第8話小豆坂の戦い

 尾張国の古渡城――十年以上前に築かれた、比較的新しい城であり、尾張の虎と評される織田信秀の居城である。また信長にとって思い出深い城だった。何故ならここで彼は元服したのだ。


 犬千代は軍議の間から二部屋離れた一室で、信長の帰りを待っていた。彼の身分を考えれば、今川家の進攻という最重要な軍議には参加できない。犬千代ははたして若も出陣するのか、そしてそれに自分も従軍するのか、それらが気になっていた。


 信長がしばらくして犬千代が待つ部屋へとやってきた。まだそう長くない付き合いの犬千代でも、信長が不機嫌そうなのは一目で分かった。


「犬千代! 那古野城に帰るぞ!」

「若! 軍議はどうなったんですか?」


 犬千代の問いにますます不機嫌になった信長。苛立ちを隠さず大声で「那古野城で待機せよと命じられた!」と喚いた。


「な、なに!? どうしてだ!?」

「大方、初陣を済ませたばかりの若造には任せられんとか、親父が討ち死にしたら跡を継げるようにとか、そんなたわけた理由よ!」


 実際のところ、その二つの理由は筋が通っている。うつけのふりをしているが、信長はそれらを合理的だと認められる頭脳を持っていた。しかし、これとそれとは違う。いくら合理的とはいえ――自分が信用されていない気がしてならなかった。


「くそ! 俺に兄上の軍勢の半分でも任せてくれたら――」


 兄上というのは信長の兄、信広のことである。四歳年上の長兄だが側室の子であるため、跡継ぎに指名されていない。

 その信広は信秀に先陣を任されていた。それなのに、自分は那古野城で待機せよと命じられた。信長にとっては屈辱的だった。


「若……」

「しかし、愚痴っても仕方あるまい。戻るぞ」


 信長に従って犬千代は古渡城から出て那古野城に戻る。その道中、信長の表情が晴れることは決してなかった。


 那古野城に着くなり、部屋に引きこもってしまった信長。犬千代が小姓たちに話した事情を、他の小姓から聞いた内蔵助はしばし考える。小豆坂が主戦場とのことだから、この戦は小豆坂の戦いになるはずだ。確か、信長は参戦しなかったと記憶している。ちなみに小豆坂での戦は二度目で、初回の戦で小豆のように血で染まったから、小豆坂と呼ばれるようになった。


 もし、自分が進言して小豆坂の戦いに参戦させたらどうなるのだろうか? もしかすると信長は討たれてしまうかもしれない。そうなったら今までの苦労は水の泡となる。ここは何も言わずに黙って見守るのが得策か……


 しかし彼の思惑と異なった行動を取る者がいた。それは犬千代である。彼はうじうじしている信長を見たくなかった。うつけのふりをするのは良い、だが従いたくない命令に従う信長を見たくなかったのだ。


 だから、内蔵助が竹千代に槍を教えている最中に、犬千代は信長の部屋を訪れた。


「御免! 若、いますか?」

「なんだ犬千代? 呼んだ覚えはないぞ」


 信長は布団も敷かず、不満そうに横になっていた。つまりは不貞寝である。犬千代はそんな信長に「だらしない格好しないでくださいよ」と文句を言いつつ正座をした。


「若。小豆坂に行かないんですか?」

「……兵も無いのに、行っても仕方ないだろ」

「俺たち小姓がいますよ。それに、戦いに行くことが目的じゃないです」


 犬千代の言葉に何か興味をそそられたのか、耳を傾け始める信長。そして「目的? 何を考えている?」と訊ねた。

 犬千代は快活に笑って答えた。


「戦見物に行きましょう。部屋に閉じこもってつまんなそうにしているより、よっぽど健全ですよ」


 信長は起き上がって犬千代の顔をじっと見続けた。まるで穴が開きそうなくらいだった。犬千代の言っていることを咀嚼しているようでもあった。しばらく見つめ合う二人。そして信長は大笑いした。犬千代が好きな笑い方だった。


「はははは! 親父が死ねば織田家が滅ぶという戦を見物にしに行くか! それは面白いなあ、犬千代!」


 それからの信長の行動は早かった。新介や小平太などの小姓を呼んで「戦見物じゃあ!」と騒ぎ立てる。小姓は驚いたが、別室にいた内蔵助はもっと驚いた。


「戦見物? 史書には載っていないが、信長がそんなことをしていたのか?」


 そう考える内蔵助だが、犬千代の進言とは思わない。まあこの時期の信長ならありえてもおかしくないと判断した。一方で信長の性格上、引きこもったままもありえたなと思ったのだが。



◆◇◆◇



 犬千代と内蔵助、そして小姓たちを連れて信長は小豆坂へと向かった。もちろん、戦場に近づく真似はしない。遠くから全体を眺めるために、小高い丘を登る。

 信長は小豆坂の地形の厄介さを感じた。松の木が多く、勾配の大きい坂。それによって互いの軍隊の動きが読めなくなる。


 そうした状況の中、戦は唐突に始まる――


 今川家の大将は黒衣の宰相と謳われた、今川家の軍師である太原雪斎たいげんせっさいだった。こちらの先陣である信広の部隊と接触し、交戦状態になる。初めは地の利を取った今川家が優勢だったが、信広が信秀と連携し、徐々に押し返す。


「すげえな……」


 犬千代は目の前で繰り広げられている戦――殺し合いを見て、ガタガタ震えだした。飛び散る血。怒声と悲鳴。無慈悲に消えゆく命。

 内蔵助も歴史のゲームでは表現されなかった、現実の殺人を目の当たりにして、恐怖を感じていた。この場にいたくないと思った。

 でも、二人は立ち向かわなければならないと己を奮え立たせた。


 周りの小姓たちは黙り込んでしまう。戦の訓練はしているものの、度胸はまだ身についていない。彼らは真剣に命のやりとりをしたことが無い者である。当然だった。


 気がつくと信秀の軍勢が今川家を押していた。誰の目から見ても、優勢である。小姓たちは「お屋形様の勝ちだ!」と騒ぎ出す。


「……親父の負けだな」


 犬千代と内蔵助、そして小姓たちは信長の悲しげな声でハッとする。信長はうな垂れていていた。信秀の負けを確信しているようだった。


「見ろ! 伏兵だ!」


 小姓の一人が大声で喚いた。戦場を見ると今川家の伏兵が織田家の軍勢の側面を突いていた。内蔵助は信長の視野の広さに驚いていた。それ以上に、冷静に戦場を見ていたことに驚愕した。初陣を果たしたとはいえ、戦場で繰り広げられる殺し合いに動揺せず、今川家の策を読み取るのは、並みの度胸ではできない。


「……帰るぞ!」


 信長は小姓たちに呼びかけた。これ以上見るのは無駄と言わんばかりの行動だった。

 犬千代は「もういいのですか?」と訊ねる。


「ああ。見るべきものは見た。尾張国の軍勢の問題と課題も見えた」

「問題と課題?」

「ああ。尾張国の兵は弱兵だということだ。せっかくの優勢を生かしきれなかったのはそのせいだ」


 事実、そう言われていたのだが、実際見ると信長は顕著に分かった。


「それに兵も少なすぎる。もっと兵を強くし、数を増やさなければならん」

「それは、そうですけど。どうするんですか?」


 犬千代の問いに信長は「今は分からん!」とはっきりと言った。犬千代が絶句する中、信長は以前よりもやる気に満ちた表情になった。


「だが知恵を巡らせ、工夫を考えれば、必ず解決できる!」

「…………」

「犬千代。お前も手伝え!」


 犬千代は頬を掻きながら「俺は馬鹿だから良い知恵出ませんけど」と言いつつ、彼の中にもやる気が出てきた。


「若が考えた工夫を実行できる身体は、このとおりあります。好きなように使ってください」

「で、あるか! ではさっそく那古野城に戻って考えるぞ!」


 こうして、信長の思考と意識が変えた小豆坂の戦いは終わった。

 しかしこの戦で変わったのは信長だけではない。

 現実の戦を見て、覚悟を新たにした犬千代。

 恐れながらも立ち向かう決意をした内蔵助。

 その覚悟と決意、人はそれを勇気と呼ぶ――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る