第17話 藤重という人
ギャルが指さした席に向かうと、そこは、他の席とは少し雰囲気が違った。
笑い声はギャハハとかキャハハではなく、ハハハとかフフフフだったし、机の上はすっきりとしていて、枝豆の皮とか空いたグラスが散乱していなかった。
空いた席に座ると、そういえば本当はだれも私のことを呼んだわけではないのだということを思い出して緊張し、身が固くなった。
私は、飲み会中の席の移動が苦手だ。みんなのように自分のグラスを持って自由に席を移動していくことができない。移動した先の人達が「なんで来たんだよ」と鬱陶しがるのではないか、元いた場所の人たちが「私たちといるのがつまらなかったからめぶは移動したんだ」と悲しむのではないかなどという考えが私を元の席に縛り付けた。
不慣れな席移動に、自分のグラスを持ってくるのを忘れてしまった。私が新しい飲み物を注文していると、隣から声がした。
「ハイボールですか。いいですね。」
声の主は、その言葉の印象よりもかなり「幼い」男性だった。ひょろりとしていて、恰好は高校生の時の私服です、という具合だった。同じく顔立ちも高校生のように幼い印象を受けた。
「あ、はい。好きなんです。」そう言って初めて自分がハイボールが好きなのだということを知った。
男性は、大人ですね、とほほ笑み「何年生ですか。」と聞いてきた。
「えっと4年生です。大巻芽吹子といいます。」
あんまり女性慣れしていないんだろうななどとと第一印象で思っていたのに、男性は思ったよりもしっかり目を合わせて私の言葉を聞いてくれ、私の方が気恥ずかしくなって目をそらしてしまった。けれど、男性は私から視線を外していないようだった。
「めぶこさん、ですか。めずらしい名前ですね。僕は藤重と言います。2年生です。」
「下の名前はなんですか?」
「オウダイです。中央の央に大きいの大で央大です。」
素敵な名前ですねと照いもなく言えたらよかったのだが、結局重厚感のあるいい名前ですね、などとよくわからないことを口走ってしまった。そして、次に何を話せばいいのかさらに焦って、沈黙を埋めるようにハイボールを飲んでいた。
藤重は沈黙の間もにこにこと酒を飲んでいた。
藤重は2年生と言っていた、ということは20歳か、若いなと思った。冷静に考えれば2つしか変わらないのに、なんだか藤重が幼いその見た目よりもまして、子どものように見えた。そう思っていると、なんだか緊張もほどけ自然と口が開いた。
「ずっと100点を取ってた人の75点と、ずっと25点をとってた人の75点って同じなんですかね。」
藤重はいきなりの質問に少し驚いていたが、すぐに面白いゲームを渡された子供のような顔になり、カルピスサワーを一口飲んだ。
「学校教育には相対評価と絶対評価のどちらもが使われます。大雑把になってしまいますが、75点がクラスで何位なのか、平均点と比較した時にどうなのかという相対評価では、どちらも一緒なのかもしれませんね。けれど、絶対評価では個人が前回から何点上がったか、下がったか、どこが前回と比べて克服できたのかなどを評価します。だから絶対評価で言えば、その評価は一緒ではないでしょうね。」
藤重は教育学部なのかもしれない。けれど今はそれよりももっと気になることがあった。
「じゃあ、最初から真面目な学生が出した宿題と今まで宿題なんか出したことのない不良の出した宿題は一緒だと思いますか?」
藤重は少し机を見つめた後、その視線を私に移した。
「その1回の宿題を出した、というチェック項目上では、一緒でしょうね。けど、現実では真面目な生徒はその1回を出したことで特に褒められることはないでしょうが、不良は職員室で絶賛の嵐に会うかもしれません。ホームルームで改心をみんなの前でたたえられるかもしれませんね。それを真面目な生徒はどういう表情で聞けばいいのか、ってことは考えるべきかもしれないですけどね。」
「じゃあ、見た目が違う同じ優しさは?」
藤重は、次の私の言葉を待っていた。
「…実はさっき、ちょっとしたトラブルがあって、そんときに見た目がすごい派手な、まあいわゆるギャルが私を助けてくれたの。私それにすごい感動して、ありがとう、ありがとうって思ってたんだけど。今思い返すと、私の隣に座ってた優しそうな女の子もずっと私のこと気にかけてくれて、暴言を吐いた2人をいさめてくれてたんだよね。私、それに気づかなかった。…いや、気づいてたけど、当たり前だと思ってしまってた。」
私は話すうちに息を吸うタイミングが分からないくらい早口でまくし立てていて、しかも息が切れるごとに酒を飲んでいたので、途中からだいぶ酔っていた。口が心と直接つながって動いていて頭の審査を受けずに出ていっていた。藤重にわかりやすく話しそうという意識がないばかりか、むしろ口から出た音を聞いて、私はそんなこと考えてたんだなと思っていた。
「まあ、不良が実は優しいってのは分かりやすいしポップですからね。」
藤重は濃いカルピスサワーのとなりに置いてある、氷がほぼ溶けてかなり薄くなっているカルピスサワーをお冷や代わりに飲んだ。
「でも、他の人の優しさだって、今は気づいたんでしょ?ならいいじゃないですか。」
真正面から藤重にそう言われ、私は、たしかに、とうなずいてお利口にハイボールを飲んだ。
それから私たちはいろんな話をした。私は西加奈子の作品が大好きだという話や午前中は映画を観ても集中できない悩みがあったがそれは元気があり余り過ぎているからだという結論に達し筋トレをしてから鑑賞すると集中できたという話、また教養科目の「生物の体内」は教授が毎年冬になると調査と称し、自分の船で世界一周を始めるため授業は休講になり、実質3回程度講義を受ければ単位が取れることなどを話した。藤重は私の話に何か糸口を見つけては、いつも考えていることや好きなこと、住んでいる寮の新勧には酒の並ぶ食堂に先輩がバイクで突っ込んでくることなどを話していた。
私たちはかなり酔っていたが枝豆の皮をぶちまけなかったし、空いたグラスは店員さんに回収してもらった。けれど藤重と話しているといつも自分を覆っている厚い膜が少し薄くなって、いつもより深く息を吸えた。
でもその感覚は吉井さんと話すときの、苦くて窮屈で肩の凝る、甘いそれとは程遠いものだった。
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