第23話赤塚の戦い

 後に赤塚の戦いと称される戦と前後して、那古野城で城を守っている犬千代に話しかけた者がいた。その男は賢そうだが線の細い、ひょろひょろとした体格をしていた。


「失礼。若様――殿の手勢は幾ばかりか分かるか?」


 犬千代は矢倉の上に立って見張りしており、いきなり後ろから気配もなく、しかもそのような重要なことを訊ねられたので、思わず「誰だ!」と刀に手をかけながら振り返った。


「おっと。待ってくれ。私は味方だよ」


 右手を軽く挙げて他意のないことを示す男。犬千代は見覚えのある家紋を刺繍した着物を着ているなと思った。


「……あんた、誰だ?」

「私は丹羽長秀という。実は殿に挨拶をしようと思って来たのだが、既に出陣なさっていた。まあ行き違いと言うやつだな」


 軽く笑いながら、犬千代の隣に並び、城の外を俯瞰する丹羽。

 犬千代はなんだこいつと思いながら「間が悪かったんだな」と吐き捨てた。


「若――この際俺も殿と呼ぶか――陣触れをせず手勢の八百で出陣したんだ」

「ほう。相手方は千五百と聞くが……」


 犬千代は不思議そうに顎に手をやる丹羽に「殿と仲間たちなら、余裕でやっつけるだろうよ」と言う。


「可成の兄いも小平太も新介も強えからな。それに気に食わねえが内蔵助もいるし」

「ふうん。そうか」

「そんで丹羽……殿は挨拶しに来たって言っていたけどよ。本当の目的はなんなんだ?」


 鋭い質問を投げかける犬千代。しかし丹羽は「いや。挨拶だけだ」と背伸びをした。少し暖かくなりつつある気候だからか、気持ちのよい日差しで思わずしてしまった感じだ。


「亡くなったお屋形様が認めた新しい当主だからな。挨拶せねば無礼だろう?」

「まあな。筋は通っている」

「それに、葬儀での奇行で興味が湧いた」


 犬千代はもちろん、葬儀での奇行を知っていた。だが、興味を持つというのは理解できなかった。丹羽も奇人なのだろうか?


「どういう意味だ?」

「あれは自分の味方を探るためだろう? 自分に従うかどうかの試しと私は考えている」


 犬千代は僅かながら隣にいる男に興味を持った。信長の意図をそこまで読み取れるのは、自分たちの他にいなかったからだ。それに意図を正確に読み取ってここに来たということは――


「つまり、殿の味方になってくれるのか」

「ご明察。微力ながら織田弾正忠家のために戦う所存だ」


 犬千代は「先見の明ってやつがあるんだな」と実の兄利久に教えてもらった言葉で丹羽を評した。


「味方は多いほどいい。それにあんたは賢そうだからな」

「話が早くて助かるよ。これからよろしく頼む」


 丹羽が笑って応じると「あんた賢そうだから、一つ聞かせてくれ」と犬千代が切り出した。


「あんたのように考えている人は、どれぐらいいる?」

「…………」

「殿の味方になってくれるって奴は――」


 質問の途中で丹羽は「答えられないな」と返した。


「というより、君は……そういえば名前を聞いていなかったな」

「前田犬千代だ」

「そうか。犬千代、その問いは無意味、いや愚問だな」


 犬千代は怪訝な表情で「どういう意味だ?」と問いを重ねた。


「いいかい? たとえば私が味方になってくれそうな人を挙げるとする。しかし、それが真実であることの証明は誰がする?」

「……それは」

「その人物を知らない君に判断できるかな? それとも会ったばかりの私を信用できるかな? それに私が挙げたその人物に騙されているかもしれない」


 犬千代は何も言えず、黙って丹羽を見つめていた。丹羽は少しこの青年に教えてやらないといけないなと思った。


「誰が信用できるのか、できないのかは自分の目で見て判断するしかないんだ。誰かの保証でその人を見るのではなく、自分の目で見定めなければならない」


 犬千代は丹羽の言っていることが少し分かるような気がした。


「犬千代。君は小姓だ。殿の身の回りを守り、怪しげな者を退けるのが仕事だ。であるならば、正しく人を見る目を養わなければいけないよ」


 信長の奇行の真意を見抜いた丹羽だからこそ、信頼がおける言葉だった。

 犬千代は黙って頷いた。


「さて。戦の様子はどうなっているかな」


 丹羽は遠くを見つめる目で、矢倉から空を見上げた。

 空は雲一つない晴天であった。



◆◇◆◇



 赤塚の戦いは――信長の軍が優勢であった。


「何故だ!? 兵力はこちらのほうが倍なのに、何故だ!」


 うろたえているのは、謀叛を起こした山口教継の息子、山口教吉だった。確かに今川家の援軍を加えた千五百の軍勢に、半数の八百で対抗できているのは、どう考えてもおかしかった。


 初めは山に陣を取っていた信長が、平地に下りてきたときはこちらの勝ちだと教吉は確信した。兵法を知らぬうつけだと思い込んだ。相手の三間半もある長槍や南蛮渡来の鉄砲を見ても、数の優勢は変わらないと判断した。


 しかし――それらは間違っていた。


「右翼が壊滅寸前です! 援軍を願います!」

「左翼も中央も混戦状態です! 我が軍の被害は甚大!」


 次から次へと来る報告はこちらの不利を知らせるものばかりであった。

 教吉は歯軋りしながら、どうしてこうなったのか、必死に考える。

 信長の兵の一人一人が強すぎる。こちらが弱いというわけでもないのに……


 実際、戦場にいる内蔵助は驚いていた。

 相手が弱すぎる。いや、自分たちが強いのか。

 理由は思い当たっている。山口の兵は農兵――つまりかり出された百姓が中心だからだ。

 百姓は戦う訓練を受けていない。しかも今川家の援軍がほとんどだ。故に山口を助ける義理がないし、必死にもならない。

 こちらは信長が鍛えた小姓たちが中心となっている。毎日戦闘訓練を受けていて、並みの大人の二倍以上強くなっている。


 要は兵の錬度が違うのだ。そして主君に対する思いも違う。この戦、信長に勝たせてあげたいと小姓たちは思っている。

 内蔵助もその一人だ。今、五人目を討ち取っても、息一つ切らしていない。既に殺しに慣れ始めていたこともあり、まだまだ戦えそうだった。


 内蔵助は槍を繰り出しながら考える。確かに長槍や鉄砲の導入の効果はある。戦専門に小姓たちを鍛えた意味も分かる。だが実際の戦でこんなにも成果が出るとは、誰が思うだろうか?


 隣で倒れている兵を刺している小平太も、前方で十文字槍を振るっている森可成も、誰一人、こんな大戦果をあげられると予想しなかった。

 いや、信長だけだ。あの不世出の鬼才、織田信長だけが、この結果を分かっていた。手に取るように、分かっていた。


 かなり頭の回転が早い人であると知っていた。

 誰も思いつかない発想をすると分かっていた。

 末恐ろしいと思わなかったと言うと嘘になる。


 私は今――とんでもないことに巻き込まれている。

 歴史の変わり目という、大きな出来事に。


 内蔵助がそう錯覚してしまうのは当然のことだった。

 それほど――圧倒的だった。



◆◇◆◇



 結局、赤塚の戦いは引き分けに終わった。

 一時期が圧倒していた信長の軍だったが、数の不利は否めなかった。

 しかし、倍の戦力を打ち破ったのは大きかった。


 赤塚の戦いの後、山口教継と教吉の親子は今川家に呼び出され、切腹を申し付けられることになる。信長が『山口親子の寝返りは偽りである』と噂を流したからだった。


 半数で敵を追い払ったという活躍は、信長の覇道の第一歩となる。

 小姓たちは大いに喜んだ。

 その中で一人、内蔵助は暗い気持ちで一杯だった。


 歴史を変えるには、小さな積み重ねが重要だ。

 下準備の他に、先を見通す目も必要だった。

 平凡なオタクだった自分に、はたしてできるだろうか?

 自分の運命を変えることなんてできないんじゃないか?

 考えれば考えるほどに、思い悩んでしまう――

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