62.最後の仕事(*)

 その時棚の後ろから、ぎい、と音がした。


「何だ?」


 ヴァリスが音をした方に目をやった。極度に緊張したリヒトが力んだせいで床が軋んだのだ。サザは息を飲んだ。鼓動が一気に早まる。


「おいそこ。誰かいるのか?」


「何言ってるの! 私はこっちよ!!」


 ハルが大声で叫ぶ。


「……」


 その必死さに何かを感づいたらしいヴァリスはハルの言葉を無視して目を細めた。音がした棚の後ろに足を進める。


(まずい!)


 棚の後ろにヴァリスが回り込む。リヒトがハンドルに手をかけたまま目の前に現れたヴァリスを見て震えている。


「……お前、リヒトじゃないか。何でここにいるんだ?」


 ヴァリスが、リヒトが手に置いたハンドルから繋がった鎖を目で辿り、天井のシャンデリアを見た。


「はは……シャンデリアを俺の上に落とそうとしたんだな? ということはばあさんの話も嘘だろ。危うく殺されるところだった」


(完全にばれた)


 サザは頭が真っ白になった。もう作戦通りに決行するのは無理だ。


「残念だったな。しかし、こんなことを考えたのはお前じゃないな? 誰だ?」


「僕だ」


「本当の事を言った方がいいよ。言わないと俺の剣がお前に突き刺さる事になる」


 リヒトは震えて涙を流しながら、ヴァリスを睨み返す。


「絶対言わない」

 

「そうか。じゃあこうなるな」


 ヴァリスがリヒトに向かって剣を突き出した。


(リヒト!)


 サザは咄嗟に包丁を逆手に握りしめて、ヴァリスを目掛けて梁から飛び降りた。


(させるか!!)


 サザは落下しながら、包丁でヴァリスの後頭部へ切り掛かる。しかしヴァリスは体を捻って難なく剣でサザの包丁を受けて斬り返した。


 がつん、という剣と包丁の刃がぶつかる金属音が大きく響き、サザが握っていた包丁の刃が柄から外れた。手下を倒した時に傷んでいたのだ。


(しまった!)


「やっぱりな」


 ヴァリスは包丁が折れたせいで体勢を上手く立て直せなかったサザの動きを見切り、サザの脇腹を蹴り飛ばした。


「っあ……!」


 跳ね飛ばされたサザは背中から床に激突して転がると、ハルと子どもたちとユタカの前にうつ伏せに倒れた。ヴァリスがこちらに向き直る。


「母さん!」


 リヒトが叫んで、サザに駆け寄った。


「っ……」


 サザはヴァリスの蹴りを腹にまともに受けた衝撃で、床に倒れたまま動き出せない。何とか折れた包丁の握りを捨てて口に咥えていた包丁を握り直すと、顔だけを上げてヴァリスを見た。


「サザか。何で血塗れなんだ?……まさか、今の時間だけで外の奴ら殺してきたのか? しかも包丁で?」


 ヴァリスがサザの前まで歩み出て笑いながら言った。サザはヴァリスを睨みつけた。


「大した腕前だよ。こんな手の込んだ事を考えるのはプロだ。腕の立つ暗殺者というのは本当だな」


「な……」


 サザは驚愕した。ヴァリスはサザの正体を知っている。


「信じられないって顔だな? それはお前を捕まえようとして襲ったのも俺だからさ。お前が来たせいでまた俺の計画がぶち壊しだよ」


「計画……?」


「俺はお前とカズラとアンゼリカを利用してアスカ国王を暗殺しようと思ってさ。でもお前がこうして抵抗してきたら、ここでお前もユタカもガキも、全員殺さないといけなくなるだろ。本当にお前は邪魔ばかりしてくれるよ。まあそれでも、ここでお前とユタカが死ぬだけでもイスパハルの戦力はがた落ちだからな。前向きに考え直すさ」


 ヴァリスは整った口元に美しい笑みを浮かべた。それでも目が全く笑っていないヴァリスの笑顔は対峙した相手に底知れぬ恐怖を呼び起こすかの様だ。


「あとさ。ユタカがこんなにずたずたになってるのはお前のせいだよ」


「……どういう意味だ」


「俺はお前への国王の庇護を解除するためにユタカに死ぬ前に離婚するように頼んだけど、なかなか了承してくれないからリンチが長引いてさ。ユタカはお前を守ろうとしたんだ。どうせ死ぬのに。馬鹿な奴だよ」


「お前……!」


 ユタカは最後まで、サザを守ろうとしたせいで、こんなに傷ついてしまったのだ。その心の優しさは、サザに向けられていた。


(この男だけは、絶対に殺す)


 サザは怒りで震える拳で包丁を握りしめ、痛みを堪えて立ち上がった。


「信じた奴が悪い。俺と戦う気か? 暗殺者なら剣士と真正面から戦って勝つような能力は無いんだ。お前は夫も息子も助けられなかったよ」


 ヴァリスは剣先をサザに向けて剣を構えた。


(考えろ……)


 サザはヴァリスの目を見据え、深呼吸した。

 ヴァリスの言う通り、まともに戦えばサザは絶対に勝つことは出来ない。


 でも、『戦って勝つ』というのは、サザが生き残るという意味だ。サザはもう、真実の誓いによる罰をうけて死刑になる。


(私は、勝たなくていいんだ。ヴァリスを殺せさえすれば)


 サザは、包丁を構え直した。


「……リヒト」


 サザはヴァリスの方を向いたまま、自分の後ろにいるリヒトに言った。


「リヒトは誰が何と言おうと絶対に悪くない。私がそう言ってたことを、忘れないで」


「母さん……?」


 ヴァリスがサザに向かって剣を構える。リヒトとハルが息を飲む。


(もうこれで本当に、最後だ)


 サザは包丁を構えて地面を強く蹴り、跳躍して真正面からヴァリスに飛びかかった。


「無駄だぞ!」


 ヴァリスが向けた細剣が、飛びかかったサザの左肩に突き刺さる。


「……っ」


「母さん!?」


 リヒトが泣き声に近い叫びを上げた。しかしサザは退かずに、そのままの勢いでヴァリスの懐に飛び込んでいく。サザの肩に細剣がめり込み続け、そのまま根元まで貫通する。 大量の血がサザの肩から溢れ、サザとヴァリスを一緒に濡らしていく。


「な……!?」


 サザの予想外の動きに動揺したヴァリスは剣をサザから引き抜こうとしたが、サザは歯を食いしばって上腕の骨でヴァリスの剣を挟み、押さえ込んだ。


「私の命は、もう要らない。お前さえ殺せれば!!」


「何だと……!」


 サザは身体の全ての痛みをそのままに無視してヴァリスの懐に飛び込むと、最後の力を振り絞って、ヴァリスの心臓に包丁を突き立てた。


「っは……」


 サザは包丁の握りを思い切り捻る。ヴァリスは口から血を吐く。サザは歯を食いしばり、ナイフに渾身の力を込め続ける。ヴァリスは血を吐きながら、体勢を保たずに足元から崩れ落ちた。

 サザはヴァリスにのしかかられる様にして一緒に床に膝をつく。サザとヴァリスの血が混ざり合って木の床に広がっていく。


「……」

 

 激しい失血で急激に身体の感覚が遠のき、目が霞み始める。サザはヴァリスの身体の下でナイフを固く握りしめながら、はあ、と大きく息を吐く。

 その時、ヴァリスの剣の握りがその手から、力なく離れた。


(……やった)


 サザは握った包丁の柄を通して、ヴァリスが絶命した感覚を感じた。

 ユタカを深く傷つけたヴァリスを殺した。

 暗殺者として。


(私は人生の中で最もやらないといけない事を、ちゃんとやり遂げた)


 薄れゆく意識の縁で、サザは最後にそう思った。


「サザ!!」


「母さん!」


 ハルとリヒトが呼ぶ声が遠くに聞こえる。

 互いの刃物が身体に突き刺さったサザとヴァリスは、二人の流した血溜まりの中に折り重なる様にして倒れ込んだ。

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