第178話

 しとん…しとん……。

 アスファルトに落ちる雪を見ていると、そんな音が聞こえてきそうだ。


「そうだ。アキラにお願いしたいことがあるのだけれども」


 リョウはたなから一冊のラブコメを抜いた。

 尊敬している先生の作品で、アニメが放送されたこともある、とてもメジャーなタイトル。


「ん?」


 アキラがさらっと目を通す。


「この次のシーン」


 主人公と女の子のバレンタインが描かれている。


 手づくりチョコをプレゼントして……。

 口移しで食べさせてあげる、というやつ。


 むがむが⁉︎

 アキラが死にそうなくらい赤面する。


 できるか⁉︎ バカち〜ん!

 と抗議の視線を向けてきた。


「頼む! アキラにしかお願いできないんだ!」


 むむむ……ぷいっ!

 今度は顔をそらされちゃった。


「俺のマンガのためだから」

「うぅ……」

「アキラが協力してくれたら必ず上達する!」

「むぅ〜」

「俺たち、キスした仲だろう。それに比べたら、ソフトだと思うんだ」


 やれやれ。

 君は仕方のないやつだなぁ、と言いたそうな表情で、アキラは窓辺から立ち上がった。


 まずはお口にチョコをセット。

 アキラが選んだのは、サイコロみたいな生チョコ。


「さあ、こい」


 リョウはベッドに腰かけた。


 花のみつを吸おうとする鳥みたいに、アキラが高さを調節して、ぐい〜っと唇を近づけてくる。


 ドキドキドキ。

 これはたまらん。

 今日のアキラは、コンディションが良くないから、不機嫌さ50%、照れ50%みたいな顔つき。


 ちょこん。

 リョウの歯に硬いものが触れる。


 くぅ〜!

 唇が触れそうでギリギリ触れない。


 なんという寸止め!

 これが口移しチョコの魔力か!


 数秒後におそってきたのはココアパウダーの苦味。

 かと思いきや、砂糖の甘みと生クリームの風味が、すぐに口の中を支配してくる。


 人生はチョコレートだ。

 苦い体験のあとに、甘い体験がくると、クセになりそう。


「ケホッ……ケホッ……これで満足したか?」


 アキラは乱れた髪を整えたあと、口元を手の甲でぬぐった。


「おう、この世に生まれてきて良かったと、心の底から思えたよ。アキラ様々だな」

「まったく……」


 アキラは携帯をポチポチと操作する。


『攻守交代だ。次はリョウくんが僕に食べさせなさい』


「ええ……マジで?」


『自分がやりたくないことを、他人に強要させたとは、いわせないからな』


「ぐっ……」


 きたよ。

 ド正論。

 ここでアキラの機嫌を損ねると、面倒くさいことになるから、おとなしく従うことにした。


「ほらよ、いくぞ」


 リョウは歯のあいだにチョコを挟んで、アキラの肩に手をかける。


 ぐいっ〜と接近して……。

 息がかかりそうな距離まで詰めたのだが……。


 スススッ!

 アキラがのけぞる。


 おい、こら!

 逃げるなよ!

 リョウは開いた距離をすぐに戻した。


「ちょ……まっ……恥ずかしい!」


 ええい!

 我慢しやがれ!


 アキラを無理やり押し倒すようなポーズになったとき、その悲劇は起こった。


「リョウ、おでんができたって、母さんが呼んでるぞ〜!」


 スーツ姿の父がやってきて、部屋の中をのぞいたのだ。


「うわぁ⁉︎」

「きゃ⁉︎」


 口から心臓が飛び出そうになる。


「ちょっと! 父さん! いつ帰ってきたの⁉︎」

「おっと、すまん、楽しいシーンなのに邪魔したな」

「そうじゃなくて! 飯は後でいいから!」


 父はいったんドアを閉めたあと、わずかに開けて、


「ちゃんと避妊具は持っているか? 父さんたちのをやるぞ。あと、母さんの足止めは任せておけ」


 親指を立てるジェスチャーを見せつけてくる。


「そんなんじゃないから!」

「若いなぁ、リョウは」


 せっかくのムードが台無しになってしまった。

 アキラなんか、恥ずかしい姿を見られて、落ち込んでいるし。


「ごめんな、アキラ」

「いや……」


 しとん……しとん……。

 冬の空気は冷たいから、仕切り直そうぜ、と切り出せるような状態ではない。


 そうだ。

 ショーは終わったのだ。


 続きを妄想することはできるけれども……。

 やめよう、運がなかった、調子に乗っていた、たぶん神様がそっぽを向いた、それだけの話。


「おでん、部屋で食べるか?」

「……うむ」


 普通のデートみたいになっちゃった。

 人生って、なかなか思い通りにいかないんだな。

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