もうずっと昔から、アレックスは兄が嫌いだった。

 いや、憎んでいると言ってもいい。

 アレックスにないものを持ちながら、すべてを不要だと冷酷に捨てていく。

 兄が笑ったところなど、一度も見たことがなかった。


 そう、あの日――母が死ぬまでは。


 冷たくなった母の体に触れて、幸せそうに笑う兄。

 使用人たちは異様なその光景を遠巻きに見ているだけだった。

 静けさを破ったのは、父の怒声で。

 お前が死ねばよかった、と兄を罵倒した。

 アレックスは母を喪った悲しみと恐怖と兄の得体の知れなさに震えることしかできなかった。


 それが十年前――九歳の冬の出来事だ。


 そして今、アレックスは避け続けていた兄の部屋へとまっすぐに向かっていた。

 あの頃の、震えるだけだった自分ではない。

 父が母と話しているのを聞いて、兄の力のことは知っている。

 だからこそ、父と同じように避けていた。

 顔を合わせなければ、心を読まれることもない。

 しかし、使用人たちの噂を聞いたのだ。

 兄が意識のない女性を連れ帰った、と。

 しかも、それは死体ではないか、などと。

 死体にしか興味のない兄ならば、墓騎士の仕事だと嘯いて死体を連れ帰ることぐらいあるだろうと思って知らんぷりしていた。

 しかし、どうにも様子が違う。

 侍女を一人所望したり、貴賓室へ食事が運ばれていたり、滅多に王城に帰ってこない兄が頻繁に顔を出している。

 そして、兄がいないうちにアレックスは噂になっている貴賓室へと突撃した。

 本当に女性がいるなんて思ってもいなかったのだ。

 それも、この世の者とは思えないとびきりの美少女が。

 気が動転していて、彼女の素性すら聞かず、ただただ兄の側は危険だと訴えるだけで終わってしまったが。

 彼女は兄が笑っていたと言っていた。

 生きている人間にも笑えたのか。

 そもそも、感情というものがあの兄にもあったのか。

 母親殺しだと告げた時、兄はたしかに怒っていた。

 感情がないはずがなかったのだ。兄も、生きた人間なのだから。

 しかしそれならば何故、母が死んで笑ったのか。

 何故、すべてを拒絶するのか。

 拒絶された側の気持ちを、考えようとしたことはあるのか。

 いくら心が読めたって、聞こうとしてもらえなければ届けることすらできないのに。


(兄上がまともに人と関われるはずがない)


 彼女はきっと被害者になる。傷つかないうちに救い出してあげなければ。

 そう思っていた時、また新たな噂を聞いた。


 ――レクシオン殿下は、モルト伯爵令嬢と婚約するらしい……。


 あの美しい少女を囲っておきながら、別の令嬢と婚約するなど。

 許せない。

 どれだけのものを持とうとも、兄はそれらに価値を見出さない。

 剣の腕があっても、知識があっても、容姿に恵まれていても。

 何も、誰も信じていないのだ。そして、諦めている。

 だから、兄が憎い。嫌いだ。

 逃げ続けていたのは自分の方だったと頭の隅で思いながら、アレックスは扉を開く。

 兄の前では心は丸裸になる。

 だからこそ、アレックスは心に裏のない人間になろうと努力している。

 読まれて困るものは何もない。

 隠すから変になるのなら、隠さなければいい。

 憎悪も、好意も、怒りも、悲しみも。

 アレックスは母が死んで周囲が変化してから、感情を抑え込むこと、難しく考えることをやめたのだ。

 だから、アレックスの感情はすぐに顔や態度に出てしまう。


「兄上! モルト伯爵令嬢と婚約したとは本当ですか!?」


 勢いのままに扉を開き、室内にいた二人の驚いた顔を見て、少しだけ後悔する。


「お前こそ、そんな情報どこから聞いてきたんだ」


 兄はみるみるうちに不機嫌になった。

 この反応をみるに本当に知らないのだろう。

 自分のことに関して兄が知らないなど珍しい。


「使用人たちが噂しているのを聞いた。ついに第一王子が身を固められるのだ、と」

「まあ、一生共にしたい相手ができたのは本当だけどね」


 そう言って、兄が美少女を見つめる。

 若干、彼女の頬が赤くなったように見えたのはきっと気のせいだろう。

 しかし、今日も彼女は女神のごとく美しい。

 見惚れていると、兄に鋭く睨まれた。


「俺は認めない。兄上が誰かを愛するなんて、あり得ないだろう!」

「別にお前に認めてもらう必要はない」


 冷たい眼差し。冷たい声音。

 本気で兄は自分に興味がないのだ。

 怒りが声に出る。


「俺は兄上が嫌いだ」

「知っている」

「彼女も、母上と同じように死体として側におこうとしているんだろう? 放っておけるわけがない。モルト伯爵令嬢との婚約が事実なら、すぐにでも彼女を開放しろ!」


 叫んだアレックスに、レクシオンはため息を吐く。

 代わりに答えたのは、兄から庇おうとしていた彼女だった。


「アレックス様、ご心配なく。私はレクシオン様と一生添い遂げるつもりはありませんから」


 それはもう美しい笑顔で、きっぱりと。


「え、酷くないか」

「私は一度も頷いていないわ」

「いや、それでも、僕たちけっこう打ち解けたよね?」

「それとこれとは別問題です」


 目の前で繰り広げられるやり取りに、アレックスが口を挟む隙はなかった。

 というか、何だ、これは。

 兄が普通に会話をしている。

 しかも、狼狽えている?

 今自分の目で見ているものが信じられない。

 しかし、兄たちはそんなアレックスなどおかまいなしに会話を続けている。

 茫然とするアレックスの意識が現実に戻ったのは、兄の従者オルスが慌てて室内に入ってきたからだ。


「ちっ、本当だったんだな……しかも、父上の命令となると厄介だな」


 兄には珍しく、おもいきり舌打ちをしていた。

 おそらく、オルスが婚約話のことを伝えたのだろう。


「しかし、どうして急にモルト伯爵令嬢との婚約だなんて話になった? あぁ、シーノが手を回したのか」


 しばらく考え込むそぶりを見せた後、兄は顔を上げてアレックスをじっと見つめた。

 心を読まれているのだろうか。

 美しいアメジストの瞳に見つめられる時は、やましいことはなくとも緊張してしまう。


「アレックス、僕はこれから逃げる。あとは頼んだ」


 にっと兄が笑った。

 兄が、笑ったのだ。

 悪態と憎悪しか口にしない、弟の自分に。


(うそ、だろ……今の、なんだ……?)


 あまりの衝撃にアレックスが動けずにいるうちに、レクシオンは彼女を連れて部屋からいなくなっていた。


「いや、どういうことですか、兄上!?」


 アレックスが追いかけてレクシオンを止める可能性は考えていないのだろうか。

 いや、当然考えているだろう。兄は誰のことも信じていないのだから。

 でも、生まれて初めて。兄に頼まれた。

 憎しみで隠していた感情が少しだけにじみ出る。

 自分は馬鹿正直な人間だから、ただそれだけで、少しぐらいなら力になってもいいかもしれないと思うのだ。

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