第98話

 昔から憧れていた。

 少年マンガのヒーロー。


 スポーツ物の主人公が、ヒロインからの『がんばれ!』に触発されて、プチ覚醒かくせいするみたいなシーン。


 あんな都合のいい展開。

 リョウには無縁だと思っていた。


「リョウくん! がんばれ!」


 なんだよ⁉︎

 がんばれは好きじゃないって言ってたくせに。


「がんばれ! リョウくん!」


 キツいな。

 もう十分がんばっているから。


「リョウくん! がんばれ!」


 鬼か。

 100%の力で走っている人間にムチを打つなんて。

 アキラはスパルタだ。


 でも、思う。

 人生には何回か、120%がんばらないといけない日があって、今がその瞬間なのだと。


 昔の陸上のコーチ。

 大会前に助言してくれた。


『宗像は苦しくなると腕の振りが小さくなるから……』


 続きはなんだっけ?

 ひじの高さ? 背筋をまっすぐ?


 そうだ、肩甲骨だ。

 力を抜いて肩甲骨から大きく動かすイメージ。


 下半身が限界。

 ならば上半身でカバーする。


 マンガの主人公だって、限界にぶち当たっても、次回のエピソードで進歩するじゃないか。


 今がそのチャンス。

 そう信じる。


 リョウは再加速した。

 最大8mついていた差を7mに戻した。


 まだ、いける。

 大きく腕を振る。


 前のランナーの背中まで、あと6m。


 できれば、もう1m。

 いや、50cmでも30cmでもいい。


 出しきれ! 出しきれ! 出しきれ!


 泥くさい根性論は嫌いだ。

 そのせいで怪我に泣いたランナーをたくさん見てきた。


 でも、ベストを尽くすと約束した。

 アキラとの誓いを破るのはもっと嫌いだ。


 コーナーを曲がり直線コースへ入る。


 相手が9歩進む。

 ならばリョウは10歩進んでやる。


 思い出す。

 リョウは後半から伸びてくるランナー。

 1年間のブランクのせいで、単純なことも忘れていたらしい。


「よくやった、2年坊主!」


 そんな声がした。


「あとは俺に任せろ!」


 本物のヒーローがニカッと笑う。


 3年生のほしイッセイ先輩。

 トラック競技をやる者なら誰もが知る、男子陸上界のホープだ。


 バトンを受けとったイッセイ先輩は、ロケットスタートを炸裂させて、あっという間にリョウを置き去りにしていった。


 美しいフォーム。

 れする。


 シャープな筋肉が躍動する。

 まるで背中に翼が生えているみたい。


 あれだけ速いと思っていた他のランナーが、小学生みたいに思えてくる、それがこの人の走りだ。


 イッセイ先輩はコーナーに入ると、外側のレーンから前のランナーを抜いて、この空間にいる男子と女子を興奮と熱狂の渦へと叩き込んだ。


 1位の座を奪われたランナーが、そりゃ、ねえだろ! の顔つきになる。


 世界でも通用する走り。

 トラック競技の日本代表になるべく、18年間を積み上げてきた人のパフォーマンス。


 ただただ美しい。

 走りが芸術となり、人々を感動させる。


 リョウは息が苦しいのも忘れて、楽しそうに走るイッセイ先輩の横顔を、遠くから眺めていた。


 ゴールテープが跳ねる。

 後続に2秒くらいの大差をつけてゴールしたヒーローは、拳を大きく突き上げたあと、くるりと宙返りを決めた。


 イッセイ! イッセイ! の星コールを浴びながらウイニングラン。

 赤色のバトンが青空に大きな放物線を描く。


 メッチャ格好いい。

 全身に鳥肌が浮いてくる。


「なんだよ……俺が必死にならなくても……」


 余裕じゃねえか。

 こっちは限界まで消耗したのに。


 ふと目を開ける。

 本日のMVPがリョウを見下ろしていた。


「やったな! 優勝したな!」

「イッセイ先輩、お疲れさまです」

「いい顔してたぞ。メッチャ苦しいって顔。でも、最後の50m、お前は笑っていた。陸上経験者だろう」

「ええ、まあ……」

「走るのが好きなやつは、苦しいときに笑う」


 あれ、なんだろう。

 急に涙が浮いてきた。


 陸上なんて嫌いなのに。

 苦しいだけなのに。


 この人みたいなスーパーヒーローに出会って、自分よりも才能があり、努力している人間の存在を知るだけなのに。


 温かい涙。

 空がグチャグチャに歪む。


「イッセイ先輩、いつか世界陸上でメダルをとってください」

「任しとけ! なんたって俺は星! 生まれた時からヒーローだからな!」


 すげぇ。

 冗談半分で訊いてみたのに。

 1秒も迷うことなく、世界陸上でメダル、て宣言したよ。


 こんなランナー、初めてだ。


 自分は走るために生まれてきたと信じている。

 振り切れすぎていて、ホント尊敬する。


「お疲れさま」


 額に冷たいものが触れた。

 スポーツドリンクを手にしたアキラだった。


「リョウくん、ナイスだったよ」

「全然活躍しなかったけどな」

「でも、全力を出した」

「おう」


 アキラがキョロキョロする。


「さっきの人は?」

「知らないのか、3年生の星イッセイ先輩だ。うちの学園からユース五輪にいって、話題になったじゃねえか」

「ああ、どうりで速いわけだ。ちょっと風格あるかも」

「速いってレベルじゃない。神だよ」


 まったく。

 物知りなのやら。

 世間知らずなのやら。


「でも、僕の目の錯覚じゃなければ、星さんよりリョウくんの方が速かったね」

「おい、笑えねえ冗談だな。向こうは陸上王子だぞ」

「でも、リョウくんが一番速かった」


 アキラが真顔でジーッとにらんでくる。


「だから、星さんに1,000票入っても、リョウくんに1票入ります」

「なんかアキラらしい」


 受けとったスポーツドリンクを飲む。

 一口、さらに一口、ごくごくと喉を鳴らす。


「体育祭、楽しかった?」

「まあな」

「僕も」


 リレー後のスポーツドリンクは、過去のどんな飲み物よりもおいしくて、ほんのり青春の味がした。

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