青い目の烏、赤い目の狼
蛙形
冬の日と海
_____!
銃声で目を覚ます。大方同居人のものだろう。
外はもうだいぶ明るい。冷えた空気を吸い込んで深く息を吐く。
夢を見た。
遠くで、海に向かって小さい影が叫んでいた。それだけの夢だ。
階段を下りてストーブに火を入れる。いくらか寒さには強い自負があるが、それでも冬の夜や朝は堪える。ストーブ前の椅子に掛けて、少しすると雪を踏みしめる音が聞こえる。振り返ると古びた扉が軋んで、冷気と共に入ってきた自分より頭一つ分ほど小さい全身真っ黒の人間がもそもそとコートから顔を出しゴーグルを上げてにへ、と笑う。
「ただいま」
「お帰りなさい、カラス」
自分の背丈の半分もある銃を背負ったカラスがずい、と先程の銃声の原因であろう鳥を差し出してくる。
「今起きたのか?」
「まあ」
「おねぼうさん。顔洗って、これ捌け」
「お前がやればいいんじゃないですか」
ぼやくと小さい人間が小さい目をぐっと細める。じいっと、子供を叱るような目で
「おおかみ。いい加減できるようになって」
と更にずい、と鳥を近づけてくる。ため息をついて鳥を受け取れば黒い人間はうん、と満足げにうなずいて踵を返した。
「カラス、また狩りに?」
「違う。薪」
言葉少なに言い残して外に出ていく。納屋の薪を取りに行くらしい。鳥を一旦置いてさっと顔を洗って窓を見る。外はもう随分と明るくなって雪の照り返しがどうにも目に痛い。
戻って鳥を運ぶ。今朝見た夢のせいか、慣れない事をするせいか、鳥がやけに重く感じる。
ナイフで鳥の首を落として羽を毟る。気が重いまま毟っているといつの間にか戻ってきていたカラスが寄ってきて無言でサングラスを掛けようとしてくる。寝室に置いたままだったものをわざわざとってきてくれたらしい、鳥の匂いが付かないようにそのまま掛けてもらう。
「ありがとうございます」
「うん」
日に弱い目に窓の多い場所は辛い。細かい毛を抜いて内臓を取り出す。作業を無言で見守っていたカラスもそこそこの手つきにひとまず安心したのかどこかへ行ってしまう。
血を抜き終わった鳥をストーブに運ぶ、傍の椅子に座って火掻き棒で遊んでいたカラスが顔をこちらに向ける。
「できたか?」
「うん、鍋を下さい」
手渡された鍋に鳥を入れて薪をわきに除けたストーブの中に入れる。
「ありがと、これ」
とカラスが傍のテーブルを指す、先日ようやく干し終わった鹿肉の切れ端と小さいパンが置いてある。
「どうも」
「ん」
椅子に体を丸めて座りながら火掻き棒で火をつついているカラスを横目に食事を持って部屋に上がる。
机の前に腰掛け引き出しから紙と木炭を取り出す。干し肉と硬いパンをかじりながら何を描こうか考えて、ふと、目が覚める前に見た光景がよぎる。
「海か・・・」
海に行ったのは、此処に来る数年ほど前のことだ。人生で一度だけ見て、それ以来忘れがたいらしく、今でも時折夢に見る。
きっかけなど、思い出したくもない。少々難しい追手から逃げていた時だった。
産まれた時から全身真っ白、赤い瞳。物珍しい見た目の子供が生活に貧している家に生まれたとき、その結果は判ったようなものだ。売られ、祭り上げられ、見世物にされ、人間としての尊厳すら売り物になった。
何回目かの冬のある日、商人が白狼を捕まえたという噂を聞きつけたそいつらに連れられ、積もる雪の中をゆっくり進む馬車の荷台でただじっとしていた。
雪が重く強く降り続き、誰も欠伸をするような変わりない景色に、たった数秒間。だが確かに誰もの注意を惹く。
鼓膜を揺らす、狼の、遠吠えが。
そのほんの少しの意識を揺るがす音と共に、荷台の外に躍り出た。
遠吠えに追われるよう吹雪の中を裸足で、ただひた走る。空腹と吹雪に思考もかき消されていく、何か、何か、なにか。
耳鳴りが酷い、風の音も聞こえなくなった。ふらつきながら暫く木の陰に身を隠そうとしたその時、ぱっと陰に光が差す。
見慣れたランタン、見慣れた人間、慣れすぎた諦めが頭を過ぎった。
その時。
「_!」
バシュッ、という重い音と共に応援を呼ぼうとした追手の喉が撃ち抜かれる。
直後、
___ピューィ、ピューィ、ピューィ、___
鳥の、否、笛の音がする。
助けか、罠か。どちらにせよその方向に向かうしかなかった。少なくとも、追手達の仲間ではない。気力を振り絞って少しだけ速く、音のした方へ向かう。今度は近くの木から短く笛の音がした。
見上げると、雪を積もらせた影が此方を視ていた。
「なんで、」
「来い。追われてる。此処も安全じゃない」
とす、と長い裾を翻して影が降りてくる。此方を一瞥し、踵を返してずかずかと己の膝ほどある雪をものともせずに歩き出した。
「どこに行く」
「夜明けは、まだ。でもすぐ来る。森、出る」
自分の半分以上はある銃を持っていて、ただたどしく喋る声は幼い。怪しい事に変わりはなかったが、ついていく以外の選択肢を考えるには、もう体力も気力も足りなかった。
「なんで助けた?」
「喋らない」
黙れ、と言われたらしい。それからは、只黙って歩いた。暫く歩いていると、線路に出る。くるり、と影が此方を向いたあと、近くの木をペシペシ叩く。
「登る」
「何?」
「登る。速く」
するすると木に登り、此方を見下ろす。屈んだ木の枝を叩いて雪を降らせてくるので、仕方なく隣まで登って、線路を見下ろす。
「どうするつもりですか」
「貨物列車、すぐ。それ乗る」
貨物列車が来るのでそれに乗り込む算段らしい。じっとしている間は少しだっただろうが、絶えず擦り切れていく精神と思考には、途方もなく長く感じるものだった。
そして本当にやって来た貨物列車の屋根のない荷台に飛び降りると、ぴくりとも動かない顔がこちらを見ている。
「何です?」
「静か、じょうず」
呆れてため息しか出なかった。それから少しばかり積荷の影に隠れて、空が白みだす頃、おもむろに影が立ち上がった。
「すぐ町。降りる」
言い終わるやいなや飛び降りる影に続いて飛び降り、遠ざかる音を追いながら歩く。
「何で、助けたんですか」
「3回目。うーん、良いことしたなーって」
「それだけ?」
「うん、わたし狩人。相棒いるの、良いから?」
「俺が逃げると、思わないんです?」
「うーん、1人、別に困らない」
この人間にはどうでもいいことらしい。其処に居たから助けただけ、というのは生きていた中でおそらく最も衝撃的だった。だからこそ、迷う必要はなかったのだ。
「なら、お前に、付いていってやります」
「とてもいい、嬉しい」
ぱちぱちと手を叩いて此方に向き直り、ゴーグルを外す。朝日の当たった眼は、深い深い青色をしていた。
「よろしく、おおかみ」
「………ああ、カラス」
いいねそれ、とカラスが笑った。
明るくなってきた線路沿いを歩く。照り返す雪が目に痛く、空腹も重なり酷くふらつく。カラスはしばしば此方を振り返りながら歩を進めていたが、町が見えてきたあたりでばっと思い出したように鞄を漁りだしたかと思うと、紺色のマントを取り出す。
「貸す、目立つ」
「ありがとうございます」
袖を通し、目深にフードを被る。丈の長いマントは目の前の人物より遥かに大きく、おおかみすら超えるものだった。
「お前のものですか」
「違う、父さん」
再びガサゴソと鞄を漁り、ぐいぐいと小さいパンと干し肉を押し付けられ町に入る手前の木陰に座らされる。
「それ、食っていい、待ってて」
町へ走り去っていったカラスを見送る。もしかしたら戻ってこないかもしれない、あるいはまた商人の奴らみたいなのに渡りをつけているかもしれない。でも、まあ良い逃避行だったな、と、硬いパンをゆっくりと咀嚼する。久しぶりの食事を取れただけでも十分なくらいだと思った。
そんな考えとは裏腹に小走りで戻ってきたカラスが紙と水を手渡してくる。紙に書かれている文字をしげしげと眺めるおおかみの様子を見て少し笑いながら手を差し伸べて
「行こう、おおかみ」
と言った。
持たされた紙は切符と言うらしく、それを持って列車に乗って、海へ行った。
周りの視線はちらちらと喧しかったが、カラスが堂々としていたのでそれに倣った。フードは脱がなかったが、少しだけ視線も気にならないような気がした。
列車を降りて、カラスは歩きながら白い砂利のようなものを見せ、ゆったりと話し始めた。
「父さんは無口だった。でも一回だけ話してくれた。海の向こうの島から来たんだ、って。いつか死んだら粉にして海に撒いてくれって」
「それが」
「そう、これが父さん、こっちが、母さん。母さんは父さんよりだいぶ前に死んだけど、一緒にね」
まあこんな早くになるとは思わなかったけど、と少し疲れたように笑うカラスが歩みを止める。
これが海か、というのが率直な感想だった。遠くで空と水がくっついていて、のどに張り付く風は妙な匂いで、大量の水はカラスの目に似た色をしていた。
暫しぼんやりと海を眺めていると、カラスが小瓶の蓋を開けて、手の上で二つの骨を混ぜて、海へ流しだした。骨は漂ったり沈んだりしながら、やがてどこか判らなくなった。
2、3同じことを繰り返しているのを眺めていると小瓶からころり、と少し大きな塊が転がり出る。
「それは?」
「これはいいんだ」
少し大きな骨を大事にそれぞれ空になった小瓶に収めなおして、最後の骨を海に撒く。
カラスは、骨の入った小瓶を二つ、大切そうに抱きしめなおした。
その日は海の近くの木の下で眠り、次の日の夜明け、カラスはふらふらと一人で海へ歩いて行った。
何も言わずにそのまま行かせ、起きずにぼんやりと後ろ姿を見ていた。
「____!」
小さい影が、海に向かって叫んでいる。もう殆ど言葉にならない言葉で。
そのまま小さい影が蹲ってさらに小さくなる。それだけ見て寝返りを打つ。
あれはいま幾つなんだろう。あれは言わなかった、知らないのかもしれない。自分のように。
ただどれだけ泣いていたとして、それを他人に見せるほど子供ではなかったし、自分も、それにかける言葉なんて知らなかった。
ことり、と木炭を机に置く。窓を見ると部屋の外からじいっと此方をのぞくカラスに気が付く。
「どうかしたんですか」
「何回か声かけた。飯食ったか」
「大丈夫。少し考え事をしてただけさ」
「ふうん」
あまり興味を惹かなかったらしい。目線はもう紙に注がれていた。
「海だ」
「そう」
「上手い」
「そりゃどうも」
木炭で描かれた白黒の海は比較的お気に召したらしい。出来上がった絵を差し出すと、ちらちら視線を絵とこちらを行ったり来たりさせる。子供のような仕草に笑う。
「あげましょうか」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃ、わたしの部屋に置いてくる」
この部屋は過去にカラスの私室だったようで、現在も幾つかの絵が残っている。白い狼の絵もその一つで、今自分が「おおかみ」と呼ばれている所以らしく、おまえだよ、と言われて面食らった記憶も良い思い出だ。絵と、残された紙と木炭は母親の趣味のものだと言っていた。此処に住みだした頃、暇そうにしているのを見たカラスが持ってきて「何か描け」と無茶を言ってきた。今では、まあそれなりの趣味になっている。
当の本人は現在両親の部屋に移り住んでいて、そこにもいくつかの絵が飾られているらしく、今度は海の絵が増えるようだ。
部屋に戻るかと思われたカラスがひょこっと廊下から部屋に顔を出す。
「おおかみ、今日の鳥はシチューにしよう」
「いいね」
「準備しようって言いに来たんだ」
そう言ってからせわしなく足音を立てて自分の部屋に戻る音を聞きながら椅子から立つ。
まずは木炭で煤けた手を何とかしないといけない。比較的汚れていない方の手でドアを開け、ここに来た時より幾らか自分のものの増えた部屋を後にする。
階段を下りる前にふと振り返って、今のカラスの部屋の扉を見つめる。扉には木でできた烏のプレートが飾られている。
いまあの部屋には、骨の入った小瓶が二つ飾られている。
もしかすると、いつか自分も小瓶の群れに加わるのかもしれない。
或いは。
青い目の烏、赤い目の狼 蛙形 @kaeru_no_katati
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