第97話

 うわぁ……。

 1年前の体に戻れないかな。

 5,000円くらい払ってもいいからさ。


 そんな益体やくたいのないことを考えながら、朱雀のパネルの前で、リョウはストレッチをしていた。


 ヤバい。

 太ももの筋肉がブヨブヨしている。

 これ、走っている途中で痙攣けいれんしないか、ものすごく心配。


 アキラに会いたくねえな〜。

 リョウのリレー出場を喜ぶから。


『ほら、みろ!』

『これが天の配剤はいざいというやつだ!』

『今日はリョウくんが勝つ日なんだ!』


 とかいわれて、プレッシャーになりそう。


 でも、運命の神はイラズラ好きらしい。

 こっちに小走りしてくるアキラが見えた。


「リョウくん!」

「救護所テントはいいのかよ」

「リョウくんがリレーに出るって聞いたから。抜けてきた」


 わざと視線をそらした。


 勝ってね。

 そういわれたら、きっと自分のことが嫌いになる。


 ところが、アキラはポケットに手を突っ込むと、何もいわずにアメ玉のようなものを差し出してきた。


「これは?」


 ブドウ糖キャンディだ。


「僕にできること、よく分からなくて。がんばれって言葉も好きじゃないし。そりゃ、がんばれでリョウくんの足が速くなるなら、100回だって唱えるけれども」


 へえ、意外だな。


「糖分を摂取したら、エネルギーになって、少しはパワーが上がると思う。これが、僕にできる精一杯なのです」

「サンキュー」


 リョウはその場でキャンディを舐めた。


 優しい味がする。

 不安のモヤモヤがすうっと溶けていった。


「勝利は約束できん。でも、ベストは尽くすと約束する」

「全力を出して失敗したら、それは成功だよ」

「アキラらしいな」


 会場のアナウンスが入った。

 男子リレーの選手は集合してください、と。


 朱雀のパネルを見上げる。

 不撓不屈……どんな苦労や困難にもくじけるな、という意味。


 陸上を捨てたリョウにとって、この四文字は、グサッと胸に刺さるものがある。


「あ、ちょっと待って!」


 アキラに腕をつかまれた。


 手のひらに人の字を3回書かれる。

 有名なおまじないの一種だが。


「あれって、自分が書いた人の字をむんじゃないの?」

「おまじないの由来はね、他人に呑まれる前に、自分で自分を呑んじゃえってことらしい」


 これだとリョウがアキラを呑むことになる。


「僕の気持ちを呑んでよ。リョウくんと一緒に走るから」

「まさか、このタイミングで気持ちを押し付けられるとはな」

「さあ、早く」


 もらった気持ちを呑み下す。


「いってくる」

「うん、応援している」


 途中、クラスのテントに寄った。


「頼むぞ、宗像」

「任せとけ、キング」


 ミタケと軽くタッチを交わす。


 その時、1年生の女の子がこっちにダッシュしてきた。

 リョウの知らない子だが、ミタケは、げぇっ⁉︎ という顔つきに。


「おにいのバカ〜! そんなかすり傷で、リレーを辞退するとか! バ〜カ! バ〜カ!」


 子どもっぽい悪態をつくと、どこかへ走り去ってしまった。


 きゃはは〜!

 キング、叱られてやんの!

 というキョウカの笑い声が追い打ちをかける。


「あれって?」

「すまん、俺の妹だ」

「へぇ、兄に似ず、かわいいな。でも、妹に格好いいところ見せられなくて残念だったな」

「う……うるせぇ」


 ミタケ妹がこの学園にいるのは知っていたけれども。

 そうか、そうか、ブラコンだったか。


「心配するな、キング、お前のぶんも走ってやるから」

「さっさといけ! 調子にのって痙攣するなよ!」


 笑ったお陰で心が楽になった。

 これなら上々のパフォーマンスを発揮できそう。


 第一走者が位置につく。

 赤、青、白、黒のハチマキを巻いた一年生たち。


 緊張しているな。

 はじめての体育祭だから仕方ないか。


 そこまで思考を巡らせたとき、あれ? 俺は意外と緊張していないな、ということに気がついた。


 バンッ!


 本日の最終競技。

 男子リレーのピストルを校長先生が鳴らす。


 きゃあ! と悲鳴があがった。


 赤チームのバトンパスで小さいミスがあったのだ。

 渡し損ねたバトンが浮いちゃったけれども、なんとかキャッチ。

 次の選手へとつなぐ。


 リョウの順番が近づいてきた。


 みんな速い。

 さすが高校生。

 中学生とはパワーもスタミナも違う。


 前のランナーが直線に入ってきた。

 リョウは、ファイトー! と声をかける。


 後ろを見ながらゆっくりと加速して……。

 バトンを受けとった瞬間、リョウの勝負が始まった。


 現在、赤チームは2位。

 前の選手とは4m、たぶん0.5秒くらいの差。


 追い抜けるなんて最初から考えていない。

 この差をキープする、死ぬ気で守り抜く。


 50mを過ぎた。

 それまで4mだった差が、5mくらいに開いた。


 この時、リョウは初心者がやりがちなミスを犯した。

 次の50mを相手のスピードに合わせて疾走したのである。


 100メートルを通過する。

 まだ差は5mくらい。


 でも……。

 体力が……。

 穴だらけの燃料タンクみたいに、スタミナがドバドバと漏れていく。


 くそっ!

 もっと酸素をくれ!


 そう意識したとき、体がガクッと重くなった。


 クラスメイトが見えた。

 いけっ〜! 宗像〜! という声が遠くに感じられる。


 マズい、オーバーペースだ。

 思ったよりも1年間のブランクが大きい。


 次の50mは少し緩めるか。

 でも、あまり差をつけられたら、優勝が絶望的に。


 どうする?

 これが最後の走りだと思って、ぶっ壊れる勢いで飛ばすか?


 苦しい。

 胸がペチャンコになって、口から心臓がこぼれそう。


 でも、中学の3年間だって苦しかった。

 あれに比べれば、あと10秒くらいの我慢じゃないか。


 そうだ。

 あと10秒だ。

 それで楽になれると思ったとき、膝がガクッとなり、フォームがわずかに乱れた。


 初心者がやりがちなミス、その2。

 ゴールを意識しちゃうというやつだ。


 1位との差が6mになり、7mになる。

 苦しい……届かない……ますます苦しい。


 手のひら。

 アキラがおまじないをくれた。

 心を奮い立たせてみるけれども、残りの50mが絶望的に思えてしまう。


 どうする⁉︎ どうする⁉︎ どうする⁉︎


 1秒が長い。

 10倍とか20倍くらいに感じられる。


 酸欠の1秒。

 地獄のような苦しみ。


 昔から走るのが好きだった。


 この限界にぶつかる感じ。

 たまらなく好きだったんだ。


 でも、今は……。

 心が折れてしまいそう。


 神様、いないかな。


 強さがほしい。

 こんな弱い自分に打ち勝つ強さ。

 数秒だけでいいからさ。


 ふっと脱力しそうになったとき、天使のような声が聞こえた。


「リョウくん!」


 たくさんのギャラリー。

 ライブ会場みたいなノイズ。


 でも、リョウくん! の一言はたしかに届いた。

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