもそれ、」オレの右手を示す委員長。「自転車の鍵、でしょ?」
「あー、そのー」
「いいよ。歩いて帰ろ」
あれ?とオレは思う。てっきり、傘差し運転を注意されるんだとばかり思っていた。けれど委員長は下駄箱から取り出した靴に、さっさと履き替えている。
なんだこの展開。急すぎる。
委員長は、ごくごく普通にオレの傘に入ってきて、図らずも相合い傘。オレは委員長の制服を濡らさないように、傘をそっちに傾けた。片手でよろよろ押している自転車と、オレの左半身は雨を浴びっぱなしだ。
「……傘、忘れたのか?」
沈黙が重すぎて、当たり前なことを聞く。委員長は、けれど答えず、自分のつま先を点検するみたいに地面を見ながら歩いている。
雨は、ぱらぱらと降っている。
雨が、さらさらと降っている。
坂になっている細い道を上るとそこは堤防になっていて、そこにも雨は降り注ぐ。河原の芝生に、雨が吸い込まれていく。軽い水音が、草を濡らして鳴らしていく。
その音たちを聞きながら、同時に委員長の呼吸すら聞こえてくるほどの沈黙をオレは聞いている。
すると、委員長がたし、と立ち止まった。なんだよ急に、と言おうとしたけど、そうはさせないくらい、委員長はじっと川を見ていた。
いつもは、綺麗な水を流している川だけれど、ここ数日の雨で水位は増して、茶色く濁った濁流になっている。五月雨を 集めてをかし 筑後川。あれ、違ったっけ?
「早瀬」
五月雨って、なんかごまだれみたいだな。
「早瀬」
でも実際雨だから、味しないどころか薄まるな。
「早瀬」
「――え、あ、なに?」
「変なこと考えてたでしょ?」
「、」五月雨とごまだれ。「いや、そんなことは、」
「……いいけど。早瀬って、好きな――」「えっ?」「――川って、ある?」
「……、考えたこともねーな」
ちょっと拗ねた口調になってしまった。委員長は小さく、やっぱりね、と言った。それから、
「私は、この川が――」
委員長の視線の先には、市を縦断する一級河川。雨を集めて、不機嫌そうに茶色く濁った川だ。オレは、なぜか胸と背中の間がむずむずするのを感じていた。
「……じゃあ、もうすぐそこだから」
傘ありがとう、と言って、委員長は小走りで橋を渡っていく。送っていこうとしたけれど、オレはどうしてかうまく動けない。もう必要ないのに、体半分を雨に晒しながら、ぱしゃぱしゃと走り去った委員長を見送ってしまう。
雨が、強くなっていた。額から、つつつと雨が流れ落ちる。どうどうと、濁流の鳴き声が聞こえてくる。
「オレは――カッパじゃねえよ」
それだけ、呟くのがやっとだった。
●
翌日も、雨だった。
大気に擬態しているような、音もなく、ゆっくりと世界を濡らしていく雨。けれど、その霞みたいな雨は間違いなくそこにあって、降りしきり、地面を伝い、土を洗い、川へ注ぐ。川はいよいよ濁流となっていて、この様子を見ていると、川に竜の文字が当てはまるのも分かるような気がした。たしか、3年前の夏の豪雨被害(もっとも、それから毎年のことのようになっているけれど)は、やはり竜が暴れ回っていたのだろうか。なにかに、怒りながら。おそらく、人間に。
橋の上から、どうどうと喉を鳴らす川を見下ろしている内、委員長の言葉を思い出す。
「私は、この川が――□□」
――、――?
委員長は、なんと言ったっけ?
昨日のことなのに、思い出せない。いや、本当に昨日のことだったろうか? 雨が降っていたから、たぶん800メートルくらい右側のことだった気がする。
教室には、誰の姿もなかった。教室の隅で、小さなロウソクがちろちろとした火を灯しているくらいで、変わった様子はない。変わったこともあるものだ。
自転車の鍵を取り出して、足首まで水に浸かっていることに気が付く。靴紐がゆらゆらと揺れて、緑色に光っている。2年の教室は2階だから、3年の教室はもう沈んだんだろう。ざまあみろ。
それから程なく、これは大変なことなんじゃないかと思う。やっと。なにしろ、小高い丘の上みたいなところに建っているうちの中学校が、2階まで沈んでいるのだ。きっと、市は完全に水没しているんだろう。
水は澄んでいる。清流みたいな透き通った水で、魚が泳いでいるのが分かる。手で掬って見たけど、もう屈まなくても手で水を掬えるくらいに、水が増えていた。
「早瀬」
降ってくるように、委員長の声が聞こえる。驚いて見上げてみると、水の上――水面の上に、机と椅子がきちんと立っていて、そこに行儀よく着席している――委員長。
「早瀬って、カッパ?」
オレは、首を振る。どっちのカッパだろうと思いながら。あごが、水をぱちゃぱちゃさせる。それは、オレの涙。
「ごめんな」
オレが謝ると、委員長は「はぁ……」と白いため息を吐いた。雪が降って、止む。それから委員長は、椅子の上に立ち上がり、今度は机の上にぺたりと座り直した。行儀が悪いな。
「つかまって。底にずっといると、溺れるよ?」
委員長に言われるがままに、オレは水揚げされる。椅子に座ると、ずぶ濡れで重くなった制服から、水が際限なく滴る。指先で拾って舐めて見ると、苦さと煙っぽさとバニラの香りがする。変な味だ。
「なあ、委員長。これって、夢か?」
どうにも、変なことばっかり起きている。だけど、その〈変なこと〉が〈変〉じゃないように錯覚してならない。そう感じているオレ自身が、変なんだろうけれど。
「ううん、現実」
委員長は、3(X-1)=2(X+2)であるなら、X=5である、と言うように、きっぱりと答える。
「っていうか、夢は、現実に属するものなの。〈夢を見ている私〉がいるのは〈現実〉だもの。夢は、〈水面下の現実〉なのよ」
よく分からないまま、オレは頬をつねる。痛い、気がする。ただそれは、小説の中に「痛い」と書かれていたら、なるほど痛いんだろうな、と自分の痛みの経験を呼び起こしてしまうのに似ていて、頬をつねると痛い、という経験の記憶なのかも知れない。
「早瀬は、水の夢ってなんの象徴か知ってる?」
委員長が問うので、オレは正直に答える。
「知らない」
「じゃあ、いい」
なんなのそれ。
オレは水を吸って安全靴みたいに重くなったスニーカーで、水面に触れる。当然ちゃぷりと沈む。水はすでに、オレの背丈よりも深く重く溜まっていて、突然怖くなったオレは、椅子の背もたれにしがみついた。意味ないのに。椅子が沈めば一緒に沈むのに。
なのに、水面は断固としてそこにあり、〈水面下〉への椅子の水没を拒み続けている。ぐねぐねと教室を構成する線が屈折するのを見ているうち、オレはその〈水面下〉が、とても重要なものなのだと唐突に分かった。
そして、オレも、それに類する重要なものなのだ。この場では。
「――で、委員長。オレは、どうすればいい?」
「役割はないよ」
「え、そうなの……?」なんでよ。
「ただ、いてくれればいい」
オレは釈然としない気持ちのまま、委員長と一緒に水面を漂う。やがて、その水面がどんどん水かさを増し、〈水面下〉がその重みを増していく。
「早瀬、こっち」
委員長がオレを机の上に引っ張りあげる。オレがさっきまで座っていた椅子は、役目を終えた小舟のように、教室の底へ沈んでいき、深い青に染まる。
委員長は、扇子を取り出した。え、おっさん? その扇子で、あらぬ方向を扇ぎ始める。「附子」みたいに。扇げ扇げ、扇ぐぞ扇ぐぞ。
すると、その扇子が思ったよりも風を巻き起こし、風が波紋を生む。波紋は、机の脚も水面に刻んでいる。
「船みたいだ」
化学実験のキットで作れそうな、風力船。机が教室の外へ向かうのを阻むように、水面はさっきよりはっきり、ぐんぐんと水位を増していく。
机は、窓をくぐり抜ける。机の端がアルミのサッシに触れて、甲高い金属音と火花を散らす。そんなスピードじゃないはずなのに。それでも、オレたちは(もしかすると)命からがら、教室からの脱出に成功した。校舎はもう半分以上水に沈んでいて、その反対側――市の中心の方は、ほとんど海みたいになっている。
絶海、なんて言葉に、オレは「うわーなんもねーなー、困ったなー」くらいの感情しか動かしたことはなかったが、ここにきて急に、猛烈な
孤独
を、感じた。
オレは、委員長の肩を抱いた。しがみついた、と言っていいかも知れない。とにかく怖くて、一人じゃないと実感したくて、濡れたブラウス越しに、委員長の体温を感じたかった。肩の柔らかい感触。もう少し、力を込めた。オレが沈まないために、委員長を沈めないために。
重苦しく曇った空から、雨がずっと降り続けている。雨は水面に、〈水面下〉を蓄え続ける。現実と〈水面下〉の比率が、だんだん変わっていく。
ずっと遠くまでの水平線の所々に、学校より背の高いものがかろうじて顔を覗かせて、あっぷあっぷしている。もっとも田舎なので、うちの中学校より背の高いものは、少ない。
雨がぷつぷつと、水面に無限の波紋を生み出している。空は絶望色の絵の具で塗り潰したように分厚い暗さなのに、まるで蛍光灯が灯ってるみたいに、光がその暗さを映し出していて、不気味だった。
そして、その絶望色の雲が落とした雨、それが集まった水は、嘘みたいに清々しく、青く、透明だ。どこまでも潜っていけるように。どこまでも飛んでいけるように。
「そろそろ、行こうか」
委員長が言う。どこへ? 委員長は、机の上に上履きのままで立ち上がる。そこだけ、陽の光がスポットライトのように差し込んだ気がした。もちろん、錯覚だったのだけど。
委員長は、赤い傘を開く。いや、赤と言うよりオレンジ、オレンジと言うより――そう、委員長の名前と同じ色。そういえば、扇子はどこに行った?
「早瀬も、ほら、早く」
オレは引っ張られるがままに立ち上がり、そして、委員長はメリー・ポピンズのように傘を持って飛び降りる。いや、メリー・ポピンズがじっさいに空を飛んだかどうかは、オレは知らないけれど。
とぷ、と水がオレを受け入れる。〈水面下〉へと、オレたちは飛び込む。溺れる、と気が付いて、オレは慌てて息を止めた。うっすらと目を開けると、そこは間違いなく水の中なのに、でも、視界は歪まない。委員長が、すたりとコンクリートの屋上に降り立つ――そう、学校はもう、完全に水没していた。
一方で、オレは片膝をついて、着地(着底?)する。水がクッションになっていたからか、衝撃や痛みはなかった。
委員長が、気合いを入れるように、傘をぱりっと閉じる。もう雨には打たれないからだ。だって、オレたちは深い深い青い青い水の中にいる。
委員長は、それでも雨粒たちを追い払うように、首を鋭く左右に振った。その激しい動きで、三つ編みがほどけて癖のついた髪が、ふぅわりと広がる。グッバイ、僕の好きな君の三つ編み。思わず替え歌。
「行こう」
言って、委員長が急に駆け出した。地上みたいに、普通の駆け足で。
でも、水の中だから、水がスカートをふわりと持ち上げる。委員長の、意外なことに大人っぽいつやつやした素材の、スカイブルーのパンツが見える。オレは思わず、目をそらすフリをする。
遅れて、ふわっと甘い香りがした。それは、委員長の髪の香り。水中なのに、匂いが分かるのか?
「――ああ、そうか」
オレは呟く。言葉は水中を、4倍の速度で伝播する。それと同時に、口から吐き出された気泡の中に、文字が入ってくるくる回りながら水面へ向かっていく。教科書みたいな、真面目な形の文字。それが、ガチャガチャのカプセルくらいの大きさの泡の中に、5~6文字絡まり合いながら、水面を目指す。
頭上の水面を見上げて、オレは言う。
「そうか、ここは、〈水面下〉なんだ」
その言葉に、やたらに説得力があった。少なくとも、オレにとっては。
オレは、委員長の後を追――いかけたかったけど、水が壁となって走るオレを遮る。おかしい。手足は普通に、水の抵抗もなく動かせるのに、なのに、いざ走り出そうとすると、プールの中で歩いているような、リハビリみたいな動きしかできない。なんで? 委員長は普通に走って、もう屋上のドアに辿り付いてる。ドアを開けると、ばふっと最後に残っていたであろう巨大な泡が立ち上り、そのあおりを受けて、委員長のスカートが膨らみ、空色が覗く。
委員長の髪の香りが離れていく。せめて、その香りだけでも吸っていたい、嗅いでいたい。そうして、水中なのに、思い切り息を吸い込んだ。水が、肺の中に流れ込んでくる音が聞こえる。体の中の空気が、泡となって口から逃げ出していく。
でも、不思議なことに息苦しくはなかった。というか、空気を吸っているよりも楽なくらいだ。魚になった気分。とはいえ、魚のようには泳げないのだけど。
なんとか、もったもたと歩いて、ようやく校舎の中に入る。さっき窓から脱出したのに、もう一度戻るのはなんでだろう。階段を降りて3階の廊下を歩いていると、窓の外には動物園から逃げ出した虎がいて、巨大なピラルクーを捕まえていた。その周りで逃げまどう、ネオンテトラ/エンゼルフィッシュ/カラーラージグラス/ブルーギル/ブルーグラスリボングッピー……オレと虎と魚たち。魚になれない、オレ。
委員長の髪の香りが、だんだん薄まっていく。ヤバい。急ごう急ごうとして、少しでも水の抵抗を受け流そうと、両手で水を掴んで後ろへ送り、体を床に対してなるだけ平行にし……これ、もうほぼ泳いでるね。泳いでみたら、こっちの方が速かった。
委員長の髪の香りを追いかけて、階段の上を滑るように泳いでいく。廊下を泳ぎ、3年C組の教室に辿り付いた。
「委員長」
は、床のタイルに膝を突いて、そこに横たわる何かを見下ろしている。オレは泳ぎ寄り、歩み寄る。それは――
いきなり、TVが点いた。なんだよ、3年の教室にはTVあんのかよ。ズルじゃん。PS5まである。ズル。
けれど、TVはニュースを流している。小学2年生の女の子が川に流され/だ行方は分かっていませ/い規模な水害から1週間が経過し/者40名行方不明者1名/捜索は打ち切られ/オレは、委員長を見る。委員長は、「なにか」を見ている。
それは、「なにか」ではない、「誰か」だ。
肋の浮いていそうな、やせた女の子。女の子、と言うより、まだまだ子供に見えた。少し痩せてるけど、その細長い手足が元気に振り回されていることが、容易に想像できる姿。
委員長は、その子――きっと、たぶん、亡骸だ――を、見ている。
委員長は、泣いてはいない。少なくとも、涙は見えない。窓の外を、アロワナが悠然と泳いでいき、その平らな体で水を押しのけ、オレと委員長を揺らす。床に横たわる女の子は、けれど揺れなかった。
「……なんだか、」
オレは、泡を吐く。言葉にしなかった言葉が、文字になって上っていく。(委員長に)、(似てる)(気がする)○Oo。
TVが口を開く。この豪雨災害を○○年九州豪雨と命名すると発表さ/これは、数年前のニュースだ。この辺でも床上浸水が起こって、学校に――そう、今まさに水没している、この学校に、たくさんの人が避難した。
オレは、その子を抱き上げる。骨張って、堅い。
「早瀬」
委員長が言う。
「その子を、早く、川岸に――」
でも、川岸ってどこだ? だけど、委員長はそれ以上は語らない。潤んだ瞳が、オレを見上げてくる。そしてオレは、委員長がそうして欲しいと願うがままに、力強く頷いた。
窓の枠を蹴り、水中に飛び出す。遙か頭上に揺らめく、薄暗い水面を目指す。スニーカーで水を蹴り、時々、泳いでいるヨーロッパオオナマズやウグイの群を足場にする。
だが、水面が近付くに連れて、水は自分自身が水であることを思い出していく。手足に絡みつき、口と鼻を覆い、耳に這入り、オレは窒息しそうになる。水面をめがけて、〈水面下〉と格闘する。苦しい。さっき吸い込んだ水が、今更になってオレを溺れさせようとしてくる、そして…………、
…………、
…………、
…………やっと、吸い込んだ空気の、なんと清浄なことか。
「…………夢?」
そこは、教室の机。の上。教科書の上。授業中。
汗だくで、まるで水の中にいたのかも知れないと思うほどだった。制服が、べとべとと重い。
委員長!と思って顔を上げると、ペンケースが落ちる。けたたましい音がして、それから、委員長が何事かとこちらを見た。おでこが赤い。きっと、委員長も汗だくのはずだ。教室の室温は40度はあるんじゃないかと思えるくらいに暑く苦しい。水面下にいるみたいな息苦しさ。
熱っぽく、俺と委員長は目を合わせ続けた。
だけど、居眠りで怒られたのは、オレだけだった。理不尽。
昇降口にまで降り込んできそうな雨と、靴と、それから、委員長。
「早瀬」スカイブルーを思い出す。「今日は、歩き?」
問われて、オレは通学鞄の中にカッパが潜んでいるけれど、それをあえて言う必要もない。
「ああ、うん。でも、傘忘れてきちゃって」
「朝から雨降ってたのに、どうやって傘を忘れるの?」
呆れたように言う委員長だが、オレにはなぜか、委員長が本心からそう思っていないような気がしてならない。むしろ、傘に限らず雨具を持ってちゃいけないんだと、そう思わせるような口振り。
委員長は傘を広げ、そこに入れてくれる。こうすれば、オレは委員長の望むとおりに動かなければならなくなる。文字通り、傘下に入る。
無言の隙間を埋めるように、雨粒がぱつぱつと傘を叩いて落ちていく。その歩調は、前回よりも速い。オレはだんだん、委員長の足取りについていくのがやっとになってしまいつつあった。
そして辿り付いたのは、(やっぱりな……)、川だ。
雨は降り続け、川はこの間よりもずっと激しい、濁流になっている。
「私、」委員長が言う。「この川、」
その川を見つめる委員長は、まるで霞のようにうっすらとぼやけて見えた。川は茶色く濁って轟音を立てて、ここにあるのだということを大声で訴え続けるような存在感なのに比べて、委員長の透けるような、不在感。
「…………オレ、寝てる時、変な夢見た」
「……は? なに?」
呼び止めるような声が、委員長に届いたようだった。オレは続ける。
「なんか、学校が沈んでんの。で、虎が魚……ピラルクー食べてんだ」
「…………」
委員長が、吊り目でオレのことをじっと見る。もはや、睨む勢いだ。
「で、教室に……そう、3年の教室に女の子がいて、水面に――」
「早瀬」
「――え?」
「やっぱり、早瀬だったんだ」
「…………」
「手伝って」
夢の内容を思い出す。その夢よりも、訳の分からないことが始まりそうな気がしてならない。
川縁に降りようとしたけれど、降りていく細い道にはロープが張られている。黄色と黒のそれには、ラミネートの札がくくられているけれど、雨に打たれてついでに強くなってきた風に吹かれて、べろんべろんでなに言ってるのか分かったもんじゃない。
だけど、委員長はそのロープを平気な顔をしてくぐる。背中しか見えないから、平気な顔をしているかどうかは分からない。ひょっとすると、思い詰めたような顔をしているかも知れなかった。
委員長の靴が、強い雨と強い風に揺れる芝生を踏む。ぺしゃぺしゃと、水が跳ねる。オレもそれを追いかけて、そして、芝生で隠れているだけで、河川敷はもう浸水し始めているのを感じる。茶色い濁流が竜となって、地面の下で暴れる時を待っているような、そんな気がしてくる。
「やめろよ」
オレは、委員長に呼びかける。薄々感づいてはいたんだ。だけど、ここへ実際に来るまで、委員長を押し留める方法がなにも思い浮かばなかった。委員長は、止まらない。雨が、委員長の眼鏡を濡らす。三つ編みを濡れそぼらせる。スマホが、けたたましく鳴った。危険水位を超えたという、災害通知だろう。知ってるよ、見たら分かる。
「やめろって、本当に」
ばちゃばちゃと、不快な足音を立てて川へ向かう。委員長。委員長は、オレの鞄に入っていたカッパ(お見通しだったわけだ)と、ペットボトル、それから、自分で持ってきていた短いロープを持って、川に向かってべしゃべしゃと歩いていく。なにをするつもりで、なにに使うつもりなのかも分からない道具たちを持って。
「危ないから、やめろって!」
その貧弱な道具で、あの濁流に挑むつもりなのか。しかも、挑むだけじゃない。濁流は挑戦すべき壁ではなく、乗り越えるべき試練なのだ。委員長にとって。
だから、オレは、決定的な言葉を言う。意を決して。
「委員長、やめろ! ――そこに妹はいねえよ!!」
「いるの! ここに、ちひろが!!」
雷鳴が、委員長の意志の強さを示す。オレは、それに対抗できるものなんて持っていない。この体だけだ。
オレは、委員長にしがみついた。あの〈水面下〉でやったように、委員長を、行かせないために。
委員長は、濁流から逃れるようにもがく。ともすれば、濁流そのものみたいな力強さに、オレは力任せでも負けるじゃないかと思ってしまうほどだった。
でも、オレはそうしない。力でねじ伏せても、委員長の心は止まらないし、心が止まらなければ、体はまた動く。
だから、言う。もう一度、意を決して。
「分かったよ! オレが、探してくる!」
ひたり、と雨の音が消えてしまうくらい、委員長が動きを止めた。オレは、その耳に言い聞かせるように、もう一度。
「オレが、妹を連れてくる! 川岸まで!」
委員長が、〈水面下〉で言った言葉。オレの中に絡みついていた、その文字たち。それを、オレは今から解きほぐしてくるのだ。ここで。この川で。
委員長は、オレのことを見上げる。その目には、何の感情もない。驚きすぎて、全部の感情が抜け落ちてしまったのだろうか。なんでもいい。
委員長の手から、カッパとペットボトルとロープをもぎ取る。これを何に使うんだろうと、思いながら。
くるりと、川へ向き直った。足が、鉛の棒にでもなった気がした。
「だめ、早瀬!」
委員長が言う。足に関節が戻ってきた。
「早瀬! あぶない!」
歩き方を思い出し、オレは川に向かって濁流に向かって歩き出す。靴がどうしようもなく濡れる。
「早瀬! だめ!!」
委員長が、しがみついてきた。オレを沈めないために。右足は、濁流に一歩、踏み込んでいた。
「……じゃあ、やめてくれよ。委員長も」
「やめる! やめるから!」
お願い、とかすれた声がオレの腕を引っ張る。脚が濁流から引き抜かれて、じょぼじょぼと水を垂らす。そのまま、水揚げするように委員長に引っ張られて、川から数歩、後ずさる。正直なところ、怖くてたまらなかった。オレは、オレを捕まえて泣きわめく委員長に、言う。
「ごめんな、カッパじゃなくて」
●
雨が上がり、梅雨が明けて、夏がくる。カッパのいない夏だ。
落ち着きを取り戻した委員長は、同じように落ち着きを取り戻した川に、花束を流す。その背中を、オレは見守ることしかできない。
河川敷の芝が途切れ、川と河原の境界に膝を突いて、委員長は祈る。その祈り?語りかけ?懺悔?を、オレは黙って見ている。
妹のことを、委員長は教えてくれなかった。だけど、あの学校で見た〈水面下の現実〉が、必要なことを教えてくれた。委員長の行動も、それを裏付けている。
だからって、オレに何ができるわけじゃない。委員長にとってもオレにとっても、事件は起こっているのではなく、起こってしまった、過去なのだ。
過去は変えられない。
変えていけるのは、その事件をどう受け取るかという、オレたちの心の中だけだ。オレにできることはこれくらいだろう。あと、近くにいること。
「早瀬、ありがとう」
委員長が、目の前にいた。オレはハッとしながら、通学鞄を渡した。もう一度ありがと、と言いながら委員長は鞄を受け取り、さっさと歩き出す。河川敷の芝生の上を、制服で、軽やかに。
「ほら、行くよ?」
途中で振り返ってオレを呼ぶ委員長は、オレの存在を自分の影かなにかだと思っている様でもある。どこにだって着いてくる、いつだって側にいる――そんな風に。
オレは――どうしてだろう、水の中へ進もうとしたあの時から、ずっと委員長の望み通りに動いているような気がしてならない。いや、もっと前、あの〈水面下〉で委員長の〈水面下の現実〉の登場人物だった時から、委員長が望む〈早瀬〉であり続けている気がしてならないのだ。
なんて思うけれど、実はそうではなくて、単に空の青さがその理由なのかも知れない。
そうじゃなくて、もしかするともっと単純に……いや、いいや。
オレは委員長に言われるがまま、自転車のスタンドを跳ね上げる。オレが自転車のサドルに跨がると、委員長は当たり前のようにオレの後ろに乗る。ギッギギと、自転車のチェーンが俺たちをからかうが、気にしない。空の青さと日差しの強さが、俺たちの今年の夏だ。カッパのいない、夏だ。
〈了〉
The Summer without, River imp. 樹真一 @notizbuch
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