第14話 これって、恋!?

 午後七時、控えめに呼び鈴が鳴る。浴衣に着替えた幸田が扉を開けた。夕飯は食事会場に行く予定だったのを幸田が無理を聞いてもらって部屋食にした。お膳が並び、お櫃が置かれて仲居が簡単に説明をした。


「何時になっても構いませんから、お声掛けくださいませ」

「本当にありがとうございます」


 幸田は丁寧にお礼を言って仲居を見送った。さて、我が家の姫に声をかけなければ。幸田は奥の寝室の戸を開けた。そこにはベッドの中で子供のようにすやすやと眠る彩花がいる。淡い行燈の光をやや明るめに戻して幸田は隣に座った。


「彩花さん、夕飯だよ。ほら、いい匂いがするだろ? 和食御膳だよ」

「うーん……ん?」


 パチンと目を開けた彩花は一点を見つめたまま、まだ完全には覚醒していないようだ。幸田は思い切って掛け布団を捲った。同じく浴衣を着ている彩花だけど、裾や合わせが乱れてしまっている。


「彩花さん、ちょっと整えるけど。いい?」

「学さん……お願い」


 寝相が悪い、わけじゃない。ちょっと大人の事情でそうなってしまっているだけだったりする。そう、こうなった原因は幸田にあり。


「夕飯、部屋に持ってきてもらったんだ。起きれるかな。うまそうだよ」

「食べるー。お腹ペコペコだもん。あ、でも手、引っ張って?」

「ごめん、責任は俺にあるからな。よし、お姫様、お連れします」

「えっ、うわぁ。学さんお姫様抱っこできるの! すごいっ」

「忘れたのかい? 俺は自衛官だよ。荷物担いで山登ったり、野原を走ったりしてるんだ。あ、彩花さんが荷物って意味じゃないよ」


 幸田はご機嫌だった。でも、彩花も同じようにご機嫌だった。だって、見たことのない幸田をたくさん見てしまったから。真面目で誠実で、温厚で気が利いて……そんな幸田がガルルと低い音で喉を鳴らしながら、彩花をパクリと食べてしまったのだから。


「荷物でもいいよ。落とさずに運んでください。カメラも忘れないでね」

「カメラもかい? りょーかい。さあ、下ろすよ」

「ありがとう」


 彩花の目の前に鮮やかに盛り付けられたお刺身やお寿司、和牛のしゃぶしゃぶセットがあった。食前酒に杏のお酒が可愛らしいグラスにつがれてある。彩花の口から「わあー」と歓喜の声がこぼれた。


「じゃあ食べようか。遅くなってごめんな」

「ううん。いい感じにお腹ペコペコになってたから大丈夫! いただきまーす」


 お椀の蓋を開けると桜の形をしたお麩と三つ葉が浮かんでいる。すっと口に入れると程よい塩加減でほっこりとなる。


「美味しい! 優しい!」

「彩花さん食べ物は撮らないんだね」

「あっ! もぅ、食べちゃったぁ。本当は撮りたいの。でも、いただきますしたらすぐお箸持つでしょ? で、すぐ食べちゃうの」

「ははっ、彩花さんらしいよ」


 彩花は思った。幸田の自分の呼び方が彩花さんに戻ってると。お布団の中では彩花と男らしい声で何度も呼んでくれたのに。ちょっとだけ不満を感じてしまう。それが自然と顔と態度に出てしまう。


「私らしいってなんですか? 勝手に決めないでください」

「彩花さん? 俺、なにか気を損ねることでも言ったのか」

「言ってません!」

「彩花さん」


 幸田は箸を置いて彩花の隣に腰を下ろして彼女の顔を覗き込む。でも彩花は目を合わそうとせずもくもくと夕ご飯を食べている。さすがに幸田も参った。だって、自分には心当たりがないのだから。つい今しがたまでにこにこご機嫌だったじゃないかと。


「学さん早く食べないと冷えて美味しさが半減しますよ?」

「このまま食べても美味しさは半減だと思う。俺は女の子の気持ちに疎いから、言ってくれないと分からない」


 幸田も少し拗ねたように彩花に言った。


「さんに、戻ってるから……」


 小さな消え入りそうな声で彩花はそう言った。幸田は頭を傾げる「さんに、戻ってる?」と。彩花はちらりと幸田の顔を見てすぐにプイとそらした。よく見れば耳まで赤くなっている。


(え、なんでだよ。怒ってたんじゃないのか? まさか照れてるのか……でも、なんで!)


「本当に申し訳ないんだけど、俺、まだよく分かってない。でも俺の行動か、言ったことが原因なんだろうとは思っている。そこのところ、どうかな」


 幸田がそう言ってスリっともう一歩、彩花に近づくと膝がコツンとくっついた。それを見た彩花はとうとう両手で顔を隠してしまう。だって、思い出してしまうから。


「顔、なんで隠すんだ。彩花さん、なんか言ってくれ」


 彩花は手で顔を覆ったまま、もにょもにょと話しだした。幸田は聞こ逃さないように耳をぐっと近づける。


「だって、さっき……てるときは」

「え? ごめん聴こえにくいんだけど」

「あのね! さっきお布団の中では学さん、私のこと彩花って呼び捨てにしてたのに終わったら彩花さんになってるの」

「うん?」

「私たちあんなにくっついたのに、さん付けちゃったら離れていったみたいでやなのっ」

「う……ん。へ!?」


 幸田は待っていた答えが予想外すぎて、頭のてっぺんから声を出してしまう。要約するとこうだ。身も心も交わったのにどうしてさん呼びでまた離れていくの?


(呼び捨てにしろって、そういう事か!)


「ごめん、よく分かったよ。けど、いいのか? いちおう俺なりに自制をかけるためにあえてそう呼んでいたんだけど」

「え、どういうこと?」


 幸田は口角をぐーっと上げて微笑んだ。そして彩花の腰に腕を回して引き寄せる。あっという間に彩花は幸田の腕の中、横向きに抱かれて彼の顔を見上げていた。


「あ、の?」

「呼び捨てにするって、俺にとっては特別なことなんだ。俺のものと定義づけたようなもの。あくまでも俺の中でだけど。いいの?」

「それって、私は学さんのものって意味?」

「それ以外にある?」

「……ないと、思う」


 目の前の幸田は、いつもの優しいお日様のような笑顔ではない。ちょっと前にも見た気がする、優しいお兄さん彼氏から急に男の空気を放ち始めた。


「さいか」

「はひっ」

「彩花」

「……はい」


 彩花は思う。いつもの穏やかな学さんも大好き。でも、こんな大人の学さんはもっと好き。だって……。


「かっこいい」

「ん?」

「学さんの優しいところも、こんなふうに真剣な表情も全部かっこいいよ」

「まったく……夕飯どうしてくれるの」


 夕飯がなにか関係あるのかと彩花は首を傾げる。自分が言ったかっこいいと目の前のご馳走は関係ないのにと。そんな彩花の気持ちが伝わったのか幸田はぎゅっと眉間に力を入れた。とても渋いいい顔だ。


「学さん、かっこいいです」

「あーもう! ちょっとごめん」

「え、え、いっ……ひっ、やっ」


 幸田は彩花の無邪気な煽りに苛立ちと喜びと劣情がむくむくと湧いてきた。それを恋愛初心者の彩花にぶつけるのはあまりにも酷であると幸田は判断した。でも、ちょっと発散させないと非常にまずい。だから幸田は彩花の白くて柔らかな首の付け根をパクリ。少しだけ歯を立てた。


「痛くないはずだよ。俺の理性を総動員しての行いだからね……歯型はすぐ消える」

「歯っ、歯型っ!」


 幸田はにこりと笑みを一つ落として「夕飯の続きだ」といって自分の席に戻ってしまった。彩花は首に手を当てたまま呆然としている。いつもは幸田が振り回されているのに、今夜に限っては逆だった。彩花にとってそんな幸田はやっぱりかっこいいのだ。


「彩花? 食事は大事だよ。しっかり食べないともたないよ」

「う、うん。食べる、食べるよ」


 彩花さんじゃなくなった。彩花自身が望んだことなのに、胸の奥がさわさわして落ち着かない。キュンキュンしておさまらない。


(これってなんなの? これって、もしかして)


「恋、なのかな……」

「ぶっ! ケホッ、ゲホゲホッ。何言ってるんだよ。まさか今気づいたとか、言わないよな」

「わたし……」


 瞳をうるうるさせながら彩花は言葉を探した。


(なんで泣きたくなるのかな? なんでこんなに胸の奥が苦しいのだろう。恋ってこんなもの? どうして学さんを見るとぎゅって苦しくなるの?)


「ウソだろ……」


 幸田は天井を見上げた。今思えば初めから、彩花は自分を陣地テリトリーに入れることを許していた。いや、自分だけでなく皆にそうだったのだろうと。でも、今日やっと本当の意味で彼女に受け入れられたのではないだろうか。


「学さぁん……わたし、学さんが好きです。学さんがすること全部かっこいいの。どうしよう」

「ちょっと待って。どうもしなくていいだろ? 俺も彩花のこと好きなんだ。彩花がすること全部、可愛くてしかたがない」


 今度は彩花が幸田の隣にやってきて、幸田の瞳を見つめる。


「ほんとう?」

「本当だよ。じゃなきゃあんな事! するわけないだろう……」


 幸田は恥ずかしくて仕方がなかった。こんなにはっきりと言わなければ伝わらないなんて、この歳でこんな恋愛をすることになるなんて。


(こんな展開、俺も初体験だよ……)


「よかった!」

「うえっ?」


 ドン! とぶつかるように彩花は幸田の胸に飛び込んだ。嬉しい気持が溢れたから。油断していた幸田はそのままごてんと畳に倒れる。


「学さん、ありがとう」

「いや、こちらこそ……っ!?」


 チュッ……。不意打ちのキス。


「今度、学さんのお仕事を見たいの。陸上自衛隊の演習あったら絶対に教えて?」

「分かった。けど、俺の仕事って地味だから見つけられないと思うけど」

「そんなことない。大丈夫!」


 彩花の自信有り気な大丈夫に幸田はクスッと笑って、頬に流れた髪をそっと梳いた。


「じゃあ、招待する」

「うん!」


 大人の恋愛ってなんだっけ? することはちゃんとしたのにどうしてこうなった。いや、これでいいんだよ。二人は十分に恋愛をしている。温度差はあるけれど、それがきっと恋。


 カメラと彼女の両方を幸田は胸に抱きしめる。これがセットだから俺たちは輝ける。彩花も思った。カメラと彼があるから私らしくいられると。


「学さんをたくさん撮るかねっ」


 二人の恋は始まったばかり。まだまだ続くよ? どこまでも……。

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