第9話前田家の兄弟

「犬千代! お前、何度言えば――」

「うるっせえな! いいだろうが別によお!」


 小豆坂の戦いの後、犬千代は実家に呼び戻されていた。理由は兄、前田利久が病に伏せっているからだったが、それは建前で父親の前田利春が犬千代を説教するためであった。

 説教の内容は信長の奇行からだった。利春曰く、若君とはいえ、仕えている主を諌めるのも家臣の役割である。いくら小姓でもそれを怠るとは何事かという論だった。


 しかし犬千代は信長がうつけのふりをしていると知っていた。だが彼はそのことを父親には言えなかった。利春は口が軽いわけではないが、いくら親でも主君がひた隠しにしていることをべらべら喋るのは、それこそ家臣のするべきことではないと断じていた。


「聞いたぞ! お前、若様の奇行を助長しているそうではないか!」

「ああん? 主君の命令に従うのが、武士だろうが!」


 ということで真実が言えない犬千代は、文句を言う父親の逆らうしかなかったのだ。初めは適当に聞き流そうとしていたが、短気な犬千代と頑固な利春は相性が悪く、いつしか口論になっていた。


「馬鹿みたいな格好していたときから――」

「馬鹿って言うんじゃねえ――」


 いつしか犬千代の昔の素行まで話が及んでしまう。前田家の屋敷は怒声に包まれていた。別室でどうしたものかとおろおろしている犬千代の母のたつ。それを見かねて、前田家の次男、前田利玄まえだとしはるが部屋に入って「もういいじゃねえか、親父殿」と仲裁に入った。


「なんだと!? お前は犬千代の味方か!?」

「味方っつーか。俺はどっちの味方でもねえよ。だけどさ、二人が言い争っても若様が改めるわけねえじゃんよ」


 利玄は面倒くさそうに言う。だが、一応もっともなことだった。利春と犬千代がここで口論しても、諫言を信長が聞く保証はないのだ。

 利春はぐっと言葉を飲み込んでしまった。その隙に「兄上の見舞い、行くだろ?」と利玄は言った。


「ああ、そうだな」

「それじゃ父上。これにて」


 利玄は犬千代を連れて部屋から出る。その背中をじっと見る利春。その顔は怒りと落胆、そして失望に彩られていた。


「あのさ。もう少し歩み寄れないの?」


 利玄は利家を見上げながら言う。別段、利玄は小柄というわけではない。犬千代が大きいだけだ。のらりくらりとした性格だが顔は男前。しかし犬千代は兄弟の中で利玄が苦手だった。一番苦手のは利春だが、なんというか、読めないところが彼の兄にはあった。


「親父が頑固なだけだ」

「それ、お前にも言えることだぜ? 適当に返事して『承知しました』って言えば収まるのによ」

「……嘘は言いたくねえ」

「嘘っていうか、虚報も兵法のうちだけどな。三十六計逃げるに如かずとも言うし。ま、お前はそれでいいと思うぜ」


 犬千代は「どういうことだ?」と怪訝な表情で訊ねた。利玄は「言葉どおりだよ」と立ち止まって答えた。


「お前は真っ直ぐ生きればいいんだよ」

「…………」

「親父が何を言おうとな。お前だってそっちのほうが気持ちいいだろ?」


 そして利玄は「ほれ。あそこいるから」と前方の部屋を指差す。犬千代は「……利玄兄、その、なんだ」とさっきの言葉のお礼を言おうとする。


「別に礼なんていらねえよ。適当に言っただけだ。じゃあな」


 言葉にする前に利玄は早足でそのまま去ってしまった。犬千代は「読めねえのに読まれるって、案外嫌だな……」と呟いた。だから利玄は苦手なのだと彼は思った。


「入るぜ、利久としひさ兄」


 一言かけると中から「ああ、いいぞ」と許可が出た。がらりと障子を開けると寝巻き姿の兄、前田利久が横になっていた。ごほんと咳をして「悪かったな犬千代」と詫びた。


「なんだ。本当に病気だったのか」

「ああ。そのせいで説教食らうことになったなお前」


 犬千代はまた利久兄は痩せたなと思いつつ「別にいいよ」と面倒くさそうに手を振った。利久は生来、穏やかな性格をしていて、いつも犬千代を気遣っていた。


「親父殿とお前は、水と油みたいなもんだからな」

「はあん? どっちが水でどっちが油なんだ?」

「親父が水でお前が油だな」

「……その心は?」

「親父はすぐに熱しやすい。お前ははねかえり者だ」


 正直上手いと思ったので「なるほどな」と唸ってしまった犬千代。利久はそんな彼の様子を見て「お前は素直だな」と苦笑した。


「きっと利玄辺りも同じこと言っただろう?」

「よく分かるな」

「当たり前だ。何年お前たちの兄をやっていると思う?」


 犬千代はやっぱりこの人には勝てねえなあと感心していた。手のひらで転がされているのが居心地悪く思わない。むしろ爽快感がある。


「……だから、お前が若様の何かを隠しているのも分かる」


 どきりとする言葉だった。ほとんど反射的に「どうして分かった?」と犬千代は訊ねる。


「あははは。その言葉で確信に変わったよ」

「……あ! やったな利久兄!」

「まあ、親父殿とお前の会話を聞いていたら、何となく分かるよ」

「兄、だからか?」


 利久はごほんと咳払いしてから頷いた。


「それに顔つきも変わった。もしかして、初陣でもしたのか? それとも黙って戦に出たのか?」


 犬千代の脳裏に小豆坂の戦いが浮かんだ。犬千代は「いいや。戦見物しただけだ」と答えた。

 利久は「どう思った?」と短く曖昧に訊ねた。


「身体が震えたよ。人同士が殺し合いしているの、初めて見た」

「…………」

「怖いと思ったし、すげえって思った。いつか戦場に行くとき来たらと思うと、どうしていいのか、分からなくなった」

「そうか……」

「でもよ。俺は決めたよ。必ず、戦場で戦うって」


 利久は少し黙ったまま、己の弟の顔を眺めた。それから「どうしてそう決めた?」と表情一つ変えずに問う。

 犬千代は背筋を正して「戦わなくちゃ、駄目だって思ったんだ」と答えた。


「上手く言葉にできねえけどよ。戦場から逃げるのって簡単なことなんだ。利玄兄も『三十六計逃げるに如かず』って言った。逃げることも大切だって分かる。でも、そこで逃げたら――自分を許せなくなると思うんだ」


 恥をかくのを嫌がるのではなく、汚名を着るのを厭う気持ちでもなく、自分を曲げることを許せないと犬千代は感じている。戦国乱世、人が人を裏切るのが当たり前の時代で、真っ直ぐ生きたいと彼は心から願っていた。


 そんな弟の気持ちが武士である利久はよく理解できた。さらに最近までかぶき者だった弟が、武士らしくなったのも認められた。そんな弟の成長を素直に喜べた。


「犬千代。それは大切なことだと思う。その信念こそ、武士としての心構えだ」

「……利久兄」

「大事にしろ。お前の思う正しい道を進んでいけ」



◆◇◆◇



 小豆坂の戦いは信長や犬千代、内蔵助たちに大きな影響を与えたが、それ以上に尾張国に多大な衝撃をもたらしていた。織田信秀の敗北で彼に敵対する勢力が牙を剥き始めたのだ。


 尾張国の反信秀勢力。尾張国の守護斯波義統しばよしむね、守護代で尾張上四郡の領主、伊勢守家の織田信安おだのぶやす、同じく守護代で弾正忠家の上役、大和守家の織田信友おだのぶとも


 北の斎藤家や東の今川家と松平家も虎視眈々と尾張国を狙っている。まさに信秀にしてみれば四面楚歌の状態である。これから信秀は心身を減らしながらそれらの強大な勢力と対峙していくことなる。


 その状況の中、まず動いたのは――


「……信秀も案外たいしたことがない」


 そう考えた彼は美濃国の信秀の勢力を削りにいく。

 目標は西美濃の大垣城。


「さて。また城を『盗り』に行くか」


 邪悪な笑みを浮かべたのは美濃国の守護代、斉藤利政さいとうとしまさ――別名、美濃のまむし。

 城どころか一国を盗った、当世一流の武将である。

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