若葉の頃

きんちゃん

第1話


「柳田……おい柳田、聞こえるか?」

 静かだが、芯の強い男の声に俺は目を覚ました。

 無意識のうちに目を開け、ここが病院のベッドの上であるということを理解すると、視界に入ってきたのは声を掛けてきたであろう男の真剣な表情であった。

 その真剣な表情から伝わる彼の強さに気圧され、逃げるように俺はもう一度目を閉じる。

(……何だよ、まだ死んでないのか、俺は……)

 笑ってしまいそうになるのを必死に堪え、もう一度眠った振りを決め込む。流石にもう少し時間を稼ぎたかった。どう振る舞うべきなのか、せめて大まかな方針くらいは決めてからでないと対峙できない、と思わせるだけの迫力が目の前の男にはあった。

「……柳田、おい柳田!」

 今にも肩を掴み揺さぶらんばかりの迫力で……だが実際には小声で……男は再び俺に声を掛けた。

 その声に潜む激情と、それを抑制する男の理性の力を同時に感じ、俺は完全に戦意を喪失していた。

(……死んどいた方が良かったんじゃねえか?)

 この男と向き合わなければならないこと……及びこれから起きるであろう諸々の面倒なことを考えると本気でそう思う。

「……脳波は覚醒を示しています」

 別の男の神経質そうな細い声がした。

(……クソ、余計なこと言いやがって!) 

 さっき一瞬目を開けた時には認識出来なかったが、ここが病院であるならばそう告げたのは医者だろう。

 一瞬の間があって、再び先の男の声がした。

「……柳田、意識が戻ったものとして伝えておく。俺は新宿署の柴田という者だ。……医師の先生のお話では脳には異状は無いということなので、お前も自分がしたことを理解しているだろう」

 一語一語を噛みしめるような言い方だった。

「……明日からお前の身体の状況を見ながら詳しくお前のしたことについて聞かせてもらう。……いいな、絶対にだ!」

 今までで最もドスの利いた声で、柴田と名乗る男は告げた。

 新宿署ということは刑事なのだろうか?いずれにしても警察関係者であることは間違いないだろう。

「とにかくまずは身体を治せ。……言うまでもなくこれはお前のためじゃない。お前には被害者に対して自分のしたことを説明する義務がある」

 そう告げると彼は病室を出ていった。




 柴田と名乗った男が去ると、病室には例の医者と、若い女性の看護士の二人が残った。

「柳田さん、聞こえていますか?……可能であれば検査を始めたいのですが……」

 医者は柴田とは打って変わって歯切れの悪い声を掛けてきた。 

 さっきの一言で抱いた、神経質で優柔不断そうな男……という印象が強くなる。

 だが、それがこの男の本質ではないだろう。

 一見弱々しく見えたとしても医者というのはエリートだ。生物として強い奴らだ。

 まず頭脳の面で優秀でなければならないが、それと共に心身が弱ければ医師免許を得るための過酷な試験勉強を勝ち抜くことなどできない。

 つまりこの医者の弱々しい態度は、単に俺をどう扱うべきか迷っている……ということの表れなのだろう。

 まあそれは分かる気もする。

 そして迷っているという点では俺も同じだった。迷いは晴れず、医者の呼び掛けに反応する気にはなれなかった。

 さっき医者が言った通り、俺が目を覚ましていることはとっくにバレているのだろう。しかし、かといって彼らに馬鹿正直に応じることが、俺に何か利益をもたらすとは思えなかった。

 もちろん彼らは医者と看護士というプロだから、俺の身体を治療するために時間と労力をきちんと割くだろう。

 だがそうして、俺の命を延ばすことに何の意味があるのだろうか?それは彼らにとってもあまり意味の無い行為だろうし、俺にとっては間違いなく苦痛を増やすだけの行為だ。


 思考が徐々に回り出すにつれて、俺は意識を失う直前の映像を鮮明に思い出していた。

 苦労して準備してきたトラップを発動させる瞬間の高揚感。

 我先にと隣の人間を突き飛ばして出口へと殺到するクズ共。出口が封鎖されていると知り、意味もなく右往左往しているその様はとても可笑しかった。

 呻き声を上げて倒れてゆく周囲の人間たち。

 飛び交う怒号と悲鳴。

 出口を確保しようとガラスを割り金属をぶつける激しい音。

 そうした光景を俺は「なるほど、これがパニックになった時の群衆の行動か……」と興味深く見ていた。

 

 そして独特の甘い香りが完全に店内に満ちる頃には、このパニックの仕掛人が俺であることが奴らにも露見していた。

 俺の方も、隠す必要がなくなったことを契機として一気に躁状態に入った。 

 残りのトラップを大っぴらに発動させ、出口に殺到する人間たちに手当たり次第に周囲のドル箱・パチンコ玉なんかを投げつけた。

 当然向こうからも物は飛んできたが、彼らは逃げることに必死で、その抵抗はあまりに弱々しいものに思えた。

(おいおい、もっと腰を入れて反撃してこねえと俺を止められねえぞ……) 

 と油断していたところで、いきなり後頭部に衝撃を受け俺の意識は薄くなっていったのだった。

 薄れゆく意識の中、パトカーのサイレンの音が徐々に近づいてきていることだけは妙にはっきりと聞こえた。

 

 要約するならば、俺……柳田大輔は新宿区の客の密集するパチンコ店に毒ガスを散布して大量粛清を図り、そして誰かの反撃を受けて意識を失ったのだった。

 そして現在は警察に捕まり病院のベッドの上に横たわっている、ということだ。

 


 



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