第30話決めるのは殿です

 平手政秀の自害の当日、信長は彼に会っていた。

 そのきっかけとなったのは、森可成の報告であった。


「平手五郎右衛門、監物、甚左衛門の三名は、どうやら織田大和守家の信友に内応しているそうです」

「……で、あるか」


 那古野城のとある一室で聞いた信長は、少しだけ落胆した面持ちで頷いた。五郎右衛門とは馬のやりとりで揉めていたが、いずれこちらから非を認めて謝ろうと考えていた。平手一族は内政や外交に優れた者が多いため、これから一層働いてほしいと期待していたのだ。


 三人の内応の発端は自分であることも理解している。おそらく馬の一件以外でもうつけを演じる上での振舞いが、織田弾正忠家の当主の器ではないと考えてしまったのだろう。周りを欺くためとはいえ、身から出た錆びでもある。


「それで、いかがなさいますか?」

「まだ具体的に何かしたわけでもない」

「しかし、平手一族に呼応する者が現れるかもしれません。あの政秀様も……」


 可成の言葉に「爺やは大丈夫だ」と言う。信頼を表す力強い言葉だった。

 しかしこの場合の信頼は『甘え』と同義だった。


「爺やが裏切ることはありえない。それは俺が一番分かっている」

「……そうですね」


 可成は少しだけ不安に思ったが、信長が自信たっぷりだったので、それ以上何も言えなかった。

 そのとき、部屋の外から「殿。いらっしゃいますか?」という声がした。

 成政だった。


「なんだ成政。何用か?」

「平手政秀様について、お話したいことがあります」


 信長と可成は顔を見合わせた。今まさに話していることだったからだ。


「いいだろう。入って来い」


 信長が許可を出したので、成政は静かに襖を開けて中へと入る。

 成政は信長と可成に頭を下げた後「殿。一つお聞きしてもよろしいですか?」と唐突に言う。


「いきなりなんだ? まあいいだろう。何でも聞け」

「殿は、平手様を隠居させるおつもりですか?」


 これもまた唐突な問いだった。信長は「そんなつもりはない」と言う。


「爺やはまだまだ織田家に必要な人間だ。隠居させるなど考えもしない」

「分かりました。ではここからは私の想像で話します。無礼なことを言うとは思いますが、ご容赦ください」


 ここで信長は心がざわつくような、なんとも言えない不安に襲われた。

 まるで今までの日常が、当たり前だと思っていた風景が壊されるような――


「平手政秀様は、自害なされるでしょう」

「――っ!?」


 信長は声も無く驚いたのは成政だけではなく、可成にも伝わった。

 想像もしなかったことを突きつけられて、信長の思考が止まった。


「何ゆえ、そのようなことが言えるのですか、成政」


 話すことができない信長に代わって、可成が無表情のままの成政に問う。

 あくまでも表情を崩すことなく、成政は語った。


「平手様は織田家の吏僚に自身の仕事を振り分けておりました。初めは老齢だからと思っていたのですが、どうやら近々隠居するからとおっしゃっていたのを、吏僚の一人が聞いていました」

「…………」

「しかし、殿が隠居のことを知らないのであれば、それはすなわち……」


 信長は「爺や……」と呟いた。

 可成は「しかし、それだけで自害と決めつけられるのでしょうか?」と疑問を呈した。


「どうして、成政はそういう結論に至りましたか?」

「……平手様が何かを思い詰めている顔をしていました。ただそれだけです」


 実を言えば平手政秀が自害することを成政は未来の知識で知っていた。

 これは試金石でもあった。平手の自害を止めることができれば、歴史も変えることができるかもしれない。

 しかしそういう意図を無視しても、平手政秀には生きてほしいと成政は思っていた。彼に教えを貰ったのは利家だけではなかった。


「それで、殿に他に理由がないかと訊ねに来たのですが」

「……まさか。三人の内応を知って?」


 可成の一言に信長は反応した。

 平手が人一倍責任感の強い男だと誰よりも知っているのは信長だった。


「……是非もなし。自害は止められぬか」

「殿……」


 可成は信長がこんなにも悲痛に満ちた表情をしているのを見たことが無かった。

 まるで身体の一部を失ったような痛みに耐えているような。


「今なら、まだ止められるかもしれません」

「……自害を覚悟している者を、止めることはできん」


 信長はきつく目を閉じて、成政の進言を跳ね除けた。

 死にたい者をそのまま綺麗に死なせてあげることは、戦国において慈悲深い行ないだった。


「爺やの気持ちを決めるのは、爺や自身だ」

「いいえ。違いますね。決めるのは殿です」


 信長は目を見開いた。可成もこれには驚いた。

 成政が信長の意見を否定したのは、これが初めてだった。


「殿が生きてほしいと言えば、平手様は生きると思います」

「…………」

「殿は平手様を失っても良いのですか? 死んでもいいと思っていますか?」


 どこか信長を責める口調になっているのを見かねて、可成は「言葉を慎みなさい、成政」と叱った。


「主君に対して無礼ですよ」

「だから最初に『無礼なことを言うとは思いますが、ご容赦ください』と申したはずです」


 その返しに可成は言葉も無かった。

 成政は信長に対して、説得を続ける。


「お願いします。平手様とお会いになられてください」

「……会って何を言えばいい?」

「一言、生きろと言ってあげれば、平手様は生きてくれると思います」

「……男の覚悟を踏みにじれと?」

「覚悟や矜持よりも、平手様の命のほうが大切です」


 成政は頭を下げて懇願した。


「もしも自害を思い留まれなくても、最後にお話しするだけでもいいじゃないですか。死んでしまったら、もう平手様と話ができなくなりますよ」


 信長は迷っていた。同時に怖れていた。

 平手を自害に追い込んだのは、全て自分のせいだという気持ちが強かった。

 それに会って何を話せばいいのかも分からなかった――


「殿! ご決断を!」


 成政が声を張り上げた。

 彼もまた、平手を死なせないことに必死だった。


「平手様が死んでしまえば――もう何もかも面白いとは思えませんよ!」


 その心からの叫び、魂の篭もった直言に、信長は動いた。


「急いで爺やのところに行くぞ! 可成! 成政! ついて参れ!」


 決断した信長は早かった。襖を乱雑に開けて、そのまま馬屋のほうへ駆けていく。

 可成は成政に言った。


「あなたにも、熱いところがあったんですね」

「……見苦しいところをお見せしました」

「いえ。見ていて気持ちよかったですよ」


 可成はそう言って信長の後を追う。

 成政は「先に行ってください」と背中に投げかけた。


「ちょっと平手様に恩義のある馬鹿を連れてきますから」



◆◇◆◇



 信長が平手政秀の屋敷に着いたのは夕刻のことだった。

 平手家の下人や侍女は突然の信長の訪問に驚いていた。

 一緒に同行していた可成は「平手政秀様はどこですか?」と一番まともに口を聞けそうな侍女に言う。


「ひ、平手様は、自室にいらっしゃいます……」

「案内してください――殿?」


 信長は聞くや否や屋敷の中に入った。平手家の屋敷には何度か訪れたことがあった。

 廊下を早足で駆ける。そして自室の前に着いた。


「爺や、入るぞ!」


 屋敷中に響き渡る大声。

 そして中へ入る。


「……若様?」


 そこには今まさに切腹しようと、上着を脱いで短刀を持っていた平手政秀の姿があった。

 後数刻来るのが遅かったら、間に合わなかっただろう。


「爺や! この――何しているんだ!」


 呆然とする政秀の手から短刀を奪い取る信長。

 そしてわなわなと震えながら叫んだ言葉は怒りか悲しみか、信長自身分からなかった。


「死ぬな! 生きてくれ!」

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